307.「橋の上の微笑」
谷を渡る風の音が、まるで笛の音色のように響いていた。空は名残惜しげな最後の暮れ色に染まっている。もうじき陽が落ちて山は夜を迎えるだろう。そこから数時間もすれば、人ならざる者の跋扈する世界へと様変わりする。
ここまでは奇妙なほど平和な夜だった。本来出現するはずの魔物が一切現れず、ぐっすりと睡眠を謳歌出来たのである。しかし、今晩は違う。魔物が出ないのはあくまで山中のみ。谷を挟んでいるとはいえ、街を前にしたこの場所まで安全と考えるのは安直だ。
山頂の敬虔な街キュラス。この角度だとほとんど家並みは見えないが、この場所に討ち取るべき敵がいるのだ。
今は街への潜入の第一歩を踏み出したのである。すべては『教祖』テレジアへと至るため……。ともあれ、こうして崖際で待機しているのはなんとも不安だった。
「シンクレール、大丈夫かしら……」
「さあ……どうでしょう。私は彼のことをよく知りませんからねぇ。お嬢さんのほうが正確な判断が出来るんじゃないんですか?」
ヨハンはへらへらと無責任な言葉を吐く。
シンクレールが単身で街道へ向かってから、かれこれ三十分ほどになる。別行動が理想的だったとはいえ心配で仕方ない。
「まあ、なるようになります。私たちはシンクレールさんが橋を渡るのを見届けましょう」
「そうね……」
ヨハンが作り出した拡大鏡は、無人の橋を映すだけだった。こうして魔術を維持し続けるのは負担だろうけど、シンクレールが無事橋を渡り切るところまでは確認すべきである。それに関してはヨハンも異論はないようだった。
「今夜は魔物が出るかしら」
「なんとも言えませんな。覚悟しておいたほうがいいのは確かです」
シンクレールが橋までたどり着くのは、少なく見積もっても二時間はかかるだろう。ここから街道までは随分と離れているし、道だって存在しない。木々を掻き分け、起伏を突破し、茂みを突っ切る。決して簡単にはいかないだろう。今までは三人で進んできた山道をたったひとりで歩くなんて、精神的にも苦しいのは当たり前だ。
「気を落ち着かせたほうがいいですよ。私たちの選択は間違っていないはずですから」
「でも、最善じゃないかも……ほかにもっといい方法があったかもしれない」
するとヨハンは、乾いた笑いを立てた。「ハハハ。あとは出目次第ですよ。悪くない選択を重ねれば、物事は好転していくと思いますけどね」
ヨハンらしくもない言葉だ。それに、自分のしたことを棚上げにしている。
「まったく、どの口がそんなことを言うのよ。……あなたのことは金輪際許さないし、今は必要だから協力してるだけ。好転だなんて、軽々しく言わないで頂戴」
彼は橋を見つめたまま、こちらを少しも振り向かずに呟いた。「……しかし、お嬢さんは選び取ったわけです。文字通り、誇りを捨て去る覚悟で。……違いますか?」
真剣とも不真面目ともつかない口調だった。普段通りのヨハンの話し方といえばそうだし、妙だと思えばどんどん妙に思えてくる。表情を確かめようにも、顔を覗き込むような気分にもなれない。
誇りを捨て去る覚悟か。
「あなたをこっちに引き込むくらいじゃないとニコルを倒せないと思っただけ。それに、あのときはそれ以外の選択肢がなかったのよ」
「潔く死ぬ、という選択肢もありましたよ。……結局は選ばなかったというだけで、道はいくつもあると思いますけどね」
潔く死ぬだなんて冗談じゃない。
「あのとき、あの場所で諦めるなんて出来なかったのよ」
王都の未来のために。そしてなにより、わたし自身のために。
死ぬのが怖くない……というわけじゃない。むしろ、当たり前の恐怖心は持っている。けど、それよりも、なにも出来ずに終わるほうがもっとずっと恐いのだ。
不意にヨハンが振り向き、理由の分からない笑顔を見せた。いつものごとく歪な笑み。
「その選択が今に繋がっているというわけです。『教祖』の根城まで遥々来れたんですから。……信じましょう、シンクレールさんの無事を」
結局言いたいのはそれか。呆れながらも、納得している自分がいた。いくつもの選択の上で今の状況があるのなら、せめて信じるべきだろう。
「それに」とヨハンは続けた。「シンクレールさんには心強い道具があります」
出発間際に起こった騒動を思い出して、つい苦笑してしまった。
ヨハンが所持する、交信魔術の施した魔道具――漆黒の小箱。それを受け取る受け取らないでひと悶着あったのである。シンクレールとしては、ヨハンのような奴が差し出す物を信用する気になれず、しかし、わたしはその効力を知っているので是が非でも受け取らせようと四苦八苦したのだ。最終的にはシンクレールが折れ、小箱を通して連絡を取り合える状況になったのである。
しかしながら、ヨハンいわく四六時中交信することは無理との話だった。せいぜい半日に一度が関の山らしい。彼が言うと怪しく聴こえるが、あらゆる魔道具に制限はある。決して不自然ではない。
シンクレールがキュラスに入り、情報を得た段階で一度交信する手はずになっている。最小限の使用で最大の効果を上げるようにしなければ、危険はどんどん高まっていくのだ。テレジアがどれほど魔力に敏感かは未知数だが、警戒を怠っていい相手じゃない。
それからは無言で橋を見つめ続けた。今にもシンクレールが通るのではないかと気が焦ってならない。まだそんな時間じゃないのに。
彼が橋にたどり着くのは、陽が落ちて一時間ほど経ってからだろう。道のりから考えるとそのくらいが妥当だ。たとえそこから数時間ロスしても、なんとか魔物が出るまでには渡れるはずである。
そうこうしているうちに、あたりはすっかり暗くなってきた。拡大鏡越しであっても橋の輪郭がぼやけている。
「この暗さでもシンクレールが渡ったかどうか分かるかしら」
「大丈夫ですよ、気付きます。そのためにこうして二人で目を凝らしてるんですから」
なにひとつ見逃さないように凝視しているのは事実だ。疲労はあったが、それ以上に緊張感のほうが強い。
風の音色を聴いているうちに、時間はどんどん過ぎていく。シンクレールが出発してからすでに一時間以上は経っているはず。いや、もしかすると二時間近くかも……。
「そろそろじゃない?」
「ええ……スムーズにいけばそろそろ姿を見せてもいいはずです」
ということは、どこかで障害物に阻まれているのかもしれない。あるいは、足を滑らせたとか……。
いや、よそう。ネガティブな想像をしても気落ちするだけだ。今はただ、彼が現れるのを待つのみである。
夜は段々と濃さを増し、目の前のヨハンでさえはっきり見えなくなった。橋の上ともなるとなおさらである。けれども、ランプを灯すわけにもいかない。谷を挟んでいるとはいえ敵地の前……小さな油断でも取り返しのつかない結果を生むかもしれないのだ。
今はただ、暗闇で待つことしか出来ない。
何時間経ったろうか。夜は濃い帳を降ろしてしまっている。もうじき魔物の時間がやってくるだろう。
しかし――シンクレールはいまだに姿を見せていない。
「……見逃したのかしら」
「そうじゃないことくらい、ご自身が一番よく分かっているでしょう?」
そうだ。ずっと凝視して、なにひとつ変化を見逃すまいとしているのだ。暗闇とはいえ橋の上に人影が現れようものなら絶対に見失わない自信がある。
「いくらなんでも遅過ぎるわ」
「……ええ」
ヨハンの短い返事には、多少の焦りがみえた。彼としても、ここまでかかるとは思っていなかったのだろう。それこそ、本当になにかのトラブルがあったのではないかと疑っているのかもしれない。
不意に、「おや」とヨハンが声を上げる。
彼がなにを発見したのか、すぐに分かった。口元を押さえ、橋の上を凝視する。
橋は橙色の光で照らされていた。松明を持った人々が橋を渡っているのである。数にして三人程度。彼らはキュラスの方面から出てきたようだった。
「こんな夜になにを――」
言いかけて、息を呑んだ。ちょうど拡大鏡が、見知った横顔を映したのだ。
鳴り響く管楽の魔術。賑わう大通り。身を乗り出した人々の表情はどこまでも喜びに満ちていて――その中心を歩く彼らは、まさに英雄然としていた。そんな凱旋式でひときわ慈愛に満ちた微笑を絶やさなかった女性がいる。
人間の住む最後の土地――最前線を、自前の武装勢力で維持し続ける存在。『教祖』テレジア。
「ヨハン、拡大率を上げて……!」
「ええ」
テレジアの横顔が大写しになる。
間違いない。本物だ。なんで彼女がこんな時間、こんな場所に――。
思考は瞬時に中断された。と同時に拡大鏡も消え去る。ヨハンは無言で橋の方角を睨み、彼にしては荒い呼吸を繰り返していた。
きっと、ヨハンとわたしは今同じことを考えている。それに気を取られて、冷静さを保つことが出来ない。
橋とこの場所とは、それこそ数時間かかってようやくたどり着けるほど離れている。つまり肉眼では決して捉えられないし、同様に、魔力だって感知しようがない。
にもかかわらず、テレジアは拡大鏡越しに柔らかく笑いかけたのだ。わたしたちに向かって。
まるで――すべてを承知しているかのように。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『フロントライン』→山頂の街キュラスの別名。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、そう呼ばれている。




