303.「夜の山道」
しっとりした夜の山。ときおり枝葉を揺さぶる小動物の物音がする。半分以上欠けた月には、山道を照らしてくれるほどの力はなかった。
「夜の山なんて進むもんじゃないわね」
そう呟くと、ため息交じりの頷きが二つ返ってきた。
昨晩のような絶好の休息地もなく、眠気を押してでも歩くしかないような道が続いている。ロジェールの家を出てからかれこれ二、三時間は経っているだろうか。起伏の多さにうんざりしながら、木の根や藪に注意して歩いていた。
「キュラスまでどのくらいか聞けば良かったんじゃ――」とシンクレールは言いかけ、自分自身で訂正した。「それじゃ僕たちが余計怪しくなるか」
あくまでもロジェールに対しては盗賊という立場を取ったのだ。そこでキュラスの話を出すべきではない。高山蜂の巣を採るだけならキュラスとの位置関係を探る必要性はそう高くないはずだから。
誰かに見つかることを恐れる盗賊、というスタンスで聞くにしても、余計な疑念を呼び込む材料になりかねない。
「シンクレールさんのおっしゃる通りです。まあ、地形図をもらったのは役作りのためばかりではありませんが」
キュラスまでの到達時間までは分からないものの、おおよその場所は把握出来るし、もちろん起伏だって分かる。
キュラスは山の頂上付近にあるようだ。地形図を見る限り、かなり奇妙な街である。周囲をぐるりと谷に覆われた山頂部分。そこを丸ごと街と定義しているようだ。天然の城塞と呼んでも違和感がない。
「なんにせよ、地形図があって助かるわ。問題はどうやって入り込むかだけど……」
地形図には街の入り口までは書かれていない。谷を渡す橋が何本あるのか、それとも底に降りてから登っていくのか見当もつかなかった。そもそもが王都から離れた土地であり、あまり話にも聞かない。それこそ『教祖』テレジアが勇者の仲間として凱旋したことで少し有名になったくらいか。
街道は存在するものの、王都と密な交易があったり旅行者がいるわけでもないだろう。人間最後の土地。まだ魔物に破壊されていない末端。魔王の城へと至るフロントライン――歯に衣着せぬ言い方をするなら、真っ先に犠牲になるような場所。
「しかし、『教祖』は相当な敏腕なんでしょうなぁ。先導者としてもそうですが、夜間防衛の意味においても……」
ヨハンの言葉自体は他人事のようだったが、その口調には緊張感があった。
「守りやすい場所なんだろうけど、それだけで維持出来るとも思えないからな」とシンクレールはつっけんどんに返す。
呆れつつ足を踏み出そうとして、思わず後退した。
「どうしたんだい?」と後ろを行くシンクレールが百八十度違う声を出す。
「いえ、ちょっとした崖になってるみたいなの」
深みは分からないが、わたしが足を置こうとした場所はかなりの傾斜がついていた。よくよく見ると、そこから先は道の左半分が急勾配になっている。急坂の下には切り立った崖……。
「うわ……! 気をつけないと」とシンクレールは心配そうにこちらを見つめる。
少し油断しただけ、と返そうと思ったが、そもそもほかに気を取られること自体が情けない。今は視界の悪い山道を歩いているのだ。そして高山蜂がいる以上、こうした崖がところどころにあるとみて間違いない。
「まあまあ、崖があるってことは、かなり高い場所まで来ているということにもなりますから……多分」
ヨハンは責任のないことを言う。まったく、なんの励ましなのやら……。
「そういえば……高山蜂って人も襲うのかい?」
シンクレールの不安そうな声が、ぽつり、と闇に溶けた。今は夜なので高山蜂は活動していないはずだ。けれど、どうしてもその羽音が聴こえてこないだろうかと耳を澄ましてしまう。
「ええ、襲うわ。針には毒だってあるし……。でも、拳くらいの大きさだから近付けばすぐに分かるわ。しゃがめば刺されないって本に書いてあったけど、本当はどうかしらね……」
正直、自信がない。ここで高山蜂に刺されて足止めなんて絶対にごめんだ。刺されると全身に麻痺が回って、ひと晩は身動き出来ないらしい。最悪、死に至ることも……。
「怖いですなぁ。蜂をシンクレールさんが凍らせてくれたらどんなに助かるか」
「ああ、凍らせるさ。ヨハン、お前を狙う奴以外は全部凍結させてやるから安心しろ」
「随分と残酷な人ですねぇ」
