361.「血の奥底に」
オブライエンの硬い指先の感触が、肩に残っている。彼はきっと、接近するルフを確認して突き飛ばしたんだ……。わたしが避けられない、と思って。騎士だったくせに、誰かに命を張って助けられるなんて……。
教会に群れる大量の大型魔物のせいで、一体一体の気配が読み切れなかったからこそ、反応が遅れたのは事実だ。だとしても情けない。
目尻を拭い、深呼吸した。魔物の気配はどす黒く、叩きつけるように周囲に満ちている。それらが減る気配すらなかった。テレジアは奴らを引き寄せるだけで、討ち取るだけの手段を持たないのかもしれない。
不意に、ぞわりと寒気を感じた。魔物のそれとはまた別の、妙な違和感。思わず教会の方角に目を向けると、急坂の上に佇むテレジアと目が合った。
彼女は案の定、自分の周囲に箱型の防御魔術を展開している。その周りをキマイラがうろつき、ルフが旋回していた。その様が魔物を従えているようにも見えたが、事実は異なる。彼女は魔物の群の中心で身動きが取れなくなっているのだ。
哀れとは思わなかった。なぜなら、彼女の身から溢れた魔力があまりにも大きかったからである。強力な磁石のように、魔物の意識を引き付けている。先ほど一体のルフが突っ込んできたのが妙に思えるほど強烈な魔力。
じっと目を合わせていると、その唇がわずかに動いた。そして――。
『ごきげんよう、クロエさん』
テレジアの囁きが耳を震わす。それが交信魔術だということにはすぐ気が付いた。が、やはり異様だ。大型魔物の群を凌げるほどの防御魔術を展開しながら、囁きを送るだなんて。複数の魔術を同時に扱うその様子に、『毒食の魔女』を思い出してしまう。
『一方的な話になってしまってごめんなさい。貴女にはどうしてもお伝えしたいことがあるのです』
テレジアの声は落ち着き払っていた。懺悔室で言葉を交わしたときと同じように、静かで、柔らかい声色。
『貴女がたがどんな方法でこの状況を作り出したのかは分かりません。それを責めることも致しません。ですが……これでは貴女がたにも害が出ます。失礼を承知で申し上げますが、これはすべてメフィストさんが立てた作戦でしょう?』
メフィスト――つまり、ヨハンがこの状況を生み出したことまで彼女は見抜いているらしい。もしかすると、彼の胸倉を掴むわたしを下から見たのかもしれない。
『こんなやり方は、貴女としても本意ではないはずです。わたくしは貴女がたが魔物と呼ぶ存在……彼らを傷つけたくはないのですが、これではいたずらに命が消えるだけです。キュラスに生きるあらゆる命が……。そこで、提案があるのです。わたくしと手を取り合い、この子たちを鎮めてはいただけませんか?』
彼女の言葉は、あまりに痛切だった。魔物が人間だと知った上で、殺さねばならない。それを自覚しているからこその苦しみが、その声に宿っている。彼女が『鎮める』とぼかしたことも、その胸の痛みを表していた。
『すべてが終わったとき、わたくしは貴女と対峙しましょう。一対一で。……メフィストさんの力を借りたければ、そうしていただいて結構です。……この一時だけ、わたくしの手を取っていただけませんか? もちろん、貴女には一切傷が残らないように致します。わたくしの使う魔術がどんなものかはご存知でしょう?』
きっと彼女の治癒魔術を使えば、この絶望的な状況であっても乗り切れるに違いない。勇者一行を支え続けた癒しの力なのだから。
『お力を貸していただけるなら、手を差し出してください。それを肯定と受け取りますので』
この距離では、たとえ叫んだってテレジアには届かない。だからこそジェスチャーで、ということだろう。
魔物を討ち取ることは、わたしの使命だった。騎士として王都を――そこに住む人々を守るための。それは今だって変わらない。人々を脅かす存在は許しておけないのだ。討ち漏らした魔物は、いつかきっと悲劇を起こす。それを関知出来るかどうかは関係ない。
決心は出来てる。
わたしは、ゆっくりと腕を持ち上げた。そしてテレジアに――サーベルの切っ先を向ける。
「敵に塩は送らない。これはヨハンが作り出したチャンスなんだから」
聴こえないと分かっていてなお、口に出さずにはいられない。
テレジアは心持ち俯いた。こちらの意志は伝わったようである。
『そう……残念ですが、仕方ありませんね』
それきり、テレジアの声は途絶えた。交信魔術が打ち切られたのかと思ったが、魔力に変化はない。すると、あえて黙っているのだろうか。それとも別のなにかに意識を向けているのだろうか――。
不意に、重たい靴音が響いた。それはどんどんこちらへと近づいてくる。
振り向くと、ハルツがいた。彼はわたしの隣まで来て足を止める。その目は教会へ向けられていた。
普段の朗らかな様子は欠片もない。不安定で、脆い、焦りに駆られた表情だった。その瞳から、ぽろぽろと玉のような雫がこぼれる。
「なにもかも壊れちまう」
喘ぐような彼の言葉が届き、胸がずきんと痛んだ。
ハルツはこちらに顔を向け、やはり喘ぐように言葉を続けた。「なぁ、旅人さん。キュラスを救ってくれよぉ……」
救えないんだ、わたしには。壊そうとしている側の人間なんだから。その流れる涙に応えることなんて出来ない。
胸がずきずきと痛む。鼓動はどんどん早くなり、まるでわたし自身を責め立てるかのようだった。
目をつむり、唇を噛む。そして、集中力を高めた。
「なぁ、旅人さん! 俺たちを助けてくれ……」
ハルツの言葉が、耳を流れていく。
集中するんだ。潜るように、深く、もっと深く。空気の流れが肌で感じられる。痛いくらいに。もっとだ、もっと――。
「なぁ、なんとか言ってくれよ」
どさり、と音がした。きっとハルツが膝を突いたのだろう。彼の姿――その輪郭が手に取るように想像出来た。空気の流れ、音の響き、温度。あらゆるものが意識へ流れ込んでくる。
もっと、もっと深く。
「このままじゃ『教祖』様が死んじまうよぉ」
ハルツの声。そのひとつひとつの音。それが放たれた口。喉。肺。分解し、遡る。
――ああ、見つけた。
目を開けて、呼吸を整えた。やはりハルツは膝を突いて涙を流している。教会の状況も、先ほどとなにひとつ変わっていない。
「ごめんなさい、ハルツさん。わたしはあなたの力にはなれないわ」
「なんでだよぉ……その刃物で魔物をやっつけてくれよぉ」
サーベルを刃物と呼ぶ奴なんて、はじめてみた。ハルツは、その組成がなんであろうとハルツだ。
それにしても……魔物をやっつけてくれ、ときたか。やっぱり、キュラスの住民に夜の記憶はないのだろう。テレジアが短期的な忘却魔術をかけているのかもしれないし、元々そういう存在なのかもしれない。
ハルツは丸い瞳を震わせてわたしを見つめていた。しゃがみ込んでもわたしと同じくらいの背丈なのだからすさまじい。
「悪いけど、あなたたちを助けることは出来ないわ」
そして、刃をハルツに向けた。彼の目が、仰天したように見開かれる。
「な、な、なにしてんだよぉ……旅人さん……」
「なにって……サーベルを向けただけよ。もしあなたが今後も平和に生きていたいのなら、人里に姿を現さないことね。テレジアと暮らして改心したんなら追い打ちはしないわ。だから仲間を連れてキュラスを出て行って頂戴――『噛砕王』」
ハルツの身に流れる、ほんのわずかに妙な気配。それを確かに読み取ったのだ。『黒の血族』特有の、微細な、血の濁りを。
ハルツは言葉を返すことなく、ただただ沈黙していた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ハルツ』→キュラスに暮らす大男。純朴な性格。自分を拾ってくれたテレジアを心の底から信頼している。詳しくは『313.「あまりに素直で不器用な長話」』にて
・『噛砕王』→別名『育ちすぎた魔猿』。『黒の血族』だが、ろくに言葉を扱えず、粗暴な性格。人里離れた場所を好む。毛むくじゃらの巨体が特徴。詳しくは『294.「魔猿の王様」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。記憶喪失。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』にて
・『メフィスト』→ニコルおよび魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。他者を癒すことは出来るが、術者自身にかけることは出来ない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『忘却魔術』→記憶を喪失させる魔術。短期的な記憶に限り、消せると言われている
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。『吶喊湿原』のキマイラのみ、血の匂いに引き寄せられる。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




