幕間.「Side Jack~正義の在り処~」
※ジャック視点です。
居場所について考えるとき、ジャックは常に空の器を想像する。塵ひとつ入っていない、正真正銘の虚ろな器を。形は問題ではなく、空であることそれ自体が重要だった。居場所なんて常に空虚なものだったし、そこからひとつひとつを積み上げていく感覚にも慣れている。
自分の始まりがどこだったか、彼ははっきりと覚えていた。
漁師町の路地裏。母はそこに住む乞食だった。金や物を恵んでもらい、日々をしのぐ。ジャックもまた、乞食のためのひとつの道具として扱われていた。いかに哀れまれようと、それが気まぐれな施しであろうとも、自分の力で金や物を得たことに変わりはない。
立って歩けるようになると、靴磨きや窓拭きでいくばくかの金銭を稼いだ。そうして生きているうちに、母が死んだのである。死因ははっきりとはしなかったが、振り返るに、栄養失調か酔っ払いの無意味な暴力によるものだろう。痩せ細り、枯れ枝のようになった母を見つめてジャックは思ったのである。
『この世界はどうしようもなく間違っている』
それを是正していくだけの力なんてなかった。自分たちのような人間は日々を生きていくだけで必然的に踏みつけられ、唾を吐かれ、軽蔑される。そうではない場所が欲しかった。
母の死がきっかけとなり、ジャックは旅に出た。たったひとり、痩身の旅。畑の野菜を盗んで飢えをしのぐ道中である。その種の不正に対して、ジャックは常に必死で正義を抑えつけた。間違った世界で間違ったおこないをする。そうしてはじめて、間違った世界の一員として認められていくのだと、多少穿った見識を無理矢理に抱いたのである。空の部屋を自ら汚していくような営みだった。
彼がタソガレ盗賊団に入ったのも、その経緯があったからこそである。より間違った世界へと飛び込んでいき、暴力も蔑視も超越してしまえば確固たる生を得られるのではないかと、そう信じたのだ。たったひとりで昼夜問わず旅を続けたので魔物との戦闘には慣れていたし、武器がなくとも周囲の物で代用するくらいの術は心得ていた。そんな必死さを買われ、ジャックはタソガレ盗賊団の一員としての地位を確かなものにしていった。
盗みもやれば、殺しもやった。ただ、常に満ち足りない感覚があったのである。血に濡れた両手を見つめるとき、恐怖も悔恨も覚えない。あるとすれば虚無感のみ。
間違ったことをしても満たされないことを知ったとき、ジャックは自分の居場所がいまだに空であることに気が付いたのだ。酷く汚したと思ったが、なにも変わらないままだったのである。
彼が魔物警護のビジネスを提案したのは、その後のことだ。
魔物警護は画期的なシノギだった。誰にも恨まれることなく、定期的な稼ぎを上げることが出来る。感謝こそあれど、蔑視や排除とは無縁だ。薄汚い生き方を捨てたわけではなかったが、まったく別のことをすれば空っぽな器も少しは満たされるかもしれないと思ったのだ。
魔物警護で盗賊団内の信頼を厚くしたジャックは、遂に頭領までのぼりつめた。見える景色が変われば空虚さも埋まるかもしれないと期待するのは当然である。それから数年は辛抱強くやった。自分だけの武器も手に入れ、向かうところに敵はない。対立組織にたったひとりで乗り込んで一夜で壊滅させたこともあった。
ある雨の日、ジャックは路地裏にうずくまる少年を見つけた。服はボロボロで全身が汚れている。雨に濡れた髪からは、絶えず水滴が落ちていた。
それは決して気まぐれなどではない。ジャックは本心から、少年の助けになってやろうと思ったのである。懐から金貨を出すと、彼の目の前に置いて去ろうとした。
そのときである。
「いらない」
少年は確かにそう呟いた。金貨一枚あれば温かい食事と綺麗な衣服を買うことが出来る。にもかかわらず、少年は拒絶したのである。
ジャックはただひと言「どうして……?」と聞いた。
すると少年は、小さく舌打ちをしてはっきりと答えたのだ。
「乞食じゃないからだ」
ジャックはそのとき、自分がどう反応したかはっきりとは覚えていない。沈黙したか、ため息をついたか、あるいは蔑視を送ったか、いずれかのはずだ。そのどれもが、幼い自分と母が受けた反応であることに思い至ったのは数日経ってからである。その気付きはジャックを震撼させた。いつの間にか自分は、間違った世界で当たり前のように暮らすようになった。それと引き換えに空虚さを忍ばなければならないとしたら、それは耐えがたい茶番である。