相変わらずの二人である。シンクレールなら本当にそうしかねない。まあ、ヨハンなら自力でなんとかするだろうけど。
「負担ばかりかけてごめん」
「いいんだ、クロエとは本当の仲間でいたいから。困ったときは助け合いだろ」
気の毒だなんて思いたくなかったが、さすがにヨハンがちょっぴり不憫ではある。「一応ヨハンも協力者だから、いざというときは……ね」
返ってきたのはシンクレールの複雑そうな苦笑である。ヨハンはというと、平然と道を歩きつつ器用に肩を竦めた。
あんまり心配しなくても大丈夫かも。そもそも『黒の血族』だし。自力でなんとか出来ない状況に身を置く性格とも思えない。
半分になった山道を歩く。左側には山並みが見えた。わたしたちが進んでいる箇所は周囲の山よりも一段以上高いようである。勾配はどんどん険しくなっていた。
「雪山じゃなくて助かりましたね」とヨハンがぼそりと呟く。
確かに、これで雪だらけだったら街道を使うしかないだろう。万年雪があるような高度ではないというのも救いだ。
「山に住むって、どんな感じかしら」
「さあ。少なくとも、退屈はしないだろうね」
シンクレールは声を震わせながら言う。高山蜂に、切り立つ崖。そして食料や飲料の問題。退屈とはかけ離れた環境だ。ロジェールは高山蜂の巣や山菜を採って暮らしているという話だが、気球の材料はどうやって手に入れているのだろう。機械を調達するのももちろんだが、運び込むのも単身では難しいだろうに。
ともあれ、考えても仕方がない。彼とはすでに別れてしまったし、今後会うとも思えなかった。あとの心配をするのは楽観的な感じがしたが、帰り道で出くわす確率は少ない。目印もなく、方角だけを身体に刻んで進んでいるだけだから。
「やっぱり魔物は出ないんだね」
シンクレールはいまいち釈然としない様子で言ったが、その声には安心が含まれていた。その気持ちはよく分かる。理屈の見えてこないものはいつだって恐いし、だからといってその奇妙な幸運に安堵せずにはいられない。
「なにか理由があるんでしょうけど、考えても仕方ないですね」とヨハン。
「ロジェールは数年前から魔物が出なくなったって言ってたけど、その部分に嘘はなかったわけ?」
するとヨハンは、ばつの悪そうな顔で返した。「いやぁ、言い忘れていました。それも嘘です。なに、魔物が出ないのは真実ですが、その期間がどうも信用出来ないですね」
もっと早く言ってほしいものだ。
数年前からじゃないなら、いったいいつから魔物が消えたのだろう。ロジェールが移住した時期もそれによって変わってくる。魔物に関する話まで嘘となると、やはり、テレジアの息がかかっていると考えるのが自然だろうか。
「『救世隊』とやらが教団を牛耳ってるのも真実に聴こえましたよ。だからなんだと思うかもしれませんけど」
「『救世隊』ねえ……」
大袈裟な名前は好きではない。そもそも救世を目指すなら、テレジアが魔王を見逃して凱旋したこと自体が矛盾している。それは世界を黒く塗り潰すことにしかならないのだから。
「人格は――」と言いかけて、シンクレールはケホケホと咳をした。
「大丈夫?」
彼は首を振って「むせただけだよ」と答えると、ヨハンに向かって続けた。「……テレジアの人格は、そこまでおかしくないんだろ?」
「ええ。ロジェールさんの印象には偽りがありませんでした。本質はまた別の話です。あくまでも彼の目から見て、彼の口から語られた『教祖』に嘘はないです」
「そうか……」
シンクレールはどこか迷っているような雰囲気があった。
「やっぱり、敵とは思えないかしら?」
「……そうだね。凱旋式の様子が強く残ってるから……けど、それで躊躇うような真似はしないよ」
最後の言葉は決然としたものだった。そう、シンクレールはすでに選択しているのだ。勇者の裏切りを主張するこちら側に協力すると。もちろん、わたしの影響が大きいのは自覚してる。
「なら良かった。あ、ちょうどあのあたりで休憩出来そうじゃない?」
ちょうど三人が腰を下ろしても充分なくらいのスペースがあった。木々が風よけになってくれてもいる。
二人に異論はなく、今晩はそこで休むことになった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




