308.「暗夜の感傷」
心臓の鼓動がやけにうるさく鳴っている。乱れた呼吸はなかなか整ってくれそうにない。
「目が……」
言いかけると、ヨハンが頷いてあとを引き取った。「合いましたね」
彼の声は落ち着いていたが、額には汗が浮いていた。こんなヨハンはなかなか珍しい。それだけ異様な状況というわけだ。
「こんなに離れてるのに、わたしたちのことが分かったのかしら」
「テレジアが四六時中、適当な方角に笑いかけていない限りはそうですね」
偶然なわけがない。きっと彼女は魔術を察知し、その先にいるわたしたちをも捉えたのだ。もしかすると拡大鏡を使っていることまで看破されたかもしれない。だからこそ、あんな笑みを浮かべられたのかも……。
彼女の表情を思い出してはみたが、そこに悪意や敵意は見出せない。むしろ、余裕たっぷりな――敵と思っていないような表情だった。
「こっちの存在を把握したなら……来るかしら」
「分かりません……なんにせよ、今まで以上に警戒すべきでしょうな」
「……ここから動いたほうがいいんじゃない?」
とどまっているのが得策とは思えない。あの距離からこちらの位置を完全に把握したとすれば、一歩も動かないなんて危険でしかないだろう。ヨハンだって、これ以上魔術を使うような真似はしないはずだ。
ヨハンは顎に手を添えて押し黙っている。思考をめぐらしているのだろう――様々な可能性をシミュレートして、最適な判断を導き出そうとして。そんな雰囲気があった。
やがて、彼の口が薄く開かれた。
「これ以上拡大鏡を使うわけにはいきません。……橋の監視は取りやめになりますな。つまり、シンクレールさんの動向を追えなくなるわけです」
漆黒の小箱を使えば……と思ったがナンセンスだ。さきほどテレジアの異常な察知能力を見たばかりである。下手に魔道具を使うのは、こちらにもシンクレールにもさらなる危険を呼び込むだけだ。使うにしても、充分に時間を置いてから――少なくとも、夜明け以降だろう。
わたしとヨハンは頷きを交わし、一旦谷沿いから離れることにした。夜の山――それも、起伏の激しい山頂付近を移動するのはリスキーではあったが、このままじっとしているのはそれ以上に危ない。
「そろそろ魔物が出るかもしれないわね」
木々を縫って慎重に歩きつつ呟いた。心がざわついて仕方がない。テレジアも危険だが、魔物という脅威もあるのだ。
「でしょうねぇ。ここが安全圏だと思いたいですが……」
ロジェールの言った『魔物の出ない領域』にこの場所まで含まれていれば――。
不意に、悪寒が全身を覆った。胃をかき回すかのような不快感……。
「残念だけど……ここは聖域じゃないみたいね」
「ええ……」
魔物の気配。多分グールだけど、うっすらと妙な気配も混じっている。グールだけだと考えないほうがいいだろう。
それにしても、まだ移動をはじめて十分足らずである。先ほどの場所からほとんど離れていない状況だ。
「ヨハン、ナイフを貸してくれる?」
「どうぞ」
彼からナイフを受け取りつつ、歯噛みした。とことん悪い状況だ。最悪と言ってもいいかもしれない。迂闊に逃げ回っても魔物は増える一方だろう。それに、こんな視界と足場の悪い場所で逃げるだなんて、単純に滑落のリスクが高い。とどまって戦うにしても、テレジアの存在がある。彼女が魔物を無視してでもこちらに向かってくるのなら、両方の脅威を相手にしなければならない。
そしてなにより心配なのはシンクレールだ。彼はまだ橋にたどり着いていないはず。だとすると山中にいるか、街道まで出ているかだ。いずれにしても彼のほうがテレジアに近く、そして当然魔物の脅威もある。
「街道まで行くべきかしら……」
「……シンクレールさんと合流出来るわけではありません。それに、彼の状況が分からないなかで闇雲に『教祖』へ近づくのは避けたほうがいいです」
正論……なのかもしれない。けど。
「悪いけど、やっぱり街道まで行きましょう。シンクレールを放っておくことなんて出来ない」
どんどん魔物の気配が濃くなっていく。早くしなければ……。
街道の方角に足を向けた瞬間、腕を掴まれた。
「……離して」
思わずヨハンを睨むと、逆に気圧されてしまった。彼の顔がどこまでも真剣だったから。
ヨハンの唇が、ゆっくりと開かれる。
「いつまで甘えた感傷を引きずるつもりなんですか」
普段通りの口調だったが、異様なほど強い言葉だった。
「そんなつもりじゃ――」
「『最果て』の旅では想定以上のトラブルはありませんでしたので放っておきましたが、今は状況が違います。センチメンタルまかせの無謀だとか、感情的な行動は慎むべきでしょう。お嬢さん、あなたが相手にしようと考えているのは感情のままに動いて倒せるような存在ではないんですよ」
「そんなこと……分かってる。でも、今後のことを考えたって今シンクレールを……」
失うわけにはいかない、とまでは口に出来なかった。あまりに不吉だ。
「まったくもって冷静な判断ではないですな。優しくて、仲間思いで、誰ひとり犠牲を出したくない……そんなお嬢さんはもう消えたと思っていましたが、なかなか変わらないものですね」
ヨハンと契約した時点で、そういう甘い自分は捨て去ったつもりだった。けれど……。
「王都を裏切ってまでわたしの味方をしてくれたシンクレールを、ここで見捨てるなんて出来ない」
「するとお嬢さんは、甘っちょろい正義を抱えたまま進むんですね。茨の道ですよ。どれだけ多くのものを犠牲にするかも分からないくらいに。……目先の正義に命を張るつもりですか?」
彼の言う通りなのかもしれない。敵はわたしの『正しさ』に付け込んで罠を張るのだ。現にヨハンの裏切りがそう……。けれど、正しさまで失ったらいったいなにが残るというのだろう。
思いは言葉にならず、ぐっと唇を噛んで頷くことしか出来なかった。見放されたってかまわない。
ヨハンは軽蔑すると思ったのだが、意外なことにへらへらと表情を崩して見せた。そして、腕がするりと離される。
「しょうがない人だ……。お嬢さんはそれでいいです」
ここで終わりか……。きっとこれからは別行動で歩んでいくことになるだろう。仕方ない。契約の中に、行動をともにすることまでは含まれていないのだから。
ヨハンはヨハンのやり方で、そしてわたしはわたしのやり方で進むしかない。待っているのは死かもしれないけど、だからといって足を止める気になんてなれなかった。
街道を目指して歩き出す。
二人分の足音が並んだ。
「……愛想が尽きたんじゃないの?」
「はて? 元々お嬢さんはそういう人でしょうに。想定内ですよ。……それに、どうせ無茶をするならひとりよりも二人のほうが心強いものです」
思わずヨハンを見ると、彼は『最果て』で見せたような飄々とした薄気味悪い笑顔を浮かべていた。遠く、懐かしく、今となっては信頼しきれない、そんな笑顔。
「……そうやって取り入って、また騙すつもりなんでしょ」
「心外ですなぁ。今は目的を完全に共有していますよ。裏なんてありゃしません。まあ、信用ならないと思う気持ちは理解出来ますから、存分に疑ってください」
「そうするわ……。危なくなったら盾にしてやる」
「手厳しいですなぁ」
漆黒の闇を縫い、二人分の足音が響く。
最低な場面で無謀を打つ。そんな状況だろう。もっと悪い展開が待ち受けているかもしれないけど、今はそれでかまわない。
そして彼の言った通り、無茶をするなら――たとえ隣にいるのが悪魔じみた悪党でも――二人のほうが心強い。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




