294.「魔猿の王様」
まだ魔物の時間には入っていなかったが交代で眠ることにした。最初はシンクレールが休むことになり、魔物が出たらわたしとヨハンで相手をする。そんな段取りである。
横目でシンクレールを見ると、昼間の疲れからかすでに寝息を立てて気持ちよさそうな横顔を見せている。
しかしながら、これも魔物が出るまでの間だけだろう。騎士として生きていた習慣は簡単には消えてくれない。魔物の気配を感じてなお安らかに眠り続けることなんてきっと出来ないはずだ。
それはそうと、ヨハンは相変わらず両手を枕代わりにしてぼんやりと夜空を見上げていた。まだ魔物の出現時刻にならないからといって、あまりにも油断している。彼らしいんだか、らしくないんだか分からない。
「一応見張りの仕事をしてるんだから、寝ないでよね」
「寝てたら叩き起こしてください」
無責任な……。まあ、そもそも期待してないけど。
「それにしても静かな夜ですねぇ……」
「そうね。物音ひとつ聴こえないわ」
夜の森の静けさなんて経験したことはなかったが、虫の奏でる音色や獣の足音、あるいは遠くで吹く風が葉を揺らす囁きが聴こえるのが普通だろう。今はどこまでも静かで、あらゆるものが眠りに落ちているような雰囲気だった。
柔らかな休憩所と、透き通った静寂。野営だということが信じられないくらい良い環境なのだが――それが却って不穏に思えてしまう。なにか良くない出来事の前触れのように……。
「少し眠っていいですか?」
ヨハンはぽつりと、眠気に満ちた声を漏らす。
こんなときになにを言ってるんだ。休みたい気持ちは分かるけど、少しは緊張感を持ってほしい。
「駄目よ。なにが現れるか分からないんだから」
「そうでしょうけど……こうも静かだと眠気に誘われますよ」
「……わたしだって眠いんだから、少しくらい我慢して」
あと一時間もすればシンクレールと交代する頃合いだろう。せめてそれまで起きているのが筋だ。
「非常に奇妙な感覚なんですが……」とヨハンは前置きをして続けた。「なぜだか今夜は魔物が出ないような気がするんです」
「なに言ってるの? 魔王は生きているんだし、魔物だって今まで通り活動するわ」
「それはそうですが……。なかなか言葉で説明しづらいですねぇ」
雰囲気。感覚。予感。そんなものだろう、きっと。確かにこれだけ静かなら、平和な夜を錯覚してもおかしくない。
「ともかく油断は禁物よ。大型魔物が出ないぶん、小さくても面倒な奴らが出るかもしれないんだから」
「たとえばどんな奴です?」
退屈を凌ぐためか、ヨハンはあくびを噛み殺して聞く。本当に興味があるのかどうか知らないが、こっちも口を動かしていなければ寝てしまいそうだ。
「たとえば……そうね。ギボンは知ってる?」
「ああ、『魔猿』ですか」
やっぱり知ってたか。
ギボン――別名『魔猿』。毛むくじゃらの姿をした人型魔物。小柄なのだが手足が異様に長く、しかも伸縮自在ときている。それだけなら脅威でもなんでもないのだが、厄介なことに呪術を使うらしいのだ。森にしか現れないと言われており、現にわたしも遭遇したことはない。木々を渡るギボンに追われて命を落とした人々に関する文献が残されていたが、どれもおどろおどろしい語り口だった。
「ギボンは人に化けるという噂がありますね。それに、未発達ながら言葉でコミュニケーションを取るという話もあります」
「そうらしいわね」
「おや、実際に討伐したことはないんですか?」
「森にしか出ないらしいじゃない。見たこともないわよ」
するとヨハンはニヤニヤと得意げな笑みを浮かべた。どうせ王都仕込みの箱入り娘とでも思っているのだろう。知っていることは全部書物からの知識で、経験が伴っていない、と。
「なら『噛砕王』の話も知りませんか?」
『噛砕王』なんて聞いたこともない。不穏な響きであることは確かだ。
「なにそれ」
「やっぱり知りませんか」
「教えなさいよ」
ヨハンの勿体ぶった態度はどうかと思う。『最果て』を旅したときとは状況が違うのだ。情報の出し惜しみなんてさせない。
じぃ、っとヨハンを睨むと、彼は諦めたように苦笑した。「分かりましたよ。秘密主義はやめます」
そう、正直になればいいのだ。いつまでもミステリアスな態度を貫けると思わないでほしい。
ヨハンは大きなあくびをひとつして続けた。
「育ちすぎた『魔猿』。『噛砕王』を知る者はそんなふうに表現しますね。ギボンを使役する存在です」
「使役する存在? ということは魔物なの?」
「いえ、違います。『黒の血族』ですよ」
血族、という言葉を聞いてピンと心が張り詰める。なるほど、どうりでわたしが知らないわけだ。
王都側で把握している『黒の血族』の情報なんて氷山の一角である。そもそも彼らが王都から離れた場所で生活していることに加え、調査しようにも生きて戻ることが出来ない。血族の行動範囲内に足を踏み入れるということは、魔物の巣に潜入する以上の危険が伴うのだ。
目の前の男――ヨハンは、王都の人間が決して掴めない種類の情報を握っている。『黒の血族』と人間のハーフという出自なのだから。
「血族ってことは……あなたのお仲間なのね」
するとヨハンは盛大なため息をついた。
「『黒の血族』だからといってひとくくりに出来るものではないです。人間同様、確執やら派閥やらがありますからね」
「ふぅん……『噛砕王』はどんな立ち位置なの?」
「どこに住んでいるのかも知れない奴です。しょっちゅう居場所を変えるらしいですから。一貫しているのは、奴の周囲にギボンが群れていることと、人里離れた場所を好むという点だけですな。ろくに言葉も使えない粗暴な奴という話です……私も噂話程度にしか知りませんが」
粗暴な奴が魔物を使役するなんて、ちょっと考えづらい。通常、魔物を使役する魔物はラーミアやリッチなど、知恵があると言われる奴だけである。
『黒の血族』はその限りではない、ということか。
「……その『噛砕王』はどこにいるのかしら」
ほとんどひとり言のつもりで呟いた。案の定ヨハンは「知りません」とだけ答える。
「知らないってことは、いつ出くわすかも分からないってことよね……」
ギボンを使役するだなんて、あまりイメージしたくない。出来れば遭遇は避けたいものだが……。
「毛むくじゃらの巨体を見たら逃げるといいです。『噛砕王』だって無暗に攻撃してくるわけではない――と信じたいですね」
「もし遭遇したら、あなたに任せるわ。血族同士なんだから平和的に済むかもしれないでしょ?」
冗談のつもりで言ったのだが、ヨハンは顔をしかめた。
「勘弁してください。まともに言葉が通じない相手は苦手です」
「でしょうね」
交渉事は得意だろうけど、限度があるのは当たり前だ。
それにしても、毛むくじゃらでろくに言葉が使えないなんて……まるでギボンそのものではないか。だからこそ使役出来るのだろうか。
「近付いてきたら気配で分かるかしら?」
「まあ、分かるでしょうな。私や魔女のように気配を消せるわけではないでしょうから」
血族の気配と魔物の気配は、ほとんど区別が出来ない。ヨハンや魔女のように、人間とある程度のかかわりを持つ血族は気配を消せて当然なのだろう。だが、『噛砕王』はそうではない。人とも血族とも関係を持たない孤独で未発達な存在が気配を消す力を習得出来るとは思えなかった。
しばらく『噛砕王』を想像してああでもないこうでもないと考えていたのだが、いつしか二人分の寝息が聴こえることに気が付いた。
まったく……。
ヨハンを叩き起こしてやろうかとも思ったが、まだ魔物の気配はない。普段ならぼちぼち現れてもいい時間帯なのだが。
緊張の糸はやがてゆるんでいき、瞼が自然と下りた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『リッチ』→呪術を使う魔物。ゾンビを使役する。詳しくは『16.「深い夜の中心で」』参照
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




