210.「聖樹の王の魔術」
海峡の先に広がる森。鬱蒼とした木々は天を覆い、日光の届かない薄暗闇の世界を作り上げている。その大地の上に描かれた、あまりに巨大な魔紋。
魔力の円が描かれ、その内側に複雑な紋が伸びる様子を想像する。目の眩むような景色だった。
「森全体に……魔紋を……?」
言葉を搾り出すのも精一杯である。そんな反応に満足しているのか、グレガーは口角を上げて頷いた。
「そうだ。この森にひとつの巨大な魔紋を形成したのだよ。……まず、『聖樹』は森全体へ魔紋を行き渡らせる役目を持っている。魔紋形成の魔紋を彫ったのだから当然だな。そして森に繁茂する他の魔樹には、魔力維持の魔紋。つまりこうだ――『聖樹』の魔紋に私が魔力を流し込むと、この場所を起点として森の四方へ魔力の線が、さながら地を這うように伸びていく……。魔力の線は方々の魔樹にたどり着くと力を維持したまま伸び続ける。その過程で何度も枝分かれし、そして最後にはこの『聖樹宮』へと再び結びつくのだ。その頃には、大地に魔紋が描かれている。――この森全体が魔紋の発動装置といって差しつかえない」
そしてその巨大な魔紋は、複数の魔術をブレンドさせてあるというわけか。精神抽出魔術、忘却魔術、錯覚魔術……。対象はグレガーが任意に指定し、正確に施される。
思わず感嘆の息が漏れた。すると、わたしは魔紋の上を歩いていたのか。
きっとバンシーの叫びを聴いたあの瞬間、魔紋は完成したのだろう。これだけ大規模で高出力な装置なら、一切抵抗など出来ない。
なのにそれを解除出来たのはどうしてなのか。夢のなかでニコルを見た瞬間、錯覚魔術と忘却魔術が解けたのである。精神的な理由? それともニコルの……。
いや、よそう。考えても仕方がない。
「お姉さんびっくりだねー」
「すごいよねー」
「王様すごいよねー」
「お姉さんのお目々まんまるだー」
「まんまるだねー」
バンシーたちは相変わらず愉快そうにはしゃいでいる。わたしが驚いているのは事実だけれど、その反応をあれこれ言われるのはさすがに恥ずかしい。
「だって、常識じゃ考えられないもの。誰だってびっくりするわ」
そう返すと、バンシーを遮るようにグレガーが立ち上がった。
「そうだろうそうだろう! 私は前例のない魔術を実践したのだよ!」それからぼそぼそと、没頭するような調子で続けた。「これは魔術史を塗りかえる大発明かもしれないのだ……。無論その条件は特殊だが、それさえクリアすれば実行出来る……。精神抽出魔術は理論上かなりの制約がある魔術だが、この装置ならば尋常でない魔力を注ぎ込むことによって強引に施術が可能となる……」
「王様っていつもこうなの」
「呟くのが大好きなの」
「自分と会話してるみたい」
と、バンシーは悪意のない口調で喋る。辛辣な評価だが、グレガーの様子を見る限り妥当だ。興が乗るとこうしてぶつぶつと独り言を口にするのだろう。
「ねえ、グレガー。ちょっといいかしら?」
「ん? なんだね。遠慮せず言うといい」
すっかり気分も回復したようで、彼は平然と返した。自分の状況を分かっているのだろうか。まあ、いいけども。
「魔紋で施した魔術は三種類なのよね? 精神抽出魔術と、忘却魔術と、錯覚魔術」
「そうだ」
「なら、不死魔術はどうやってるの?」
そう。元々グレガーは不死魔術の維持のために、人間をここに招き入れていたのだ。ご丁寧に精神だけの状態にして。
「簡潔に言うと」と切り出して、彼は人さし指を立てた。すっかり得意げな表情である。「精神抽出魔術は不死魔術の一部だ。精神体だけになった人間をベッドに寝かせ、そのまま昏睡状態にする。その間、私は『聖樹』の内部いるだけでいい。被術者から抽出された精神体から、さらに魔力が抽出される。それが『聖樹』の内部に満ちるのだよ。しかし、魔樹は魔力を吸収出来ない。原理原則は省くが、行き場を失った魔力は元々の術者である私へと戻るのだよ。そしてここからが重要だ――戻った魔力は私の肉体に吸収される。理由は先ほど貴女が説明した通り。つまり、私は自らの在り方を組み換え、あらゆる生命活動に魔力を要する肉体へとシフトしているのだよ。だからこそ、吸収した魔力はそのまま人体の修繕へと当てられる。その仕組みを詳しく説明すると――」
「ちょ、ちょっとストップ。もう充分よ」
どこが『簡潔』だ。どうも、魔術に関して語らせるとたがが外れるらしい。
「そうか……? まだ説明すべき点はあるのだが。たとえば体細胞の、魔力による修繕模様だとか……」
「それはとっても興味深いけど、あまりのんびりしていられないの。だから聞くべきことだけ聞ければそれで充分」
するとグレガーは、露骨に肩を落とした。彼自身、正常な状態の人間と会話したのが久しぶりなのだろう。それだけ話が好きなら、ただ招き寄せるだけにすればいいものを……。
なんにせよ、まだ聞きたいことがある。
「魔力を吸収された人はどうなるの?」
こちらの質問に、グレガーはばつの悪そうな表情を見せた。俯きがちに目を泳がせ、口籠っている。
しばらく待っていると、決心したのかぼそりと呟いた。
「消える」
「は?」
なんだそれは。ここまで詳細を嬉々として語ってきた彼にしては、あまりに大雑把で取りとめのない答えである。
そして、はなはだ自信のなさそうな声で続けた。
「厳密には消えるだけではない。被術者が消滅して数日後、森にバンシーが現れる。理屈ははっきりしていないが、なにか因果があるように思えてならないのだが……。バンシーのなかには消滅した者の記憶を引き継いでいる個体さえいるようだ」
――絶句した。精神体が消えて、代わりにバンシーが現れる? そのバンシーが記憶を継承している?
ふわふわと浮かぶバンシーたちを見上げると、彼女たちは曖昧な笑顔を見せた。自分たちもよく分かっていない、とでも言うように。
「……あなたはそれを、どう理解しているの?」
聞くと、グレガーは口元を手のひらで覆って真剣な目付きを見せた。
「思うに……精神体と、この森に存在する……なんだ……バンシーの素とでも言うような……そんなものと結びついて、それで……姿を現すんじゃないか?」
疑問符をつけられても困る。グレガーに理解出来ないような現象をわたしが把握出来そうにはない。けれども彼の言うように、なんらかの因果関係はあると見ていいかもしれない。彼女らが異様に人懐っこかったり、魔物らしからぬ態度を見せたりするのもその影響かもしれないのだ。
「そう……。いいわ。とにかく消えるってことね。……ところで、どうしてわたしを選んだのかしら?」
「魔術師ではないからだ。もし下手に魔術師を導けばどんな反撃を食らうか分からないからな」
わたしは魔力量から明らかに魔術師でないと判断できるだろうけど、それならノックスを対象にする可能性もあったということだろうか。
「わたしと一緒にいた子供を選ばなかったのはどうして?」
すると、グレガーは不思議そうに首を傾げた。「先ほど言ったろう。魔術師は選ばない」
……ノックスを魔術師だと錯覚したのだろうか。グレガーほどの人間が。まったくもって奇妙なことではあったが、詳しく聞き出す時間もない。
さて。聞くべきことは聞いた。
あとは――。
グレガーの瞳を見つめる。彼は目を逸らすでもなく、少したじろいだように瞳が揺れただけだった。
「グレガー。これで最後よ。これでわたしは出て行く。……あなたに危害は加えないわ。もちろん、返事次第だけどね」
彼の喉が上下するのが見えた。その口はぴったりと閉ざされている。あくまでもわたしの言葉を待つように。
「グレガー。あなたの施した魔術は常軌を逸した力を持ってるわ。本当に尊敬する。……けれど、不死魔術の維持はもう終わりにして頂戴。魔紋を作るのもナシ。これからは『聖樹宮』で慎ましく暮らすといいわ」
沈黙が広場を漂う。
『灯り苔』の明滅。『森ぼんぼり』の落ち着いた光。苔の上に生えた、光るキノコ――『灯火茸』――の幽玄な灯り。『ニセホタル』の幻想的な光の粒。
『森ぼんぼり』の漂わせる甘い匂いや、『聖樹宮』を囲んだ川のささやかな水音。森は様々な光に満ち、香りや音も自然を感じさせる。ずっと昔、王立図書館で想像したよりも遥かに豊かな世界が目の前に広がっているのだ。
そんな場所に、悲劇は似合わない。もしグレガーが拒絶するようなら――。
彼は長く目をつむっていたが、やがて一度だけ、はっきりと頷いた。その顔はやや歪み、一抹の苦しみが表れていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『王立図書館』→王都にある図書館。クロエが好んで通っていた場所。




