204.「それはなにより大切な」
王立図書館の一階奥。書架に隠れるようにぽつんと設置された机と椅子。そこはニコルのお気に入りの場所だ。彼に会いたくなったときや、彼が図書館にいると分かったときは必ずそこを訪れることにしていた。もちろん、姿が見えずにがっかりすることもあったけど。
わたしも大概だけど、ニコルだって図書館に足繁く通っている。あれだけの才能がありながら、まだまだ知識を得ようと努力しているのだから負けていられない。
わたしが睡眠時間を削ってまで図書館に通う理由は、彼に追いついて、本当の意味で対等になりたかったからだ。当時はあまり意識しなかったけど、今となっては素直に振り返ることが出来る。
――当時。
――今となっては。
ニコルの顔を見つめて、わたしは崩れ落ちそうになる身体を必死で保っていた。努めて平静に笑いかけたつもりだったが、ニコルは首を傾げる。
「クロエ……なにかあったの?」
相変わらず鋭いなあ、なんて内心で思いながら首を振った。「いえ、なにもないわ」
彼の一語一語が、今は苦しい。心に落ちた雫が波紋となって身体の内側を揺さぶる。今目の前にいるニコルは、わたしがよく知る彼だ。悲劇などひと欠片も見出せない、穏やかな青年。
ニコルはじっとこちらを見つめていた。わたしの奥の奥にある心を見通そうとしているのかもしれない。
彼の向かい側に腰を下ろし、呼吸を整えた。たくさんの想いが絡み合い、複雑な感情となってわたしを苛んでいる。気を抜くと、叫んだり泣いたりしてしまいそうだ。けれど、今はこらえなきゃ。
落ち着くこと。それが第一だ。
ニコルは儚げに、ふっと笑った。
「なにがあったかは聞かないけど、大変な目に遭ってるんだね」
ああ。彼は本当に聡い。わたしの動揺なんてすぐに見抜いてしまえるんだから、敵わない。
「そう。ちょっと面倒なことになってるの」
「この場所で、僕が力になれることがあったら教えてくれないかな」
彼の親切さも、わたしが知ってるまま……。
書架の間に吊り下げられた永久魔力灯が、穏やかな橙色の光を周囲に注いでいる。多くの書物がこの場所で息づいて、訪れる者に知を授けているのだ。
この場所が大好きだった。書物を開いたときの匂いや、見渡す限りの書架。落ち着いた光源の下で開いたページは、いつだってわたしを奮い立たせ、世界を広げてくれる。見たこともない珍妙な植物や、身震いせずにはいられない恐ろしい魔物の記述、奇跡のような魔術の数々。顔も見たことのない大魔術師や偉大な研究者の言葉は、まるで船頭のようにこちらを導いてくれる。
そしてなにより、司書さんとニコルがいる。ここはわたしの大切な場所だ。過ぎゆく時間が惜しいくらいに。
戻りたい時間。戻りたい場所。わたしにとっての一番。
深く息を吸い込むと、懐かしさに涙が滲んだ。ニコルはなにも言わず、こちらを見つめてくれている。
「ニコル」
呼びかけると、彼は薄く微笑んだ。「なんだい?」
「教えてほしいことがあるの」
「いいよ。なんでも言って」
聞くべきことはひとつだけだ。それで充分過ぎる。
先ほど開いた魔紋の書物を思い出す。あれはかなり細かく書かれていた。字も文面も筋が通っている。すると他の書物も同様に、ぎっしりと内容が詰まっているのだろう。――おそらく、禁書以外は。
かつてニコルとわたしは、この場所でたくさんのことを話したはずだ。魔術や魔具についてだとか、見聞きした知識だとか、それこそ数えきれないくらい。今のわたしがどう頑張っても思い出せないような細かい内容についても。
思い出せないなら、聞けばいい。目の前に絶好の相手がいるんだから。
「王都からの追放者について、知ってることを教えて頂戴。――特に、洗脳魔術の使い手に関して」
ニコルは一瞬目を丸くしてから、真剣な表情で頷いた。
書籍をパタン、と閉じる。
「……ありがとう」
必要な知識は、ある程度揃った。あとはわたし自身の問題で、ニコルが介入することは出来ない。
