223.「神経毒」
魔物を引き寄せる魔術にはいくつか種類がある。魔力を注ぎ込んだ対象に引き寄せの力を付与する疑似餌。そして、術者自身が引き寄せる案山子。どちらの魔術も、魔物が魔力に寄せられる特性を利用したものである。
子蜘蛛が一斉にヨハンへと向かっていくのが分かった。大量の脚が地面を掻く不快な音がどんどん遠ざかっていく。そして、ヨハンが足早に逃げていく音も。
「あらぁ……とっても美味しそうな子がいるじゃないのぉ……。骨と皮ばかりだと思ったのに、絶品はあっちなのねぇ……」
アラクネの声は悦びに打ち震えているかのような恍惚を帯びていた。
「あなたの相手はわたしよ」
天井を這い進もうとしたアラクネに宣言すると、彼女は高笑いを上げた。
「アァアァアアァハァハハハ……! 貴女、怪我してるわねぇ……。そのうち動けなくなる人間と遊ぶより、美味しそうな彼をいただくとするわぁ……」
直後、アラクネが天井沿いに駆けた。奴まで行かせてしまったら子蜘蛛を引き寄せた意味がない。
石筍を足場にして、再び跳び上がった。奴のスピードを勘案して――。
想定通り、目の前にアラクネの姿があった。表情は見えないが、きっと興奮していることだろう。一度脚を斬られたにもかかわらず、同じ轍を踏むほどヨハンに惹かれている。絶対に逃がさない。
呼吸を止めて、一気に刃を振るった。
「――!!」
甲高い悲鳴が耳を震わす。けれども決して斬撃をゆるめなかった。
一撃目で、奴の脚を再び両断し、二撃目でもう一本も奪う。三撃目は複眼を斜めに切りつけ、半分ほど潰すことに成功――ただ、アラクネも無抵抗ではなかった。
結果として、わたしもアラクネも落下の一途をたどることとなったのである。奴は脚と複眼に取り返しのつかない傷を負い、わたしはというと、背をしたたかに打ち付けた――落下直前、アラクネが糸の束を吐き出し、わたしを地面に叩きつけたのである。
すぐに立ち上がり、糸を切断した。斬れない粘度ではない。
「酷い……許さない……絶対に許さない……!」
アラクネは震える声で叫んだ。奴の立場からすると酷いのかもしれないが、今まで人間や小人を食ってきたのだから文句は言われたくない。たかだか脚の数本と複眼半分だけで釣り合うものではないのだから。
「許してほしいなんて思わないわ。これで分かったでしょう? わたしを相手にしないと傷を負うのはあなたよ」
ヨハンは今も逃げ回っていることだろう。具体的にどうやって子蜘蛛を凌ぐのかまでは語らなかったが……彼のことだ、なにか算段があるに違いない。わたしはアラクネに集中すればそれで充分だ。
足の傷は大したことはなかったが、やはり気になるのは神経毒である。きっと自由に動けるのも、あと少しだろう。アラクネの毒がどれほどのものかは分からなかったが、すでに足が痺れはじめている。毒の回り具合から考えて、あと三分が関の山か。
奴は沈黙したままじっとしている。ようやく冷静さを取り戻したということだろう。放っておけば毒が回って動けなくなる人間だ。奴は逃げるだけで充分なのである。
逃げるくらい造作もない――そう考えているのなら、なんて甘いんだろう。
暗闇を一直線に駆けた。標的はアラクネ。石筍やら卵の残骸だか分からないが、目前でやっと障害物を認識出来る。必要最低限のステップでそれらを回避しつつ、闇を縫うように進んだ。
集中力が高まっていく。それにつれて、足の違和感は強くなっていった。腹立たしいほど毒の回りが早い。この調子で過剰な運動を続ければ三分も持たないだろう。けれど、突っ立っているよりはずっとマシだ。
アラクネは、脚を必死に動かして後退していた。戦闘は避けるつもりなのだろう。
不意に、奴の糸が伸びるのが見えた。そしてその身体が持ち上がる。
すでに脚は三本落としている。天井を這い回れるほど自由ではないはずだ。すると、糸にぶら下がってこちらがダウンするのを待つつもりか。
別段、賢いとも思わない。当然の戦略。だからこそ、対処も難しくはない。
奴の身体が天井高くまで移動してしまう前なら、今の足でもなんとかなる。跳び上がろうと身を沈め――。
「――!!」
耳を裂くような叫びが響き渡る。
それは呪力を帯びた絶叫だった。耳を塞ぐ余裕なんてない。肌がびりびりと痺れ、世界から音が消える。ラーミアの『叫び』の呪術は予備動作があったので対処が出来たが、アラクネのそれは蜘蛛の口から前触れなく放たれた。
肉体の感覚がどこか他人行儀で、違和感しかない。普通なら一旦足を止めて魔術の影響を計るのだが、こちらには時間がない。
感覚がおかしくなるのは慣れている。足止めのための戦略としては見事だと思うけど、相手が悪かったわね――。
跳躍すると、ちょうどアラクネの姿がぼんやりと確認出来た。サーベルの有効範囲だ。奴の口からは自重を支えるための糸が伸びている。したがって、こっちを墜落させるための糸を放つことは出来ない。
奴の上半身が腕を振りかぶる。その指先から爪が伸びるのが見えた。爪の攻撃なら、ハルキゲニアで経験済みだ。アラクネのものよりもずっと厄介で、強靭な爪を……。
サーベルの軌道をイメージし、そのために必要な肉体の動きを算出した。そして、呼吸を止める。
堅い感触が腕に広がったが、斬撃は一切ゆるめない。一撃、二撃、三撃――風圧が髪を乱す。丸く見開かれたアラクネの瞳は、刃の嵐に揉まれて消えた。
奴の弱点部位に関する知識はない。なら、ひたすら刻むだけだ。
わたしが自然に落下をはじめたのと、アラクネが蒸発したのはほとんど同時だった。
着地のために体勢を整えようとしたのだが、身体が言うことを聞かない。随分とぎりぎりだったんだなあ、とどこかぼんやりした気分で思う。
やがてわたしは、地面に打ち付けられた。けれども痛みはない。それどころか、指一本動かすのがやっとだった。
ともあれ、敵は討ち倒した。人語を解し、小人に対して餌を要求し続けた『女王蜘蛛』はもういない。
――と、目の端でなにかが動いた。
小さく蠢くなにか。
それが子蜘蛛だと気付いたとき、ぞわりと悪寒が走った。今のわたしには抵抗する力なんてない。たとえ一匹の子蜘蛛相手であっても。
素早く脚を動かしてこちらへと迫るその姿に、思わず目をつむった。痛みさえ消え果てたこの状況では視覚情報が唯一といってもよかったのだが、それを見続けるのは拷問じみている。
だから、ぎゅっと目をつむったままでいた。
――遠くでなにかが鳴っている。やがてそれは音の輪郭を得て、人の声であることが分かった。
「お嬢さん」
目を開けると、周囲は橙色の温かな光に包まれていた。顔を動かし、なんとか光源を見上げる。ランプと、それを手にした骸骨男。
「素晴らしい活躍です」
そう言って、ヨハンは歪に笑った。
「……今はこのざまだけど」
ためしに口を開くと、なんとか声を出せた。
間一髪のところでヨハンが来てくれたのだろう。アラクネは光を恐れる習性があるが、子蜘蛛も同様である。だからこそ、こうしてランプを灯して追い払ってくれたというわけだ。
「助かったわ。ありがとう」
ヨハンは首を横に振り、しゃがみ込んだ。
「いいえ。お互い必要な仕事をしただけです。これで小人の求めには応じたわけですから。さて、報酬を受け取りに行きましょう」
その気持ちはやまやまだけど、この状態では歩くことはおろか立つのも不可能だ。「ごめんなさい。動けるようになるまでしばらくかかりそう――」
わたしの声はヨハンの言葉に遮られた。「知ってます。お嬢さんはのんびりしていてください」
視界が揺れる。ヨハンに背負われるのがはっきりと分かった。
「ちょ、や、やめて! 大丈夫! 大丈夫だから」
「大丈夫じゃないでしょうよ。いいから大人しくしていてください。お嬢さんの回復を待つくらいなら背負ってでも先に進みます。……アリスさんと坊ちゃんが心配じゃないんですか?」
それを言われると困る。けれど、わたしだって乙女なのだ。体力の欠片も感じない不健康な男に背負われるなんて……。
「重かったら、捨てていって……」
ぼそり、と呟く。
「重くないですよ。平気です。……それに、私だって同じように運んでもらいましたから。おあいこです」
『魔の径』のことを言っているのだろう。確かに、意識を失ったヨハンを背負って歩いたけれど、それとこれとは同じじゃないはず――あれ、同じかも?
「悔しい……恥ずかしい……」
「まあ、たっぷりと屈辱を味わうんですな」
おどけたように彼は言った。今は身を任せるしかないのだろう。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『魔の径』→『吶喊湿原』、『毒瑠璃の洞窟』、『大虚穴』からなる、ハルキゲニアと外部と結ぶ秘密の経路。詳しくは『第四話「魔の径」』にて
・『疑似餌』→魔物の持つ魔力誘引特性を利用した魔物引き寄せの魔術。対象の身体に魔力を注ぎ込むので、対象者が引き寄せの力を持つ。詳しくは『83.「疑似餌」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場




