Side Alice.「自由の旅のアリス」
『黒兎』がナイフを引く。彼の口元は引き締まり、鋭い眼光がアリスに注がれていた。もはや口先の煽り合いなど不要とでも言うように。
「楽観追尾!」
彼の腕が振られ、手にした魔具――魔力写刀の軌道に合わせて複製ナイフが放たれた。
彼は全身を使ってナイフを八の字に振る。すると、複製されたナイフが止めどなく放出された。
アリスは迫りくるナイフの最初の数本を魔銃で弾く。するとそれらは曲線的な軌道を描いて彼女を追尾した。
時計塔で既に見た能力である。
「追尾弾ね。……それ、名前ついてたんだ」
アリスは薄笑いを漏らし、魔銃をホルスターに収めた。そして迫りくる大量のナイフをひとつひとつ指で掴んでは放す。追尾弾――楽観追尾と言ったっけ。ダサい名前――の攻略法は既に把握していた。勢いを殺してしまえば追尾能力は失われる。複製ナイフ一本一本が個別に推進力を持っているわけではない。あくまでも追尾能力のみを付与させた技である。掴みさえすればただの鉄屑だ。
ただ、ひとつ厄介な点がある。
アリスは隣のケインを、横目でちらりと見た。そして彼の前に立ち、ケイン目がけて迫るナイフも無力化していった。今は捌ける量だが、きっと『黒兎』は放つナイフの量を増やしていく。徐々に徐々に。そういう性格なのだ、奴は。獲物をいたぶって愉しむサディスト。見事なまでのコンプレックスの裏返しだ。
「ケイン!」とアリスが叫ぶ。すると彼はびくりと身を震わせた。
「な、な、なんだケロ……」
「邪魔だよ。早く消えな」
彼がいる分、『黒兎』にとっては的が多くなる。別にケインが傷付こうとアリスにとっては大問題ではなかったが、さすがに死なれたら気分が悪い。
「……アリスの傍にいるケロ……助けるケロ」
ぶつん、と頭でなにかが切れる音がした。ナイフを掴む指先が乱れたが、それどころではなかった。
「へえ、まとわりついて邪魔をするつもりかい。それで、一丁前に助けるときた。……あたしを怒らせてなにがしたいんだい? あんたはあのムカつくガキの味方なのかい?」
「アリスの味方ケロ!」
耳障りな叫び。怒りが沸騰していく。
「ケイン」とアリスは静かに呼びかけた。胸の内には不快感が渦を巻いている。こいつさえいなければナイフを掴むような面倒をしなくて済むのに。「邪魔するとあんたから殺すよ」
アリスは本気だった。『黒兎』の攻撃で瀕死の重傷を負った挙句、惨めに助けを乞われるくらいなら魔銃で脳天を撃ち抜いてやる。そうすれば気も晴れるし『黒兎』だけに集中することだってできる。ケインを気にして魔術を出し惜しむこともしなくて済む。
背後からぐすぐすと泣き声が聴こえてくる。まあ、そうだろうな、とアリスはいくらか冷静になった。泣きながらここから去ってくれればそれでいい。そして二度と慕ってくれるな。うんざりなんだ、そういうのは。
ハルキゲニアから遥か離れた南の地に放逐されて以来、何度か人を信頼したことはあった。当時は独りで生きていくことが心細く、また、苦しかったのだ。ならず者、富豪、商人、農夫、魔術師。多くの人を頼ったが、その誰もが手酷く裏切るか、早死にしてしまった。預けたはずの背を刃で裂かれたことだってある。仲間だと思った奴に身を売られたことだってある。肉体的にも精神的にも、暴力は常に浴びてきた。
自分より先に死なれる失望も、心を引き裂く裏切りも、もうたくさんだ。二度と誰も信頼しない。
「殺してくれて構わないケロ」
ケインの返事が聴こえたときも、アリスは白けた気分にしかならなかった。どうせこいつも他の奴らとなにひとつ変わらない。口先だけの男だ。
「他の誰かに殺されるくらいなら、アリスに殺されたいケロ」
ケインの言葉は淀みなかった。
「……どうしてそう言い張れるんだい? あたしは、あんたが住んでた廃墟で邪魔な魔物を蹴散らしただけだよ。命を消されて構わないような恩義とは思えないね。……ただの激情さ。信じるに値しない」
感情は簡単に移ろう。激情ほど揺らぎやすいものはない。『冷静に考えると、やっぱり違うと思ったんだ』なんて台詞は飽きるほど聞いた。他人の心変わりに振り回されて傷を負う人間の立場も考えてほしい。
「いっときの感情なんかじゃないケロ。廃墟で会うずっと前から、アリスを想ってたケロ」
アリスは思わず眉をひそめた。なんだそれ、気持ち悪い。
「気色悪いこと言うんじゃないよ、馬鹿カエル。妄想も大概にしな」
『黒兎』の攻撃は止まない。それどころか、なにか仕掛けようとしている雰囲気があった。
不意に彼は、手にした魔力写刀の柄を両手で摘まんだ。「複製同期!」
直後、魔力写刀が四本に増え、『黒兎』はそれぞれ二本ずつ両手の指に挟み込んだ。複製ナイフを射出出来る本体を四つに増やしたのである。これも時計塔で味わった技だ。ナイフが四倍になるとさすがにひとつひとつを受け止めきれない。
「妄想じゃないケロ! ずっと前からアリスのことを知ってたケロ!」
ケインが背後で叫ぶ。今はそれどころではない。魔術を使うべきか否か。ケインは絶対的に信用出来ない。なら、傷を覚悟してナイフを掴みながら『黒兎』へと接近すべきだろう。
『黒兎』は両手を八の字に振り、大量のナイフを放射した。
アリスは前進すべく前傾姿勢を取ったのだが、動きが止まった。なぜか、目の前にケインが立ちはだかったのだ。
「ケイン! どきな!!」
そう叫ぶのとほぼ同時に、彼の背に大量のナイフが突き刺さった。そして致命的な刃は量を衰えさせず、ケインの背に刺さり続ける。
アリスは絶句した。なんだこいつ。なんのために庇ってるんだ。頭がおかしいんじゃないのか。
ケインはカエルの目を苦しげに細め、呻くように言葉を発した。
「アリスのことは、ハルキゲニアにいた頃から知ってる。俺は……俺は、ケインなんかじゃない。アーヴィンなんだ」
耳を疑った。ただ、驚愕している暇はない。まずは『黒兎』のナイフを止める必要がある。
アリスはケインの身体を引き寄せ、前方に手をかざした。薄暗闇に紛れて迫りくる無数のナイフが見える。
「羽根布団」
アリスの発声の直後、半透明の分厚い膜が二人を覆った。ナイフは勢いを殺され、魔力の膜の内側で静止する。防御魔術の一種であり、威力を減退させる目的で使用することが多かった。強力な攻撃に対しては無力だったが、量ばかりで威力のない攻撃に対しては充分な威力を発揮する。
無数のナイフは羽根布団の内部に次々と溜まっていく。そう長く持つものではない。
アリスはケインの背からナイフを雑に抜き取った。その間、彼はひと言も叫びを上げなかった。
彼を地面に寝かせると、アリスはカエル頭を見下ろして呟いた。
「アーヴィン……そう言ったね。あたしを騙してるのかい、馬鹿カエル」
「……騙してない」
その証拠に、ケインはアリスが囚われた『監禁馬車』に詰めた食料、衣類、その他の品々をひとつの漏れもなく暗唱し、彼女が放逐された町の名前まで正確に語ってみせた。
もはや目の前のカエル男を疑うことは出来なかった。彼はアーヴィンだ。
「……アーヴィン」とアリスは呟く。返事を求めない独白のような呟き。
ハルキゲニアの転機となった住民投票で、女王を勝たせるよう仕向けた張本人。そんな悪事をなした理由はただひとつ。アリスはグッと奥歯を噛みしめた。協力しなければ領主の娘であるアリスを殺す、そう女王に言われたからだ。単なる脅しでしかないにもかかわらず、アーヴィンは女王に従った。
そして、とアリスは追想する。女王の城から魔銃を盗み出し、食料やらなんやらと一緒に『監禁馬車』にあたしを閉じ込めやがった。
馬車が出発する最後に彼が言った言葉は、今でも覚えている。『ハルキゲニアは危険だ。ここにいちゃいけない。……勝手なことをしてごめん。だけど、君を死なせたくないんだ。……ハルキゲニアを忘れて生きてくれ』。
「……あんたのことは殺したいほど憎んでる。あたしは誰かに心配されたりお節介を焼かれたりするのが一番嫌いなんだ」
アーヴィンは平然と答えた。「知ってるよ」
「ならなんであたしにつきまとうんだ」
彼の額に銃口を押し付け、引き金に手をかけた。いつでも発砲出来る。そして躊躇いはない。
「君が好きだからだよ。君になら殺されたって構わない」
アーヴィンはぽつりと返す。
アリスの頭には、臆病なくせに強がりな元青年議員の姿が――カエル顔の下に存在していたであろう、在りし日のアーヴィンが蘇った。
アリスは眉根を寄せて彼を睨む。ハルキゲニアにいるときから薄々勘付いてはいた。彼の感情に答えようとしなかったのは、ひとえに、愛だの恋だのに関心がなかったからである。そして今は余計に疎ましく感じてしまう。
殺そうか。
そう考えて、すぐに打ち消した。なんでアーヴィンの願い通りにしてやらなければならないのだ。
アリスは心が冷えていくように感じた。沸騰していたはずの怒りはとっくに消えている。なんだか脱力さえ感じた。
――ハルキゲニアが壊れたあの日から、いや、女王が父と再婚したあの日から、ずっと呪いが続いている。あらゆる糸が絡み合って、この身を縛り付けている。
「アーヴィン」
呼びかけて、アリスは魔銃をホルスターに戻した。「あんたがしたことは、もうどうでもいい。許せないけど、もういい」
アーヴィンの目に輝きが宿ったが、それを打ち消すべくアリスは言葉を続けた。
「もうハルキゲニアはうんざりさ。あんたのことも、馬鹿親父のことも。……革命が終わったらここから出ていくよ。誰も知らない場所で、あたしの好きなように生きていくさ」
カエルの目から涙が零れた。その口が薄く開かれる。「俺も一緒に……は駄目なんだね」
「ああ、そうさ。あたしはハルキゲニアと縁を切りたい」
アーヴィンは目を閉じて小さく頷いた。
「アーヴィン。これから目にすることは口外無用だよ。自分の使う魔術は秘密にしておきたいのさ。どこにどんな敵がいるか分からないからね。……いいかい?」
アーヴィンの小さな返事が聴こえ、アリスは立ち上がった。羽根布団はすっかり限界に達している。
決して晴れやかな気分にはなれなかったが、ひとつ、胸のつかえが取れた。それだけで充分だ。
「これでようやく自由になれる」
アリスは――彼女にしては珍しく――半ば無意識に本音を零した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔砲の一種。魔術師の使用出来る魔具。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ケイン』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『アーヴィン』→ハルキゲニアが女王に支配されるきっかけを作ったとされる人物。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『黒兎』→ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『魔力写刀』→『黒兎』の持つナイフの魔具。複製を創り出す能力を持つ。詳しくは『127.「魔力写刀」』にて
・『楽観追尾』→魔力写刀で複製したナイフに追尾能力を付与する技。名前は今回が初出。
・『複製同期』→複製を創り出せるナイフを増やす技。詳しくは『128.「刃の雨」』にて
・『監禁馬車』→対象者を目的地まで強制的に運ぶ馬車。通称『動く檻』。初出は『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』




