218.「蜘蛛の大穴」
洞窟に空いた大穴。覗き込むと、吸い込まれそうな漆黒が広がっていた。
穴の縁にはロープが垂らされている。これを使って降りろということだろう。
「このロープは底まで続いてるんでしょうね!?」
相変わらずの小人の大合唱に負けないように叫んだつもりだったが、老小人は答えるつもりがないようである。そもそも彼の姿は小人の群集に埋まって見えなくなっていた。
小人がせっせと足を押す。なんとか踏ん張ってはいたものの、じりじりと穴に近付いていった。……降りるしかないのだろう。
ヨハンに目くばせすると、彼は軽く頷いた。これしか方法はないのだ、きっと。ヨハンに天の階段が使えればと思ったのだが、やむをえない。
ロープに手をかけて少し降りると、ヨハンも続いた。二人分の重みでロープが嫌な音を立てる。下には暗闇がどこまでも続いているように見えたが、本当にこのロープで底まで降りれるのだろうか。
「進むしかないでしょうね」
言って、ヨハンは器用に片手で鞄を開けてランプを取り出し、火を灯した。ぽ、っと周囲が明るくなる。けれども光はささやかで、穴の壁を照らす程度だ。なにもないよりはずっといいけれど、不安しか感じない状況である。
「わたしたち、騙されてるのかも」
降りつつ、ぽつりと呟いた。もしかすると、小人たちが排除したかったのはわたしたちなのかもしれない。姿をさらした以上、生かしておけない、と。『女王蜘蛛』の討伐は作り話で、今にも上空でロープが切断されるのではないか。わたしたちは底の底まで真っ逆さまに落ちて――。
「嫌な想像をしても仕方ないですよ。今は出来ることをするだけです」
やけに落ち着いた口調である。吹っ切れたのだろうか。それとも、なにか算段でもあるのか……。ヨハンのことだから考えなしだとは思わないけど……。
「『大虚穴』を思い出すわね」
黙々と降りていると、不安に駆られて仕方がない。せめて言葉を交わしていたかった。
「そうですね。あのときは迷惑をかけました……。面目ない」
「気にしないで。助け合う契約だもの」
意識を失ったヨハンを背負って進んだときのことを思い出す。『毒瑠璃の洞窟』では毒ガスを溜め込んだ巨大スライムから逃げ、『大虚穴』をひたすら登ったのだ。足場の悪い階段を、延々と。
今は、あのときよりも環境が悪い。ロープ一本で穴を降りているのだ。すべてが終わったら、今度は登る必要があるだろう。穴の深さにもよるが過酷極まりない。
けれどもなぜか、ヨハンを背負って進んだときよりも気は楽だった。それだけ彼を頼りにしているのかもしれない。認めたくないけど。
「『女王蜘蛛』って、なんなのかしら」
「さあ。岩蜘蛛の女王なら簡単に蹴散らせますけど、あの小人の様子はどうも……別のものを指しているように思えますね」
別のものか。たとえばなんだろう。地下深くに潜む蜘蛛なんて、ほかにいるだろうか。なんにせよ、覚悟しておいたほうがいい。なにが起こるか分からない以上、警戒すべきだ。
それにしても……。
「『女王』に縁があるわね……随分と」
ハルキゲニアの女王――エリザベートもわたしたちの敵だった。こんな短期間に二度も女王と対峙するなんて、笑い話にもならない。
「そうですねぇ。いやはや、厄介事ばかりです」
レジスタンスに協力したのはヨハンのくせに……。そう思ったが口には出さなかった。あくまでも彼は契約で動く人間なのである。終わってしまえば他人事だ。
今も彼と契約を結んで王都までの道のりをたどっているわけだが、いつかこんな関係も終わる。魔王の城まで付き合ってくれるなんて思えないから。契約が終わったあとは、やっぱり、彼にとってわたしは他人になるのだろうか。
思わず首を横に振った。
なにをセンチメンタルな気分になってるんだ。今は馬鹿なことを考えている場合じゃない。無事に穴を降り切れるかどうかの状況だ。集中、集中。
「ちょっと待って!」
思わず叫んでしまった。
「なんですか?」とヨハンの張り詰めた声が届く。
悪寒と眩暈。そして吐き気。はるか下から、強烈な気配が漂ってくる。意識を集中しないと手の力が抜けてしまいそうな、異様な引力を持った気配。
