213.「回帰」
森を真っ直ぐ進むと、懐かしい姿があった。
ヨハン、アリス、ノックス。そして――木の根元に座り込んで青白い顔をしているわたし自身。こうして自分を完全に客観視するのは酷く奇妙で、なんだか落ち着かない気分になった。
ヨハンたちは、不調をきたしたわたしを休ませているのだろう。そこから動く気配はなかった。アリスは不機嫌そうな仏頂面だったが、ノックスは不安げにわたしの手を握り、ヨハンはというと、木にもたれかかって普段通りの骸骨顔でぼうっとしている。あ、今あくびした。わたしの肉体がこんなに弱ってるのに……。
ともあれ、ヨハンの態度はどこか達観しているふうだった。なにもかも知っているのではないかと勘繰ってしまうくらいに。
ふと魔が差して、ヨハンの顔の辺りで手をぶんぶんと振ってみた。けれども反応はない。
彼らには、精神だけになったわたしは認識できないようである。物理的にはどうなっているのだろう。こうして地面を踏みしめていることは確かだけれど、他人に触れたり出来るのだろうか。
アリスの脇腹を、ちょっとした好奇心でつついてみた。
「――んにゃッ!」
びくん、と身体が震え、変な声を出した挙句、辺りをきょろきょろと見回すアリス。そんな彼女を怪訝そうな顔で見つめるヨハンと、小首を傾げるノックス。笑いをこらえるので精一杯だった。
「……ヨハン。あんたなにかしたね?」
アリスはほんのりと頬を赤らめて攻撃的な口調で言った。まあ、この状況で脇をつつかれれば犯人はヨハン以外にいないと考えるのが普通だ。
「なにを言ってるんですか。私はなんにもしていませんよ」
ニヤニヤと答えるその様は、まるで企みを抱えているように見えてならない。
「嘘つけ! 暇だからあたしの脇をくすぐったんだろ、この変態!」
「そんな趣味はありませんなぁ」
しばらく眺めていたかったが、二人を交互に見つめるノックスが不憫に思えた。そろそろ戻らなきゃ。
わたし自身の身体を、しゃがみ込んで見つめる。息は浅く、そして薄い。精神体が近くに来ても、一度悪化した症状は治らないらしい。しかしそれも、分離された二人が元に戻れば解消されるはず。
これでグレガーの施した魔術は終わりだ。『鏡の森』が人を攫う現象も、終止符が打たれる。
そっと自分の顔に触れると、一瞬暗闇が訪れ、酩酊したような吐き気に襲われた。そして視点が、肉体に戻る。手足の冷たさが一挙に訪れ、呼吸のリズムも大きく乱れた。頭痛と眩暈が渦のように頭を包み込む。
俯いて、しばし呼吸に専念した。ノックスに握られた手が温かい。ずっとこうして握っていてくれたのだろう。本当に優しい子だ。
肉体に戻った瞬間の様々な不調は、みるみるうちに薄れていった。きっと頬にも赤みが戻っていることだろう。
ふと気が付くと、三人がわたしを見つめていた。ヨハンは口の端を上げ、アリスは深く息をつき、ノックスは無表情だったが先ほどよりも強く手を握る。その表情や反応は様々だったが、けれども、共通して安堵が表れているように思えた。
「……ただいま」
呟くと、アリスは舌打ちを、ノックスは頷きを、ヨハンは薄気味悪い笑みを返した。
「ずっとここでへばってたじゃないか、お嬢ちゃん」
アリスの口調は、思っていたよりも棘がなかった。彼女も心配してくれていたのだろうか。だとしたら、案外優しいんだな。
「まあ、色々あったんでしょうね。落ち着くまで休んでいても大丈夫ですよ。……今は夜ですが、どうもこの森ではバンシー以外の魔物が出現しないようです。バンシー自体も、お嬢さんとはぐれたときに襲われたきり姿を見せていませんし」
ヨハンは薄笑いを浮かべたまま続ける。「なんにせよ、回復してくれたようでなによりです。ビクターの手記にあった通りの状況が起こっていましたから、ひとまずは足を止めていたんですよ」
「迷惑かけてごめんなさい……。けど、もう大丈夫よ。わたしは回復したし、これから『鏡の森』で同じ症状が発生することはないわ」
興味深げに、ヨハンが眉を持ち上げる。アリスも説明を求めるようにこちらを見つめていた。
一旦彼らから目を逸らし、ノックスの頭を撫でる。「ずっと手を握っててくれたのね。ありがとう」
彼はゆっくりと頷いて、「良かった」とひと言だけ呟いた。
その言葉だけで充分だ。多くを語る必要なんてない。それだけで、彼がどれだけ心配していたかがよく分かる。不安に思わせてしまったことへの申し訳なさと、真っ直ぐ想っていてくれたことへの嬉しさが、互いに混ざり合って心に広がった。
「わたしはもう大丈夫。心配かけて本当にごめんなさい。……さあ、出発しましょう」
立ち上がっても、ふらつくことはなかった。肉体と精神は、きっと違和感なく一致しているのだろう。
「また気分が悪くなったら言ってください。休憩なら取りますので」
頷いて、歩き出す。『足取り蔦』や『爆弾胞子』に注意しつつの道のりではあったが、ずっと気が楽だった。この森はもはや安全とも言える。なぜなら――。
「さて、歩きがてら騎士様の冒険譚でも聞きましょうかね」と投げかけたヨハンの顔には、どこか不敵な笑みが浮かんでいた。彼はなにもかも知っているふうな態度が上手い。
