190.「それから」
荒廃した街にいた。
あたり一面廃材で造られた小屋で、全部平屋建てである。そのせいか、見上げる空が随分と広い。しかし、厚い灰色の雲が天を覆っており、どこか憂鬱な気分にさせられる。
周囲には誰もいなかった。大人も子供も、誰ひとり。宙を舞う埃や、ときおり吹く風だけが唯一の変化。ここにはなにもなく、寂しさを感じるゆとりさえない。
わたしはどうしてか、この荒廃した街にいた。たった独りだという直観を抱えて。
歩き出せばどこかへ行けるかもしれない。この、死の予感が蔓延した迷宮から脱出出来るかもしれない。けれどもあまりに億劫で、動く気になれなかった。
地面にぺたりと座り込み、瞳を一点に向ける。身体のどこを動かすのも面倒だ。
不意に足音が聴こえた。その音を、ただただ黙って聞いている。心にはなにも浮かばず、感情さえ抜け落ちていた。
どうしてこんなに虚ろなのか。そんな疑問さえ、胸には響かない。
わたしはここにいる。多分、生きている。けれど、これからもそうだとは限らない。その事実も、一切関心を呼び起こさない。
足音が近づく。
わたしの目は何者をも映していない。
足音はすぐそばで止まった。
まず目に映ったのは、幾何学模様の華美な天井である。そこから下がる一灯式の吊り照明が柔らかい橙色の光を投げていた。視界が、曇ったりはっきりしたりを繰り返す。焦点が定まらない。
唐突に、天井を遮って顔が現れた。むさくるしい髭面である。
――トラス。そう呟こうとしたが、声は出せなかった。
それからしばらくは壁越しに誰かが騒ぐような、決定的に隔たった騒音が響き続けた。そのうちにまたぼんやりとして、わたしはまどろみに身を任せた。
次に目を開けたときも、同じ天井が映った。ただ、今度は周囲の音がはっきりと認識出来る。
静寂だった。けれども、人の息は規則的に聴こえる。それが自分のものではないことも把握出来た。
記憶をたどってみる。騎士だったわたしを、ニコルが娶った。そして彼に裏切られて『最果て』に転移したのだ。それからハルやミイナと出会い、ノックスとともに旅をした。そして今はハルキゲニアで――。
あれ。二人旅じゃなかったはずだ。もうひとり、油断のならない男がいたはずだ。この世の不健康をかき集めたような、骸骨男が――。
「お目覚めですか」
懐かしい声とともに、その顔がこちらを覗き込んだ。ああ、そうだ。この顔だ。まったく、もう少し健康的な生活をしたほうがいい。
身を起こそうとすると、鈍い痛みが全身に走った。反射的に脱力し、ベッドに身を横たえる。
「無理しないほうがいいですよ。今はゆっくり休んでください」
彼――ヨハンの言う通りだ。じわじわと、記憶の隙間が埋まっていく。ハルキゲニアでの過酷な戦闘が蘇った。そして同時に、ヨハンが意識を失ったときのことも。
「あのときと……逆ね」
笑ったつもりだったが、どうだろう。ちゃんと笑顔を浮かべられたかどうか怪しい。けれども、私を覗き込むヨハンは薄気味の悪い不器用な笑みを返した。
「本当にそうですね。いやはや、あのときは助かりましたよ」
「いいのよ。それで……ハルキゲニアはどうなったの?」
そしてわたしは、あの夜の顛末を知った。ヨハンがゆっくりと紡ぐ言葉によって。
ルイーザが去ったあと、ヨハンは子供の解放と魔力維持装置の破壊を成し遂げたらしい。それからは住民が『議事堂』に集い、今後のことが話し合われたそうだ。ドレンテが中心となったわけだが、彼は家督政治を否定したらしい。そして一度自分が辛酸を舐めさせられた選挙という方法によって、議会および議員の再構成がおこなわれた。
皮肉なのかどうなのか、議会の長はドレンテが担うことになったようである。それからの彼は、防壁を使用せずに都市を守るための方策を捻出しているところらしいが、具体的な解決策はまだヨハンも知らないらしい。
ここ一週間はレジスタンスで夜をしのいでいるという。
「一週間?」
「そう。お嬢さんは一週間と少し、眠ったままでした」
……とんだ足止めだ。自業自得とはいえ、あまりに長い。しかしながら、気を焦らせても仕方がなかった。意識が回復するまでにそれだけの期間を要したわけなのだから。
「ハルさんやミイナさんも都市防衛を手伝ってくれていますよ。あなたが目覚めないうちには帰れない、とか言ってましたね」
「悪いことをしたわね……」
夜間防衛は決して楽ではない。これだけ大規模な都市ともなるとなおさらだ。しかしヨハンは首を横に振って否定した。「彼女たちは好きでやっているんですよ。酔狂だと思いますけどね。まあ、お嬢さんへの恩返しのつもりなんでしょう」
恩返しか。ハルとネロとの関係が再構築されたのも、『関所』を奪還出来たのも、わたしだけの力ではない。言うまでもなく彼女ら自身の力が大きく働いている。
「そうそう」とヨハンは思い出したように呟いた。「スパルナさんからの伝言を預かっています」
伝言?
なんだろう。
「あなたがここに運び込まれた日に、彼はハルキゲニアを去ったんですよ。おそらく、魔物を余計に寄せないためでしょうね。彼の身体に流れているのが呪力なのか魔力なのかもはっきりしませんが、とどまることは危険だと判断したんでしょう。――で、ここからが伝言の内容です」
ヨハンはひとつ咳払いをした。
「『クロエには感謝している。変わるきっかけをくれた。僕は自分自身で物事を決めようと思う。君が間違っていたとは思わないから、気を悪くしないでくれ。ただ、これからは直接シェリーを守って生きていくことにする。』……というわけです。律儀な人ですね」
シェリーを危険のただなかに落とし込んでしまったのに、わたしを責めもしないなんて。……彼らしい。
スパルナは元々ハルキゲニアの生まれで、ボリスという名を持っていたとビクターは語っていた。……醜悪な実験の被害者である。記憶を失い、生命を失い、それでもなお心は残っている。
多分、スパルナの選択は正しい。きっと彼ならシェリーを守って生きていけるだろう。
つくづくわたしは無知だ。間違いばかりを選んでしまう。けれど、それを恨めしく思ったって仕方がない。その経験からなにかを掴み取らなければならないのだ。
「彼は英雄になりたいと願っていたようですが、立派にその役目を果たしましたね。住民は誰も知らないでしょうが、決定的な場面で我々を救ったのですから」
「そうね。彼がいなければメアリーに全滅させられてたかも……」
そしてもうひとつ、直視しなければならない事実がある。ルイーザがいなければ、今頃ハルキゲニアは滅びていただろう。かつてメアリーだった巨人の動きを考えると、今でも恐ろしさを感じる。巨人らしからぬ反応速度と動き。あれが健在だったなら、ハルキゲニアはひと晩で瓦礫の山に変えられていた。
ヨハンはルイーザのことに関しては一切触れなかった。殊更避けているふうでもなかったが、どうなんだろう。彼女が女王の娘であることを、すでに誰かから聞かされたのかもしれない。だからこそ、わたしを労わるつもりで伏せているのだろう。気の回し方が巧妙だ。
「もうじきトラスさんやドレンテさんも訪れるでしょう。お嬢さんの回復を待ち望んでいましたからね。きっと賑やかになります。……ああ、そうそう」
ヨハンは立ち上がりざまに言葉を続けた。
「ノックスはちゃんと生きています。ご心配なきよう。ドレンテさんの計らいで子供たちはレジスタンスメンバーの家に寝泊りしています。ノックスも例外ではありませんよ」
そう言い残して去っていった。
ノックスが生きている。その事実だけですべて報われた気がした。意図しないまま不幸の渦中に投げ込んでしまった彼を、なんとか、その泥沼から救い出してやれたのだ。それでわたしの罪が消えるわけではなかったが、嬉しくないはずがない。
目をつむり、彼の顔を思い描いた。
良かった――けれど、ここからだ。ノックスには本当の人生を歩ませてやらなきゃならない。復興段階のハルキゲニアで、彼は人並みの幸福を掴むのだ。
押し寄せる安堵と喜びに、ちょっぴり涙を流した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『トラス』→レジスタンスのメンバー。髭面で筋肉質。豪快な性格。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『ネロ』→クロエの出会った死霊術師。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。感情表現が薄い。
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」参照
・『魔力維持装置』→ハルキゲニアを囲う防御壁に魔力を注ぐための装置。女王の城の設置されており、子供の魔力を原動力としている。詳しくは『151.「復讐に燃える」』にて
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。スパルナと同一人物。詳しくは『154.「本当の目的地」』『178.「白銀の翼」』にて
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて




