284.「夢と猫耳」
崖の上に立っていた。吹きすさぶ風は冷たく、けれども震えることはない。冷たいという感覚だけが頭のなかにある。
崖の先には、鏡映しになったように同様の崖がある。まるで『関所』にそっくりな場所だった。
見上げると満天の星空。吸い込まれそうな、足元が危うくなるほどの空だ。雲も月もなく、星だけがその存在を主張している。
こんな美しい夜なのに、心はざわついていた。どこかに大事な忘れ物をしてしまって、なのに絶対引き返せないときの、諦めと焦りと不安が混在する感覚。いったいなにが感情を揺らしているのか、と考えても簡単に答えは出そうになかった。
「クロエ」
ふと対岸から声が聴こえて視線を戻すと、そこにニコルが立っていた。しかも、彼だけではない。例の六人の同行者もいる。
身の丈に合わない箒を手にした三角帽子の魔女。大斧を背負った鎧の男。白銀の髪をした無表情の少女。頭にベールの乗せ、黒の修道服を来た背の高い女性。獣人に変装した大男。フードで顔を隠した痩身の男。
全員、凱旋式で見た連中である。王都を救った七人の英雄。羨望の眼差しと感謝の言葉を浴びた勇者一行。
「僕は頼れる仲間がこんなにもいる。……クロエ、君はどうかな?」
周囲を見回すと、こちら側の崖にはわたしひとりだった。誰もいない。
仲間なんて、誰も――。
「全員倒したにゃ~!」
誇らしげな声がして対岸を見つめると、ジェニーが両手を挙げて笑顔を浮かべていた。自信たっぷりで、それなのに嫌味じゃない不思議な笑み。なんだ、ジェニーが全員倒してくれたのか。それなら安心だ。明日からわたしは安らかに眠ることが出来る。なにひとつ憂いのない日常を送ることが……。
不意に、ぞわり、と悪寒が走った。
なんだろう。なにも心配いらないはずなのに。どうして寒気が止まらないんだろう。
ああ、そうか。
わたしの居場所はとっくに――。
ぱちり、と目を覚ました。綺麗な白が視界に広がっている。それがゲストルームの天井であることを知り、ほっと息を吐いた。
まったく、妙な夢を見てしまった。
起きようとすると、胸の上になにかが乗っていることに気付いた。なんだろう。
シーツをめくってみると、ぴくぴくと上機嫌に震えるふさふさの耳があった。わたしの身体に腕を回してジェニーが眠っている。
いつの間にもぐり込んだのやら……。
彼女は相当ぐっすり眠っているらしく、目を覚ます気配はない。ときおりシーツのなかでモゴモゴと「んにゃぁ」と寝言のような声がする。
身体はすっぽりシーツにくるまっているので分からないが、きっと尻尾も出ているに違いない。眠るときはいつも耳と尻尾が出てしまうのだろうか。
……さて、どうしよう。ジェニーを起こすのも悪い気がするけど、このままだと起き上がることさえ出来ない。
彼女の寝顔を見ていると、あまりに幸せそうなのでそのままにしておくしかなかった。どうせ美味しい物でも食べているのだろう、夢のなかで。
しかし、どうにも退屈だ。目は覚めきっている。もう一度眠る気になんてなれない。だから、なんとなくジェニーの顔を眺めていた。
ふと魔が差して、そのふさふさした耳に指先を持っていく。そして、ちょん、と触れた。
ぴくり、と耳が震えたがジェニーは眠ったままである。指先には柔らかく、なんだか癖になりそうな感触があった。
もう一度……。ちょん。
……優しく触れば気付かないかも。ぐっすり寝てるようだし……。
ジェニーの耳を優しく、指先で撫でる。ふにふにと感触を確かめる。思い切ってやんわりと握ってみる。
ああ。なんだか幸せな気分。口元がゆるむのを抑えられそうにない。
「ふにゃっ!」
びくり、と彼女の身体が跳ねて目が丸く見開かれた。その瞳がわたしの視線と交差する。
「……お、おはようジェニー」
引っ込めるタイミングを失った手は、ジェニーの耳に触れたままである。
「おはようだにゃぁ……にゃにゃにゃ! なんで触ってるにゃ!」
「ごめんごめん、つい――」
言いかけたところで、扉をノックする音がした。
「クロエさん。いらっしゃいますか?」
ウィンストンの声である。扉越しにもはっきりと聴こえる、張りのある声だ。
「いるけど、ちょっと立て込んでるの」
「そうですか……うちの馬鹿メイドがお邪魔していないかと思ったのですが、そこにいますか?」
シーツのなかを覗き込むと、ジェニーは潤んだ瞳でふるふると首を横に振った。そしてわたしにしか聴こえないような声で「ジェニーはいないにゃ」と囁く。
「まったく、どこでサボっているのやら分からなくて困っているのです。どうですか? そこにいるのですか?」
なるほど。ジェニーは仕事を放りだしてなぜかわたしのベッドで昼寝をしていたわけか。
思わず笑いそうになるをこらえ、扉の先に視線を向けた。
「ここにはいないわ」
「……そうですか。まったく……。ああ、クロエさん。主人から預かり物をしているのですが、あとにしたほうがよろしいですか?」
預かり物とはなんだろう。魔女がわざわざ渡すくらいだから、些細な物ではあるまい。気にはなったが、シーツのなかでぶるぶると身を震わすジェニーが不憫だった。
「あとで取りに行くわ」
「……承知しました。吾輩は一階におりますので、ご都合のよろしいときにお声掛けください。……ところで、傷の具合はいかがでしょう」
傷。その言葉を聞いて、頬に熱を感じた。ウィンストンは治療をした責任からたずねているのだろうけど、わたしにとっては『裸を見られた相手』という別の意味が加わっている。
「具合は――落ち着いてるわ」
この邸のメイドが、その傷の上に頭を乗せてぐっすり眠っていたんだけどね。
「なら結構です。もし異常があるのなら、早めにお伝えください」
「もちろんよ」
「では、失礼します」
その言葉を最後に、靴音が遠のいていく。しばらく経ってもジェニーはシーツのなかで息を殺していた。
「ジェニー。もう大丈夫よ」
そう呼びかけてようやく、彼女はシーツから顔を出した。そしてあたりをきょろきょろと見回し、ほっと息をつく。
「助かったにゃ。ありがとうだにゃ~」
「気にしないで。さっき勝手に耳を触ったのとおあいこよ」
かくまってあげたのだから、それくらいは許してくれないと。
ジェニーは首を傾げつつ、曖昧に頷いた。釣り合いが取れているのか分からない、といった表情で。
「けど、もう耳は触らないでほしいにゃ。くすぐったいんだにゃ」
言って、ジェニーは自分の頭をひと撫でした。すると、さっきまであった耳がすっかり消えてしまった。
残念。
「……出てたら触っちゃうかも。なんか、本能的に」
「良く分からない理屈だにゃ」
「それにしても、なんでわたしの部屋で寝てたの?」
「んにゃぁ……眠かったんだにゃ」
眠かったから寝た。呆れてしまうくらいな率直な答えである。きっと掃除の合間にゲストルームに寄って、眠るわたしを見たら自分も急激に眠たくなったのだろう。それで添い寝することにした、という経緯に違いない。
ジェニーも夜通し起きていたから無理もないか。
大きく伸びをして、ジェニーはベッドから降りた。そして足を忍ばせて部屋を出て行く。一度振り返って手を振ったので、わたしも振り返した。
しばらくして一階に降りると、ウィンストンと出くわした。そして――ジェニーとも。
彼女はウィンストンに首の後ろを掴まれて大人しくぶら下がっていた。
残念、見つかっちゃったか。
「これはこれは、クロエさん。先ほどコレを見つけましてね。お見苦しいようで申し訳ありません」
「い、いいのよ……それより、魔女からの預かり物って?」
ウィンストンは片手を燕尾服の胸ポケットに突っ込み、銅の鍵を取り出した。「こちらです」
受け取ったはいいものの、なんの変哲もないただの鍵だ。なんだろう、これは。
「図書室の鍵です。退屈凌ぎに、と」
わたしの読書好きまでお見通しなのか、魔女には。けれども不快感なんてない。むしろ、飛び跳ねたいような喜びが全身を駆けめぐった。
魔女の書棚。なんて秘密めいた響きだろう。きっと読んだことのない本だらけに違いない。
「ありがとう。今すぐ行きたいんだけど、図書室はどこにあるのかしら」
「主人の私室の右隣です。……さて、吾輩は用事がありますのでこれで」
言って、ウィンストンはジェニーをぶらぶらと揺らしつつ去っていった。
◆改稿
・2018/06/14 『純白の修道服』→『黒の修道服』
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