「じゃあ、まずははぐれたときのことから――」
『鏡の森』で起きた顛末を、包み隠さずに語った。バンシーに騙されて崖下に落ちたこと。彼女らの叫びで意識が途絶え、気付いたときにはバンシーと一緒に森を進んでいたこと。『聖樹宮』の様子。そして、グレガーの魔術。
「……すると、グレガーとやらはとんでもなく優秀な魔術師でしょうな」とヨハンは口を挟んだ。
「ええ。魔紋を描くと言っても、正確な知識と技術がなければ完成しないわ。それも、三つの魔術が複合された魔紋なんて、複雑なんてレベルじゃないし」
元騎士ナンバー2は伊達じゃないということだ。つくづく厄介な存在だったが、脅威はすでに去っている。
魔樹を切り倒したこと、そしてバンシーに導かれてここまでたどり着いたことを続けて語った。
「いやはや」とヨハンは髪を搔き上げて、晴れやかな表情を見せた。「親切な魔物だなんて、ちょっと信じられないですね」
「お嬢ちゃんは騙されやすいからねぇ。親切なふりをしてただけかもよ」とアリスは挑発的に言う。
「誓って言うけど、バンシーに悪意はなかったわ。ただの親切心の塊よ。攻撃のタイミングや、呪術をかける機会なんていくらでもあったのに彼女たちはなにもしなかった。それってありえないと思わない?」
アリスは眉間に皺を寄せて唸る。
「ありえないことが起きていた以上、この森のバンシーを常識で計るのは違うと思っただけ」
それに、ここのバンシーは魔物であって魔物ではない。特に、わたしをここまで導いてくれたバンシーは、メアリーという過去の名を持っていた。
「メアリーですか……」
ヨハンはそう呟いて黙り込んだ。考えに耽る気持ちもよく分かる。その事実が意味するところは不透明だし、どうしてもビクターの実験と繋ぎ合わせて考えてしまうからだ。
彼女は暗い穴に閉じ込められていたと言った。それは間違いなく、ビクターがメアリーの肉体に対しておこなった実験のせいだろう。蘇った身体が崩壊するまで、彼女の精神は暗闇に囚われていたのだ。
自然とため息が漏れ出た。
すべてが繋がり合っている。悲劇の糸が、どこまでも。
しかしだ。ビクターは死んだ。メアリーの肉体も滅びた。そしてようやく、バンシーとなったメアリーも解放されたのだろう。
魔物になることが良いとは決して思えないけれど、でも、今彼女が楽しく生きているのならそれは否定すべきではない。ようやく手にした平穏なんだ。存分に謳歌する権利は持っているだろう。
「それにしても、やっぱり引っかかったのはお嬢ちゃんだったねぇ」とアリスは愉しげに嘲る。
「それに関しては否定出来ないけど、グレガーの魔術から逃れられる人間なんてごくひと握りでしょうね。それぐらい大規模なものだから。いくら注意したって逃れることは出来ないわ」
「ま、それもそうだねぇ。なんにせよ、無事で良かったよ。獲物の横取りなんて気に食わないからね」
アリスは平然と口にする。彼女のなかでは、わたしとの決闘は既定路線なのだろう。まったく、どこまでも戦闘狂だ。
「良かった」とノックスがぼそりと呟く。ここまでの話を彼がどれだけ理解したのかは分からなかったが、安心してくれたならなによりだ。返事代わりに頭を撫でると、柔らかな髪の感触が手のひらに広がって心地よい。
不意にアリスが足を止めてこちらを振り向いた。どうしてか、こめかみがふるえている。
「もしかして、さっきあたしの脇をつついたのはお嬢ちゃんかい?」
あ、ばれた。
「つい出来心で……」
「へぇ。随分と可愛らしいイタズラをするじゃないか。そういうの、大好きよ。脳天に魔弾をぶち込みたくなるくらい大好き」
ゆるゆるとアリスの手がホルスターへ伸びる。口元は笑みを浮かべていたが、目は笑ってない。
「ごめんなさい、アリス。許して?」
手を合わせてニッコリと微笑を見せる。けれどもアリスは意に介さず、魔銃を抜いた。
「二人とも落ち着いてくださいよ。まったく、先が思いやられます」
ぴしゃり、とヨハンが釘を刺す。アリスは舌打ちをして魔銃をしまい、「今度たっぷり仕返ししてあげるからねぇ」と粘っこい口調で言って笑った。
助かった……。
「おや」とヨハンが声を上げる。
道の先は、木々が開けていた。月明かりにしては赤みのある、ぼんやりとした光が地面を彩っている。
木々を抜けると、わたしたちは一様に上を見上げ、そして目の前へと視線を戻した。
「これでひとつ、関門は突破しましたね」とヨハン。
目の前にそびえる巨大な崖は、切り立った岩山であることを示していた。そして、崖が地面と接する箇所に洞穴が空いている。そこに灯された永久魔力灯は、この場所がなんであるかを雄弁に語っていた。
『岩蜘蛛の巣』。
わたしたちが進むべき次なる関門である。この先に待っているのがなんであれ、絶対に足を止めない。
王都には、確実に近付いているのだから。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた物の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。