あの少年は自分になにかを与えてくれるかもしれない。少なくとも、重要な気付きをもたらしてくれた。ジャックは朝早くに例の路地裏に戻ったが、そこに少年の姿はなかった。金貨一枚が泥にまみれて落ちていただけである。連日の雨でぬかるんだ道の上、路地裏を見つめて佇むジャックは、自分の居場所がどれだけの期間空のまま維持されてきたかを想った。言うまでもなく、盗賊団は自分がいてもいい場所だった。が、いるべき場所とは思えない。いかに称賛され、尊敬の眼差しを受けてもなんら満たされないのだ。
得た物は少なく、失った時間は膨大である。ジャックは誰にも告げずに盗賊団を去った。『最果て』を北上し、そしてたどり着いたのがハルキゲニアである。
古より続く魔術都市として名高い街だったが、壁に守られて安穏としている保守的な場所としか思えなかった。しかしながら少しなかを見てみようとして、警備の人間に捕らえられたのである。抵抗しようとすれば造作なかったが、所詮は暴力も自分の居場所を埋めてくれるわけではない。だからこそ大人しくしていたのだ。
ハルキゲニアへの侵入者として捕らえられたジャックは、女王とビクターに会った。彼らに出自をたずねられたジャックは、自身の経歴を包み隠さずに語った。頭領時代の噂は彼らの耳にも届いていたのか、ハルキゲニアの騎士団としてスカウトされたのである。ハルキゲニアの騎士団も空っぽの居場所を埋めてくれるはずがないと思ったので断ったが、彼らの計画を聞いて気が変わった。
王都グレキランスへの侵攻と、魔物から永久に解放された未来。それが自分を満たしてくれるかは分からなかったが、少なくとも、今まで経験したなによりも刺激的ではあった。これに賭けて、もし敗れることがあれば今後一切満ち足りることなどあるまいとさえ感じたのである。
それからというもの、ジャックは彼らのために献身した。命じられたことには素直に従い、『帽子屋』という名前も受け入れ、忠実な態度を崩さなかったのである。しかし、揺らぎがなかったわけではない。
ビクターの研究について具体的に知らされたのは、彼が仕えて何年か経ったあとのことである。子供たちに施したグール化の実験には愕然とした。ビクターの内には凝縮された強い意志があり、もはや善悪を超越しているとさえ感じたのである。しかしながらその事実も、ジャックから冷静さ奪うには至らなかった。いまだ空虚な居場所を確認し、ビクターの実験は自分にとっての分水嶺を突破していないと判断したのである。
クロエと一度目の決闘をした際に、ジャックはわずかばかりの興奮を覚えた。ここまで見事な剣術は見たことがなかったし、彼女の出自も刺激的だった。ジャックは今まで一度も、すべてを賭けて本気で戦ったことはなかったのだ。いかに強力な魔物であろうとも屠ることが出来たし、盗賊時代に魔術師と対峙した際も本気を出すには至らなかった。彼女ならあるいは、という気持ちは日増しに強くなり、女王の身辺が騒がしくなるにつれ再戦の期待を強めたのである。
そして待ち望んだ機会が訪れた。ただ、その場にウォルターがいたのは誤算だった。タソガレ盗賊団時代、最も自分を慕っていた相手である。殺す気にはなれない。だからこそ急所を外して気力と体力を奪い、クロエと一対一の決闘に持ち込んだのである。
彼女と刃を交わすたび、期待はどんどん膨れていった。呆気なく倒れてしまわぬよう祈りながら、一切手を抜かなかった。
やがてビクターから与えられた魔具――奇術帽――が破壊され、ジャックは『帽子屋』としての自分を失ったと悟った。また空虚な居場所を離れた、と。ただ、今回ばかりは彼にとって喜びでもあった。自分のそれまでの居場所――空っぽな部屋を破壊し、広い地平の上でクロエと刃を交えている。なにからも、誰からも感じることのなかった思いが彼の胸に萌したのだ。
ジャックは自分自身の本気を遺憾なく発揮し、それを突破された。さらには、自分のなかにある以上の力さえも出したが敵わなかった。
流血し、身体に力が入らなくなったとき、ジャックは感じたのである。
『今、俺は空虚ではない。あるいは、空虚さを忘れている』
常につきまとっていた虚しい感覚は消えていた。その代わり心に浮かんだのは広い地平と、そこに浮かぶ眩しい光の粒。クロエはどこまでも世界の正しさを信じているようだった。不正に踏みにじられ、罵声を浴び、軽視を受けてもなお真っ直ぐに進んできた強さが、その瞳と刃に宿っていたのである。
羨ましい。
彼は素直にそう感じた。自分も正義を信じることが出来れば、彼女の本物の強さを獲得出来ただろうか、と。ただ、一切は終わりだ。自分は彼女にとって、許しておけない存在で、そして敗北した人間である。待つのは死のみ。
しかし、それは訪れなかった。
多くのものを与えられ、生きている。
それからジャックは気を失い、目覚めたときには朝だった。革命は成功し、ハルキゲニアの勢力は転換する。これから待っているのが処刑だとしても、甘んじて受け入れるつもりだった。
その運命から彼を遠ざけたのは、ほかならぬウォルターだった。
ハイペリカムに至る橋の上をジャックは歩いていた。隣にはウォルターがいる。
「俺を生かす価値なんてどこにあった……? 放っておけば処刑されるだろうに……」
そうたずねると、ウォルターはあっけらかんと答えた。
「あんたが俺たちの英雄だからさ」
「しかし……お前らを裏切った……」
タソガレ盗賊団を襲撃する話については聞きおよんでいた。それに止めなかったのは事実であり、どれほど恨まれたって言い逃れなんて出来ない。
「だから、償なわせるためにあんたを連れて行く」
償い。そのわりにはさっぱりとした口調だった。
「償いか……。俺の命で贖えるなら、別にかまわない……」
「そうだ。あんたの命で充分足りる。知ってるだろうが、俺たちは裏切り者を絶対に許さない。どんな手段を使ってでも損失は補填する」
ウォルターはきっぱりと言った。風と波の音のただなかにあっても、彼の声は明瞭である。これから自分に訪れる運命はなにものなのか、ジャックはしばし考えた。死の影は濃くつきまとっていたが、やはり、虚無感に苛まれることはない。今やどのような未来が待っていようとも平然と歓迎出来る。
その覚悟があっても、ウォルターが口にした言葉は意外だった。
「――あんたにはタソガレ盗賊団の副リーダーをやってもらう」
まずは驚き。次に呆れ。最後にやってきたのは疑問だった。
「なにを馬鹿なことを……。俺はお前らが滅んでいくのを黙って見ていたんだぞ……。止められる立場にいながら……」
「それは当然許せない。ただ、あんたが俺たちの希望であることも事実だ。だから間を取って副リーダーになってもらうのさ。……俺はフェアでいるつもりだ。だからあんたのしたことについて、団員に隠し立てはしない。きっと命を狙われることもあるだろう。罵倒や軽蔑を受けることもあるだろう。それでもタソガレ盗賊団にいてくれ。あんたの自由意思は尊重するつもりだが、死んじまった団員の分まで働くことがあんたの償いさ。――理解してくれるか?」
ジャックは足を止め、遥か遠くの山並みに視線を注いだ。
自分が生かされた意味があるとするなら、それをまっとうするつもりだ。唐突な厚遇に戸惑うくらいなら、出来る限りのことをすべきだろう。そのため指針は、すでに決まっている。
「ウォルター……。お前はクロエを知っているか……?」
「ああ。俺がリーダーになるために尽力してくれた恩人さ。おまけにバカでかい魔物から団員を救ってくれた。……それだけじゃない。俺とあんたを再会させてくれたのもクロエだ」
「なんのためにそこまでしてくれたんだ……」
聞くと、ウォルターは空を仰いだ。「自分の信義に従ったんだろうよ、クロエは。立派だよ……本当に。あれが本物の騎士なんだろうな」
信義。その言葉は真新しく響いた。今まで自分が信じてきたのは、なんだったのだろうか。間違った世界で生き残るという意志が、いつしか空っぽの部屋を埋めるためという目的に置き換わっていた。
生の実感を味わった今、自分はどう生きていくべきか。答えらしきものは出ていた。正義の在り処は、常に自分の内側にある。
ジャックは空を仰ぎ、長いまばたきをした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・ジャック→下記『帽子屋』の項を参照
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。本名はジャックであり、『タソガレ盗賊団』元リーダー。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』にて
・『奇術帽』→シルクハット型の魔具。能力は①帽子の複製②帽子の操作③帽子本体と複製帽子の内側を繋げる。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』にて
・『ウォルター』→タソガレ盗賊団のボス。穏健派。元ボスであるジャックを心酔している。詳しくは『48.「ウォルター≒ジャック」』など参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『タソガレ盗賊団』→マルメロを中心に活動する盗賊団。詳しくは『第三話「軛を越えて~①ふたつの派閥とひとつの眼~」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