間違いなく魔物だ。それも、グールや子鬼みたいな小型の奴じゃない。
「ずっと下に魔物がいる……。多分、中型か大型」
その瞬間である。背中が強く引かれた。ロープを握り直そうとしたが、尋常でない力で引かれ――。
指先が、ロープから離れた。
ヨハンがこちらを見ている。大きく見開いた目と、なにやら叫ぶ口元。けれどもそれは一瞬で遠ざかり、暗闇に呑まれていった。
今自分がどうなっているのか分からない。背中を引かれているということと、すさまじい勢いで落下しているということだけは確かだ。落ちるにつれて魔物の気配が強くなっていくように思えたが、正確に読み取ることが出来ない。この状況が集中力を奪ってしまっているのだ。
サーベルに手をかけようとした瞬間、身体が大きく振られた。勢いそのままに軌道が変わったものだから、サーベルへと伸ばした腕が止まる。そして目の前には壁が迫って――。
轟音が頭のなかで響き渡った。目の裏に火花が散り、思考が飛ぶ。自分の呼吸がどうなっているのかも分からない。ただ、吐血したような感覚はあった。
背をなにかに掴まれたまま穴の壁に叩きつけられたことを理解したのは、一拍置いてからだった。まるで獲物を弱らせるかのごとく壁に激突させたのだろう。魔物の仕業であることは疑いようがない。
この勢いのまま地面に叩きつけられたら……間違いなく絶命する。状況は最悪で、けれども対処が出来ない。サーベルへ伸ばそうとした右腕は先ほどの衝撃で痺れ、なすがままに落ちていく――。
やがて背中に強烈な衝撃を感じた。まるで地面が沈み込むような感覚――。いや、現に沈み込んでいる。仰向けなのでよく分からなかったが、なにか、クッションのようなものに衝撃を吸収されたようだ。沈み込んだそれは徐々に元に戻っていく。
絶命は免れたものの、呼吸が出来なかった。吸収しきれなかった衝撃が呼吸を奪ったのだろう。苦しい。
もがくと、背中を中心として手足に抵抗を感じた。なにか、粘り気のある抵抗である。たとえるなら、そう――自分が小さな虫で、したたかに張りめぐらされた蜘蛛の巣にかかってしまったような、そんな具合。
――いや、まさにそういう状況なのではないか。落ちたのは魔物の張りめぐらした巣で、わたしはまさに捕食対象……。呼吸は落ち着いてきたものの、頭はまだ混乱している。
と、荒い呼吸音が聴こえた。もちろん、わたしのものではない。きっと落ちる前から、その呼吸は繰り返されていたのだろう。暗闇の先から絶えず聴こえてくる。
指先を動かすと、粘度の高い糸のようなものが張り付いているのが分かった。
蜘蛛に似た魔物……。ぼんやりとする意識に鞭打って、必死で頭を回す。今まで出会った魔物のなかに、そういう奴はいなかったか?
背中に微かな振動が伝わる。わたしをここまで落とし、今まさに食おうと考えているその魔物が動き回っているのだ。せめてサーベルに手を伸ばすことが出来ればと思ったが、先ほどの痺れがまだ続いていて、糸をなんとかするほどの力が入らない。
やがて、おぞましい哄笑が響き渡った。
「アァアァアアァハァハハハ……」
女の声。けれども、人のそれよりもずっと歪んだ音だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『天の階段』→空中に透明な足場を作る魔術。初出は『112.「ツイン・ラビット」』
・『大虚穴』→『毒瑠璃の洞窟』の先にある巨大な縦穴。レジスタンスのアジトへと続く階段がある。詳しくは『106.「大虚穴」』にて
・『毒瑠璃の洞窟』→毒性の鉱物である毒瑠璃が多く存在する洞窟。詳しくは『102.「毒瑠璃の洞窟」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『エリザベート』→ハルキゲニアの元女王。高慢で華美な人間。ルイーザの母。詳しくは『174.「ハルキゲニアの女王」』にて
・『巨大スライム』→ここでは『毒瑠璃の洞窟』に潜む巨大なスライムを指している。詳しくは『103.「毒瑠璃とスライム」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて




