Side Alice.「狂気と音のアリス」
『黒兎』の口から零れた血が宙を舞った。そして彼自身もまた、高速回転する魔弾によって吹き飛ばされていく。
ナイフが飛び交ったのは一瞬だけ。それでも、アリスは深刻な傷を負っていた。全身の痛みはもはや耐えがたく、気を抜くと倒れてしまいそうだった。それでも彼女は、吹き飛ばされて地を転がった『黒兎』のもとへ一歩、また一歩と進んでいく。足取りは重く、踏み出すたびに鋭い痛みが全身に走る。それでも足を止めなかった。
アリスは苦痛のなかにあってなお、戦闘に想いを馳せた。先ほどの攻撃――擾乱飛翔関係――は羽根布団越しに一度確認している。静止したナイフに推進力を与える技だ。見る限り、ナイフの切っ先が向いている方向に直進していくようだったが、定かではない。ひとつ確実に言えるのは、それを『黒兎』がコントロール出来ないということだ。全てのナイフのベクトルまで操れたなら、今頃全弾命中して倒れているだろう。
地に伏した『黒兎』は身じろぎひとつしなかった。それを見ても、アリスの心に油断は生まれない。狡猾な奴は幾度となく相手にしてきた。手痛い失態を演じたこともある。油断のツケはこの身に降りかかるのだ。運が悪ければ命も消える。それを知っているからこそ、アリスは『黒兎』にトドメを刺すべく、痛む身体を引きずって歩き続けた。
残り十メートルほどの距離で、大きくよろめいた。左足の力が抜け、思わず膝をつく。いつの間にか息が荒くなっていた。『黒兎』は十メートル先で寝ている。その距離が恨めしいほど遠い。
不意に、『黒兎』の身体が動いた。手をついて起き上がろうとしているのだ。げほげほと、むせる声がアリスの耳に届く。奴は腕を震わせて身を起こすと、そのままの勢いで立ち上がり、そして再び倒れた。
決着はまだついていない。『黒兎』の目は射るようにアリスへと注がれている。彼は歯を剥き、もう一度立ち上がろうとした。
アリスは歯を食い縛って痛みに耐え、なんとか先に立ち上がった。少し遅れて『黒兎』も両の足で地に立つ。
アリスが魔銃を構えると同時に、『黒兎』もナイフを引いた。空中には魔力写刀が、未だ大量に浮いている。それはつまり、ずっと維持し続けていたということだ。腹に弾丸を撃ち込まれてなお、彼は反撃を諦めなかったのである。
アリスは意識を研ぎ澄ました。集中しろ。痛みに気を取られている暇はない。奴は戦意を失っていない。一瞬でも気を抜けば後悔することさえ出来なくなる。なのに――。
『黒兎』がナイフを振るのが見えた。
――なんで照準が合わないんだ。
アリスの手元は痛みからか安定しない。たとえ撃ったとして命中するはずがなかった。
――こんなときに無能をさらしてる場合じゃないんだよ! 気張れ!
自分自身に何度言い聞かせても、意味はなかった。やがてアリスは迫る無数のナイフを捉える。
「羽根布団……!」
片手で防御魔術を張ると、彼女の期待通りナイフは動きを緩めた。ただ、羽根布団は先ほどよりも不安定である。現に、先ほどまでは問題なく静止させることが出来た複製ナイフが、羽根布団をゆっくりと通過してぼとぼとと地に転がる。
なんとか魔銃の照準を合わせようとするが、防御魔術の負担のせいか、余計に手元がぶれた。羽根布団内にはどんどんナイフが溜まっていく。
『黒兎』も八の字に身体を動かすことは出来ないと見え、弱々しくナイフを左右に振るだけだった。それでも、複製した刃が射出され続ける。
ナイフは徐々に、羽根布団内で積もっていった。次に来る攻撃は容易に想像出来る。ここで擾乱飛翔関係を使われたら敗北は明らかだ。
そして、予期していた瞬間が訪れる。『黒兎』は歯を食い縛り、ナイフを天へと向けた。降り注いでいた複製ナイフがやむ。
最大の危機。そして――。
――最大のチャンスだった。
死と死が顔をつき合わせている。この感覚は、アリスにとってなによりも愉しかった。命のやり取りはいつだって最高に興奮する。ここまでの状況を作り上げてくれた『黒兎』に、感謝さえ覚えた。
アリスは羽根布団を解除し、魔銃を両手で構えた。照準が合わないのなら手伝ってやればいい。ぶれを最小限に抑え、一発を確実に命中させる。
指に力を入れた瞬間――。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
『黒兎』が悲鳴をあげた。一体身体のどこにそんな叫びを隠していたのかと思ってしまうほどの絶叫である。奴の手から魔力写刀が落ち、地面で跳ねた。
彼は両手で耳を押さえて膝をついた。目を見開き、苦痛に耐えるように奥歯を噛み締めている。
目の前でなにが起こっているのかは分からなかった。唯一はっきりしているのは――アリスにとっては決して認めたくないことだが――助けられたという事実のみ。
アリスは、自分の隣に歩み寄るアーヴィンに舌打ちを送った。
「アーヴィン……あたしの防御魔術はどうした」
彼の周囲に展開した防御魔術は、それ自体が檻の役割を果たしていた。外部の攻撃にも、内部の抵抗にも対応出来る魔術である。
アーヴィンは平然と返す。「防御魔術が弱まったから、強制的に解除させてもらった」
「強制的に解除か……。あんたは小憎たらしい魔術ばかり得意なんだねぇ」
魔術の解除なんて簡単に出来る芸当ではない。展開された魔術の仕組みを理解していなければ到底不可能だ。にもかかわらず、アーヴィンはやってのけたのである。魔術が弱まっていたからといって、そう易々と突破出来ないはずだった。
「その魔術の構成要素を把握すれば解除出来るさ」
生意気……。カエル頭を引っぱたいてやりたくなったが、そんな元気は出なかった。
「……で、あのガキになにをしたんだい?」
アリスは、耳を覆って身を震わせる『黒兎』を銃で指し示した。
「騒音魔術だ。なにも考えられなくなるくらいの騒音があいつの頭で鳴ってる」
「騒音ねぇ……あんたやっぱり性格悪いわ」
アーヴィンはがっくりと肩を落とした。称賛されることを期待していたのかもしれない。だとしたら、とアリスは思う。だとしたら、随分と舐められたものだ。
「あたしの戦いに水を差すなんて……ふざけた真似をしてくれたねぇ」
「あのままじゃアリスは死んでたかもしれない」
きっぱりと断言するカエル頭が憎らしい。
「つまり、あたしが魔弾を外すと読んでたわけかい」
するとアーヴィンは首を横に振った。「アリスは弾丸を当てたはずさ。……ただ、あいつが撃たれただけで気絶するようには思えない。少しでも意識が残っていたら、致命的な反撃をされる」
アリスは歯噛みした。悔しいが、アーヴィンの言う通りだ。ただ、それを素直に認めるつもりなんて毛頭ない。
「あんたは傍観してただけ。命を削って愉しんでる側の気持ちは永久に理解出来ないさ」
「理解するつもりもないよ……悪いけど」
ぽつりと返したアーヴィンの口調は、どこか拗ねているようにアリスには聞こえた。どうしようもなく女々しい奴。
「感謝なんてしないよ」
「感謝してほしくてやったわけじゃない」
「嘘つけ。褒められたくて仕方ないんだろう?」
「そ、そんなわけあるか!」
むきになって言葉を返すアーヴィンの肩を、アリスは手のひらで控えめに叩いた。全く、嫌になる。これで全部察してくれ。感謝はしないけど、助けられたのは事実なんだから。
彼はなにもかも理解したように、少しはにかんだ。照れるカエルなんて見てて気分の良いものじゃない。
「調子に乗るんじゃ――」
言いかけて、アリスは上空を見上げた。なにかが落ちてくる。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『アーヴィン』→ハルキゲニアが女王に支配されるきっかけを作ったとされる人物。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『ケイン』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『黒兎』→ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『魔力写刀』→『黒兎』の持つナイフの魔具。複製を創り出す能力を持つ。詳しくは『127.「魔力写刀」』にて
・『擾乱飛翔関係』→複製後のナイフに推進力を付与する技。ナイフを大量にばらまいてから使う。方向の指定は不可。初出は『129.「ブラックラビットかく騙りき」』




