222.「井の中の蛙と、迂闊な野蛮人」
天井から唸り声がした。
どうやら大蜘蛛の威嚇らしい。蜘蛛のくせに発声器官を持つだなんて、随分と妙な機構をしているじゃないか。
暗闇の先で、アラクネはじっとこちらを見つめている。気配は正確にたどれているはずだ。彼女の輪郭は多少ぼやけているものの、動きがあれば察知出来る。
どうしてこの暗闇で攻撃を避けることが出来たのか、疑問に感じているのだろう。奴にしてみれば、人間は暗闇で行動を制限される生き物であり、したがって敵ではないと思い込んでいたに違いない。井の中の蛙だ。
しかし……。
ひとつ気がかりなことがあった。アラクネの気配は強烈で、つまり察知しやすいといえばしやすい。裏を返せば、ほかに魔物が存在した場合は気が付かない可能性がある。あまりに大っぴらで強大な気配に集中するあまり、小さな気配を見落としてしまうこともありうるのだ。現に王都で大型魔物を討伐しているときに、すぐそばまで寄っていたグールに気が付かなかったことがあった。王都での討伐任務は必ず複数人での行動だったので、そのときは仲間に助けられたものの、ひとりきりだったら危なかったかもしれない。いくら知識や経験を積んでも、絶対ということはないのだ。アラクネに集中すべきときではあったが、どうしても嫌な想像に引っ張られてしまう。
「貴女……見えるのねぇ。こっちの姿も、攻撃も」
アラクネの声は表面的な冷静さはあったものの、動揺を隠せてはいなかった。奴にとって、人間に抵抗されること自体がはじめての経験なのかもしれない。今までぬくぬくと与えられた餌を口にしてきたのだから当然か。
アラクネの言葉に返事をするつもりはなかった。魔物と会話してペースを乱すのもつまらない。『鏡の森』のバンシーは別物だったけど。
しかし、いつまでも天井に貼り付かれたら攻撃のしようがない。いい加減降りてきてもらわないと。
しゃがみ込んで手頃な石を握った。ちょうど手のひらに収まって、かつ投擲に支障の出ない丸みの物である。おあつらえ向きだ。
しゃがんだままアラクネの位置に意識を集中する。狙うなら――。
起き上がり、その勢いのまま思い切り投げた。狙いは奴の複眼。
瞬間、上半身が石を掴むような動きがあった。その直後に破砕音も。
敵意に溢れた動き……。
「小生意気なことするじゃないの……。お姉さん、哀しいわぁ……」
「あなただってわたしを食べようとしてたじゃないの。お互い様よ」
魔物相手にフェアネスなんてないけど。
それにしても、先ほどの反応速度はなかなかである。投擲とはいえ、生半可な速度ではなかったはずだ。それを容易く掴んで砕いてしまうとは。
ラーミアも上半身は人だったが、弱点とされるほど弱々しいものである。その一方でアラクネは、今の動きを見る限り上半身が致命的な弱点とは言えないかもしれない。無論、蜘蛛の部分よりは脆いのだろうけど、油断していると足元を掬われる。
「貴女の武器じゃ、お姉さんには届かないわねぇ……。小石をポイするだけ……まあ、可愛らしい」
クスクス笑いが反響する。こちらのペースを乱すだけの言葉なんて少しも気にならない。肝心なのは奴の口にした思い込みだ。
わたしのサーベルは、普通なら天井にいるアラクネの脅威にはならないだろう。そう、普通なら。
石筍の位置と高さを頭のなかでシミュレートする。それを足場にして力の限り跳び上がれば、奴の甘い想定ごと切り裂いてやれるはずだ。
呼吸を整えて、しゃがみ込んだ。そしてもう一度小石を手に取る。使える物はとことんまで使ってやろうじゃないか。
「アァアァハハ……。また小石? お姉さんも舐められたものねぇ……」
気味の悪い笑いも、腹立たしい物言いも、すぐに終わらせてやる。
起き上がりざま、先ほど同様に小石を放った。今度も狙いは複眼である。けれど、それで終わりにはしない。その勢いのまま石筍に跳び乗り、それを足場にして跳躍した。
「――ッ!!」
息を呑む大袈裟な音がする。確かに、普通の人間に跳躍出来る高さではないだろう。けれどこちらは王都仕込みの騎士だ。苛酷な戦闘は何度も経験している。『最果て』でも、命を削る場面は何度もあった。
目の前にアラクネの姿がある。無論、現実の目は暗闇に覆われていたが、奴の気配はくっきりした輪郭をかたどっていた。
息を止め、サーベルを振る。
一撃、そして二撃――。
三撃目は、空を裂いた。アラクネが天井を移動したのである。着地して、奴の気配を読み直す。脚一本の両断、そして、別の脚に深い傷がひと筋。すぐに後退されてしまったとはいえ、悪くない成果だ。これで奴の動きも制限されてくれれば充分である。
アラクネの荒い息が聴こえた。魔物も呼吸するのだろうか。それとも、人間の真似事をしているだけなのか。
「よくも……。ああ、脚が……。痛い……」
痛覚は存在するようである。だからといって一切容赦するつもりはない。たとえ人間の言葉を扱おうとも、相手は魔物だ。
「次は脚一本じゃ済まないかもしれないわね」
再び切っ先を奴に向けた。闇の先から歯軋りが聴こえる。
「いい気になるんじゃないよ……。野蛮人め……」
野蛮人ときたか。倒錯もいいところだ。小人を脅して自分の腹を満たすための契約を結んだくせに。
不意に耳元で囁きがして、ぶるりと身体が震えた。唐突なヨハンの囁きは控えめに言って、かなり気持ち悪い。
「お嬢さん。どうも様子がおかしいです。なにか仕掛けるつもりかもしれませんので、注意してください」
そんなこと、とっくに理解している。攻撃を受けて大人しくしている相手だなんて思っていない。問題はどんな攻撃をするかだ。
サーベルをかまえ直し、奴の動きを静観した。が、アラクネに動く様子は見えない。天井の片隅でじっとしているだけである。一体なにを目論んでいるのだろう。
またも、耳元に囁きが届く。
「おかしいとは思っていたんですが、お嬢さん……この場所だけ異様に石筍が多くはないですかね。自然に作られる物だとしたら、先ほどの空洞と大きく条件は変わらないはず……。この場所自体が、どうもおかしいです」
言われてみれば多過ぎる。自然発生したのではないとしたら、一体……。
瞬間、ぞわりと嫌な予感が全身を駆けめぐった。どうしてわたしはこの程度のことを思い至らなかったのだろう。
先ほど大穴を落ちた際に、アラクネの巣に捕らえられた。あれが奴の住処とばかり思っていたが、本当は違うのではないか。たとえば、獲物が降ってくるときだけ大穴へ出向き、それ以外の時間は本当の住処で過ごしているとしたら。産卵や子育てをおこなうエリアが別に用意してあっても決して不思議ではない。
がさり、と空洞内に生物的な音が響く。それは段々と数を増し、疑いようがなくなった。
大量の子蜘蛛。それまで石筍と思っていたものは、実はアラクネが産みつけた卵であり、それが孵って――。
地を蠢く無数の脚。それらが鳴らすトトトトトト、という音。気配を読め、と奮い立たせても産まれたてのそれらはごく微量の気配しか持っていなかった。それが無数にぼんやりと感じられる。そして小さな気配を霞ませるアラクネの存在。
「アラクネの牙には神経毒があります。絶対に――」
ヨハンの言葉は耳に入らなかった。足元に迫った小人ほどのサイズの蜘蛛をサーベルで裂いたものの、足に鋭い痛みが走ったのだ。
心臓が急激に鼓動を早める。『迂闊』の二文字が頭をぐるぐると回っていた。
神経毒に関しては知っている。アラクネの持つ特徴として触れていた書物があったはず。
足元を中心にサーベルを振り続けた。
どうしてこうも迂闊なのだろう。大型魔物を何度も討伐してきたはずなのに。悔しさに身を焼かれるような思いだった。
「お嬢さん」冷静な囁きが耳に流れ込む。ヨハンは、わたしが子蜘蛛に噛まれたことまで察しているようだった。「正真正銘、最後の魔術を使います。これ以降は決して期待しないでください。……子蜘蛛はすべて私が引き受けましょう。お嬢さんは神経毒が回る前にアラクネを倒すんです。いいですか。アラクネの毒に動きを奪われる前に、必ず討伐してください」
引き受けるだなんて、どうやって――。
思わず振り向くと、ヨハンの姿がぼんやりと見えた。その身には、尋常ではない魔力が溢れている。
ヨハンの――現実の声が反響した。
「案山子」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場