「どういたしまして」そう言って彼は短く笑った。「それにしても――」
言葉が途切れ、少しの沈黙が流れる。永久魔力灯の立てる『じぃぃ』という微かな音が静寂を彩っていた。
「どうしたの?」
先を促すと、ニコルは小さく首を横に振った。彼の前髪がさらさらと揺れる。
「いや……クロエは変わらないな、って思っただけだよ」
変わらない、か。確かに、こうしてニコルの力を借りているところなんてあの頃のままだ。しかし、ニコルは意外な言葉を続けた。
「君は真っ直ぐなままだ」
真っ直ぐ。変わらないことと、変わること。ずきん、と胸が痛む。
「ニコル、あなたは――」
言いかけて、口をつぐんだ。やめておこう。言っても仕方のないことだ。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
「そう」と返して彼は立ち上がった。少し遅れて、わたしも立ち上がる。あまりのんびりもしていられない。
「見送るよ」とニコルはなんでもないことのように言う。
ああ、やっぱり彼はとんでもなく鋭い。なにもかも理解しているのだろう、きっと。
そんな彼にも、自分自身のことは分からないのかもしれない。
二人で書架の間を歩く。口を開かず、黙々と。ふと足を止めて気まぐれに一冊、書架から引き抜いて開いた。しっかりと字が詰まっている。インクの滲んだ箇所もない。なにもかも明瞭だ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
本を閉じて書架に戻す。そして、歩みを再開した。
心の底から図書館が好きだったのだろう、わたしは。毎日毎日飽きずに通い、理解出来たかどうかは別として、多くの本を読んだ。きっと、誰よりも。我ながら呆れてしまうくらい、膨大な知識を詰め込んでしまった。それが今を支えてくれているのだから馬鹿に出来ない。
一階の吹き抜けに出ると、司書さんの姿があった。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「ええ。ちょっと用事を思い出して」
笑いかけると、司書さんは心持ち目を見開いた。
「さっき別れたばかりなのに、なんだか大人びたわね、クロエ。ニコルくんの前で背伸びしてるのかしら?」
「そうなの。ニコルの前で情けないところを見せるわけにはいかないから」
「あら、今日のクロエは随分と素直なのね」
いつだって素直だったつもりだけれど、案外そうでもないらしい。思わず頬がゆるんだ。「たまにはいいでしょ?」
「そうね。じゃあ、気をつけて帰るのよ」言って、司書さんは微笑む。
なんだか胸がいっぱいになって、彼女に背を向けた。わたしの視線の先――学習机の列を抜けたところに出入り口がある。簡素な木製の扉だ。今まで何度も出入りした、馴染み深い扉。
「また来ます。上手くいけば……近いうちに」
司書さんは軽い笑いを漏らし「なに言ってるのよ。どうせ明日も来るんでしょ? 待ってるわ」と言った。
そうだ。明日とはいかずとも、必ず訪れることだろう。この足を止めさえしなければ。
「うん。待ってて」
扉に手をかける。この先は、本来わたしがいるべき場所のはずだ。
ふと名残惜しくなって振り向くと、ニコルと目が合った。彼は相変わらず微笑みを湛えている。
その口元が、薄く開かれた。
「じゃあね、クロエさん」
やっぱり、ニコルには敵わない。だとしても、わたしは……。
頷きを返し、扉を開いた。外は陽光に満ちているのか、目が眩む。奇妙なくらいの光に満たされて、周囲の景色はなにも見えなかった。
暖かで、心地よくて、素敵な場所と時間。
けれども、そこから抜け出る理由がある。
光の海に足を踏み出すと、扉の閉まる音が響いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて




