219.「おうち、あるいは食卓、あるいは罠」
その姿が薄っすらと見えた瞬間、肌が粟立った。ほっそりした上半身は女性のそれで、下半身は大蜘蛛。叩き付けるかのごとく強烈な魔物の気配に、神経が昂る。
半人半蜘蛛の魔物。確か、その名前は――アラクネ。人語を解し、呪力も持ち合わせている。下半身の蜘蛛が吐いた糸で敵をからめ取り、じっくりと時間をかけて捕食する様子は恐怖譚として語り継がれている。
暗闇を好む性質から人前に姿を現さない魔物として知られていた。現に、こうして目にしたのははじめてである。
下半身の蜘蛛の複眼がほんのり赤く輝いている。
「アァア……貴女美味しそうねぇ。久しぶりのお食事だから興奮しちゃう……」
アラクネの恍惚とした声がする。発声しているのは当然のことながら上半部の女性だ。粘っこい声音である。
ヨハンはまだロープにぶら下がっているのだろうか。ランプの灯りすらも厚い闇に呑まれて見えない。状況は最悪だったが、自力で対処しなくては……。
とりあえず、サーベルを引き抜くまでの時間を稼ぐべきだろう。このまま襲われたら都合のいい餌にしかならない。
「あなたが『女王蜘蛛』?」
聞くと、またしても愉快そうな笑いが響いた。「アアァアハハ……。なぁに、それ。小人ちゃんはそんなふうに呼んだのぉ? お姉さん傷付くわぁ……」
嫌な喋り方だ。けれどもなんとか会話を続けなければ。
「そうよ。小人ちゃんに頼まれて穴を降りてきたの。こんなに素敵なお姉さんとお喋り出来るなんて光栄だわ」
右腕の痺れは取れてきた。あとは糸から引き剥がしてサーベルを抜くだけだ。
「あら、褒め上手ね。でも、お喋りしたいって言うんなら口だけ動かせば充分でしょう?」
べたり、と右腕に粘性の感触が広がった。こちらの動きが察知されたのだろう。糸を追加して抵抗力を奪ったわけか。
糸でべたべたになった右腕は、どれだけ力を入れてもサーベルには届きそうになかった。
油断したわけではない。細心の注意を払って動いたはずだ。けれどもアラクネは、おそらく糸の振動からこちらの行動を読み取ったのだろう。武器を抜くための時間稼ぎをしていることまで見抜かれているかもしれない。
まずい。
非常にまずい。
「あら……静かになっちゃった……。やっぱりお喋りじゃなくて時間稼ぎがしたかっただけなのね……。お姉さん傷付くわぁ……」
さもしょんぼりした口調ではあったが、その声にはどこか愉しむような響きが混じっていた。彼女の語った通りなら、こうして人間と関わるのは久しぶりなのだろう。目的は捕食だろうけど、こうして無駄口を聞いていることから考えるに、胃に収めるまでの過程も存分に味わうつもりなのだろう。
獲物がどんな言葉を口にするのか、どんな反応をするのか。あるいは、どんな悲鳴を上げるのか……。
絶望的な状況。こちらの動きはどんな些細なものであれ、アラクネに筒抜けである。彼女の巣の上ではいかなる抵抗も察知されてしまうということだろう。
こんなとき、どうすべきなのだろう。ほかの騎士なら、あるいはニコルなら、あるいは――ヨハンなら。
「傷付けてしまったなら、ごめんなさい。わたしも動揺してるのよ。これから食べられちゃうって思うと気が気じゃないの」
「うん、そうよね。謝らなくって大丈夫……。食べることには変わりないもの」
「今わたしを食べて、あなたは満腹になるかしら?」
「さあ、食べてみないと分からないわぁ……」
「そこで、ひとつ提案があるの。この穴の上には、実は小人もいるし人間もたくさんいるわ。あなたが今後餓えないように協力してあげてもいいんだけど」
もちろん嘘だ。魔物の腹を満たす協力なんて絶対にしない。あくまでも交渉することで窮状を切り抜けられないかと画策しているだけである。先ほどアラクネは『久しぶりの食事』と言った。ならば、その不満を突くのが最適だ。
「久しぶりの食事は魅力的でしょうけど、やっぱり定期的にお腹を満たせるのが一番じゃない?」
くすり、とアラクネの呆れ笑いが漏れた。「やぁねぇ。お姉さんはこう見えて律儀なのよ……。約束は守るタイプなの……。小人ちゃんと指切りげんまんしたのよ。貴女みたいな餌とは一切交渉しない、って」
は?
小人と約束?
「それ、詳しく聞かせてもらえないかしら」
クスクスと、先ほどよりも少し愉しげな笑い声が聴こえた。この状況が面白いのだろうか、それともわたしの無知を笑っているだけなのだろうか。
「いいわ。教えてあげる……。お姉さんはね、小人ちゃんと取引をしたのよ。無差別に小人ちゃんを襲わない代わりに、定期的にお姉さんのおうちに餌を落とすように、って」
やっぱり騙されていたわけか。『女王蜘蛛』は存在したし、小人がロープを切断するようなこともなかったけれど……あの老小人はアラクネのために、餌として人間を提供する契約を交わしていたのである。
腹立たしい。
「お姉さん、こう見えて小食なの。……小人なら一週間。人間なら一ヶ月。それがお食事の取引よ。小人ちゃんたら律儀だから、一日だって破ったことはなかったわぁ……」
小人も餌に含まれているのか。自分たちの生活を守るため、同族のなかから犠牲者を選出するなんて……。決定権はあの老小人にあるのだろう、きっと。
ハイペリカムの生贄を思い出す。あの場所でも人は魔物の思惑に支配され、犠牲を出し続けたのだ。悲鳴や涙に耳を塞いで、自己正当化して……。
小人と人間は同じ存在ではない。文化も習俗も違う。けれど、犠牲が出ることを喜んでいるわけがない。
「世知辛いわね」
ぽつり、と呟く。すると、不快な哄笑が響いた。
「アァアァハハ……。貴女の言う通りだわぁ。本当に残酷よねぇ……。お姉さん、同情しちゃう」
「なら、見逃してくれたりするかしら?」
「いやぁねぇ。キチンとお行儀よく食べてあげるわよぉ……」
むざむざ食われてたまるか。そうは思ったものの、抵抗する術がない。仰向けにべっとりと捕らえられているのだ。
けれど、出来ることは全部やり尽くす。
「あらぁ……。健気さんなのねぇ、貴女」
なんとか身を起こすことが出来ないかと思って全身でもがく。それをアラクネに呆れられたところで気にしてはいられない。こっちは必死なのだ。どれだけ無様でももがいてやる。
身を左右に振り、膝を曲げ、腕に力を籠める。
夜目が利いてきたのか、先ほどよりもアラクネの姿がはっきりと見えた。彼女は頬に手を当ててじっとこちらを眺めている。まるで興味深い劇でも見るように。
糸から逃れることさえ出来れば、その余裕ぶった態度もろとも切り裂いてやるのに……。
「頑張り屋さんねぇ……。なんだか応援したくなっちゃう」
勝手に感心していればいい。こっちはそれどころではないのだ。粘つく糸は強敵で、なかなか身体から離れてくれそうにない。特に右腕は、追加された糸によって動きがとれなくなっている。サーベルを抜くなら左腕だろうけど、柄の部分を覆うように付着した糸は容易に引き剥がせるものではない。
けれども、確実に前進していた。もうじき身を起こせそうなくらいに。そこから先は巣を足場に立ち上がって、奴の攻撃を避けつつじっくりとサーベルを抜けばいい。
「あら」
ようやく身を起こし、その勢いで立ち上がるとアラクネの声がした。驚嘆するような感心するような音。
身体の次はサーベル――。
柄へと手を伸ばした瞬間、こちら目がけて巨体が接近した。大蜘蛛の下半身は意外なほど素早く、咄嗟に避けようとしたのだが足元の糸に引っ張られて避けきれなかった。
アラクネの脚が迫る――直後、腹を中心に焼けるような痛みと衝撃が広がった。身体が吹き飛ばされ、やがて、背中から壁に激突した。肺の空気が全部押し出されたような感覚が広がる。
そして今度は、俯せの体勢でべっとりと巣に落下した。
「せっかく起き上がったのに残念ねぇ……ん?」
アラクネが宙を見上げ、口をぽかんと開けた。
つられて上を見ると――。
漆黒の闇を貫くように、真っ赤な光の粒が降り注いでくる。
思わず、不気味な骸骨顔を思い描いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ハイペリカム』→ハルキゲニアの手前に位置する村。『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』の舞台




