172.「風華」
いつからその場所を思い描くようになったかは分からない。騎士として王都を守るなかで、いつしか戦闘中に奇妙な静寂を感じるようになったのだ。やがてその静けさは頭の中にイメージとして展開された。草原。あるいは荒野。あるいは空の中心。想像の景色は常に花弁が舞っている。舞い散る花びらの量や勢いは現実とリンクし、目前の過酷な戦闘やわたし自身の動きと相互に関わり合っているように思えた。
集中力を高めた先に広がる精神世界のようなもの。それを密かに『風華』と呼んでいた。他の騎士たちが戦闘中なにを頭に浮かべているのかは知らなかったが、きっとわたしのような人間は少数だろう。命を削り合う戦いのさなかに思い浮かべるのが平穏な風景だなんて、あまりにギャップがある。
しかしながら、風花の世界に没入した戦闘で敗北を味わうことは一度もなかった。そのおかげで騎士団ナンバー4まで駆けあがることが出来たのである。今や集中力をコントロールすればある程度自由に精神世界に飛び込むことが出来た。
そんな『風華』を人間相手に使用したことなどない。その世界に没入したとき、わたしは一切の容赦を失う。つまり、あまりにも危険なのだ。
現実の目は斬撃の嵐と、その先の帽子屋を捉えている。しかし頭には静かな草原が広がっていた。吹く風は豊かで、舞う花弁が美しい。波立った感情が徐々に収まっていく。気分は晴れやかで、気楽だった。
わたしは意図して『風華』を展開したのである。こうでもしなければ帽子屋に勝つことなど出来そうになかったからだ。
怒り、後悔、焦り――現実のわたしが抱える心情は加速度的に霧散していく。ああ、静かだ。
斬撃が鋭くなり、速度も急激に上がっていく。それを深刻に感じなかったのは、ひとえに帽子屋の実力が影響している。彼はこちらの攻撃を完璧に弾き、捌き、回避しながら同じレベルの速度でレイピアを繰り出していたのだ。
つくづくとんでもない男……。
けれど、まだ本気じゃない。
風が吹き、花弁が一斉に舞い上がる。幻想的な風景を心静かに見つめていると、自分自身の意識が透明になっていく感覚を覚えた。決して気絶の前兆ではない。現実世界のなにもかもが心に影響を及ぼさなくなっているだけだ。そこにあるのは戦闘の比喩としての風花のみ。
帽子屋の頬に赤い筋が走った。同時に彼の袖や肩口も薄い傷を負う。それらをもたらしているのはわたしにほかならなかった。彼の対応速度を超えた斬撃によって、その身を刻々と切り刻んでいるのだ。
だが、それとは別に気付いていることもある。
こちらの身体も同様に、彼の攻撃によって細かい傷が作られている。痛みはまるで感じなかったが、傷を受けたという実感はあった。『風華』の速度に追い縋り、なんとか有効打を与えようと仕掛ける彼に敬服してしまう。一体どこでそんな技術を習得したというのだろうか。間違いなく彼は、王立騎士団のひと桁ナンバーに匹敵する剣術を持っている。
火花も風切り音も、剣戟音も衝撃も、そして痛みでさえ遥か遠くに過ぎ去ってしまっている。心乱すものはなにひとつ流れ込んでこない。ここは静かで、とても落ち着く。
「まだだ……!! 俺はまだ満足しちゃいない……!!」
まるで壁を挟んでいるように、薄っすらと帽子屋の声が届いた。これでも満足しないなんて、強がりか狂人か本物の猛者か、どれかだろう。――なんだって構わない。こちらは静寂の花吹雪を見つめるだけだ。
現実の傷は数を増し、深くなっていった。散る血液は花びらによく似ている。帽子屋もわたしも次々と傷を作っていくが、互いに致命傷と言うべきものはなかった。強いて言えば、先ほど複製帽子で貫かれた傷が少し厄介なくらいだろう。けれどその痛みすら『風華』の中には到達しない。一種の興奮状態にあるのかもしれないが、肉体のダメージは少しも感じなかった。
どのくらいの時間、刃をぶつけ合い、互いの身体を刻んだか分からない。『風華』を展開している間は時間の進み方が少しスローになるのだ。ただ、これほど長くこの世界にとどまったのははじめてである。舞う花びらは数も勢いも随分と増していた。
現実のわたしたちは傷だらけになりながら、それでも速度を維持し続けていた。いや、緩やかにではあるがテンポが上がっている。それにつれて刃の鋭さも上昇していた。
魔具もない。騎士でもない。そんな帽子屋がどこまでもこちらに喰らいつき、そして、リードしようとしている。
『最果て』最強の人間。多分、そう言って差し支えない。彼以上の強さを持った人間はいないだろう。大半の魔術師だって簡単に倒してしまうかもしれない。
けれど、負ける気はしなかった。激烈な剣戟を、傍観者のように見つめている自分がいる。戦っているのはわたし自身で、傷を付けているのも負っているのも自分なのに、どこか他人事のような落ち着きを感じた。
草原のただなかに佇んで、ある実感が胸に湧いた。まるで小さな囁きのように。
――もうじき身体の限界が来る。それまでに決着をつけなければ敗北を味わうのはこちらだろう。いくら斬撃を与えているといってもかすり傷の域を出ない。『風華』の限界が訪れたら倒れるのはこちらだ。
なら、本気を出そう。
静寂の草原を風が駆け抜ける。遊び舞っていた花弁が一気に散っていく。絶景だ。
帽子屋の目が見開き、噛み締めた歯が薄い唇から覗く。
ジャック――心のなかで呼びかける。
あなたは強い。けれど、わたしのほうが速い。
真紅の花弁――彼の血が舞う。先ほどのリズムを置き去るような高速の斬撃。レイピアで対応しきれなかった刃が彼の身に華を散らした。
「まだだ……!!」
叩き付けるような声が広間にこだまする。彼の斬撃は、こちらの最高速度に追いつかんとしていた。繰り出される攻撃がわたしの肌を裂き、そして、刃が重なり合う――。
――濁った金属音。刀身の閃き。
折れた刃が、空を踊った。
帽子屋の顔から、すっ、と険が抜ける。その口元が緩み、そして――目の前に大輪の華が咲いた。その真っ赤な花弁が吹き散る。
こちらの躊躇いのない追撃により、レイピアを失った帽子屋の身体は血を散らせて吹き飛んだのだ。折れたのがサーベルだったら、逆の立場になっていただろう。
『風華』の世界がストンと消え、同時に脱力する。ぺたり、と膝を折ると手から落ちたサーベルがけたたましい音を鳴らした。腕は冗談のように震え、意識が朦朧とする。揺れる視界のなか、大の字に倒れて息をする満身創痍の帽子屋が映った。
深呼吸を繰り返すと、意識が徐々にくっきりとしていく。その一方で痛みもまた、その輪郭を濃くしていった。立ち上がるのも気怠いほどの疲れと、全身の痛み。それでも、彼が生きている以上立ち上がらないわけにはいかない。
サーベルを拾って握り直し、ふらつく身体で立ち上がった。不確かな足取りで一歩ずつ彼へと歩を進める。天を仰ぐ彼の姿に、反撃の意志は感じなかった。
見下ろすと、帽子屋はぼんやりとこちらを見返した。視線が交差する。
「……満足かしら?」
訊くと、帽子屋の口が緩やかに開かれた。そして、掠れた声が漏れ出る。
「ああ……生きている……」
生の実感。それが彼の胸に広がっていれば言うことはない。これで女王に従う理由も根こそぎ消えてくれれば、と思った。
「……あなたは弱い。王都に行くにはまだまだ足りないわ」
嘘だった。彼の実力なら王都でも充分に脅威となるだろう。滅ぼすことなど不可能だろうけど。
「クロエ……感謝する……」
言って、彼は目を閉じた。疲労から意識が途切れただけだろう。おそらく。
「……どういたしまして」
感謝されるいわれなどなにひとつない。しかし今はあれこれと返す余裕など少しもなかった。
帽子屋の様子を見る限り、反撃する体力も意志も消え果てている。
トドメは刺さず、ウォルターのほうへと向かった。彼をここで寝かせているのは危険だ。わたしに反撃出来ないからといって、決して安全な相手ではないのだ、帽子屋は。
ウォルターの傍に寄ると、彼はぽつりと呟いた。
「ジャックを倒しちまったんだな」
「……ええ」
「やっぱ、とんでもねえよ……あんたは」
「それはどうも。……ここは危険だから、安全な場所まで連れていくわ」
しゃがみかけると、ウォルターは首を横に振った。そして痛みに苦しむかのごとく、その顔が歪む。
「ここにいさせてくれ。後生だ」
沈痛な声。懇願というよりも、命じるような響きがあった。
そうか、と思い至る。ウォルターはずっと帽子屋――ジャックを探してきたのだ。再会によって想定外の傷を受けたからといって、ここで彼を諦めるなんて出来ないのかもしれない。あるいは、話すべきことがまだまだあるのかも……。
「ここで死ぬなら本望なのさ。……分かったら、クロエ、あんたはあんたが救うべき相手のところへ行ってやれ」
彼をこのままにしておくことは甘えなのだろうか。あるいは、冷淡さなのか。その判断はつかなかったが、結局わたしはひとりで扉の先へと向かうことにした。全身の傷は休息を要求していたが、休める状況ではない。
大扉の前に立つ。
その先から感じる膨大な魔力。ようやく子供たちを助けることが出来る。騙されてハルキゲニアに招き入れられた無垢な命を。
扉の木肌に手を触れ、籠められるだけの力を籠める。
荘厳な軋みが響き渡り、冷えた空気が足元を流れた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。『タソガレ盗賊団』元リーダーのジャックに酷似している。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『ウォルター』→タソガレ盗賊団のボス。穏健派。元ボスであるジャックを心酔している。詳しくは『48.「ウォルター≒ジャック」』など参照




