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花嫁騎士 ~勇者を寝取られたわたしは魔王の城を目指す~  作者: クラン
第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」
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998.「わたしを見捨てないでくれて」

 血族がグレキランス一帯に入って八日目の夜――間もなく魔物の時間に差しかかる時刻になっていた。頭上には雲ひとつない夜空。眼下には茫漠(ぼうばく)たる霧海(むかい)。深い霧を突き抜けるようにして一本の塔が視界に入った。


「スピネル、お疲れ様」


「疲れてはないっすね。これまでに比べれば全然平気っす」


 わたしとナルシスを抱えて飛びながら照れたように言うスピネルに、でしょうねとしか思わない。他種族連合の控える尾根から休み休み移動したわけで、これまでの飛行とは段違いに負担が軽いのは当然だ。


「しかし、心配だ」とナルシス。「本当にひとりで行くのかい、クロエ嬢」


「ええ」


 スピネルとナルシスには、わたしを降ろしたのち、高高度での待機を命じてある。煙宿が陥落(かんらく)したことは伝えていない。もちろん、交信魔術師であるナルシスは情報を受け取っている。何度目かの休憩の際に、こっそりとわたしに煙宿のことを囁いてきたから。ヨハンからすでに聞きおよんでいることは伏せて、航路に変更なしとだけ答えたのは記憶に新しい。スピネルだけは一切なにも知らないわけだが、特に支障はなかろうと思う。不要な情報を垂れ流すような理由など持ち合わせていない。


 不夜城の頂点に差しかかったあたりで、スピネルの腕を軽く叩いた。


「降ろして頂戴。手を離すだけでいいから。前線基地のときと同じように」


「またっすか……」


 スピネルは嫌そうな声を出したが、二十メートル程度の落下なら無事であることは証明済みだ。両足の複雑骨折とそれに伴う痛みは約束されているわけだが、そんなもの数秒で回復する。


 不夜城の頂点には小さな人影がひとつ。(もや)で曖昧ではあるものの、それが誰なのかは明白だ。


「それじゃ、離すっすよ」


「うん。二人は待機よろしくね」


「っす」


「健闘を祈っているよ、クロエ嬢」


 短い別れの言葉ののち、支えを失った身体が落下をはじめる。身体の臓器という臓器が上へと引っ張られていく感覚のなか、視界に妙なものが映った。まだ魔物の時間には早いが、靄の先に巨人がいる。座しているのにキュクロプスよりも上背があった。なにより、腕の箇所のシルエットが妙だ。変異した魔物。畸形(きけい)の魔物。未知の魔物。いずれの可能性もあるものの、考えたところで仕方ない。それに、あれほどの大きさにもかかわらず魔物特有の気配は感じないとなれば、おのずと答えは絞られる。


 落下の衝撃で足裏から頭まで痛みが駆け、足が瓦解(がかい)する感覚があったが、一瞬のことだ。倒れもしない。舞い上がった粉塵の先から現れたのは、当然のごとくヨハンである。不吉で不健康で不潔で不敵。いつもの彼だ。


「約束通り来ていただいてありがとうございます。時間も申し分ない」


「あの巨人が縫合伯爵?」


 靄の先の巨体へ目を移して問うと、ヨハンは首肯(しゅこう)した。「ええ。ルドラさんです」


 なら、あれを倒せばいいのか。サイズだけなら問題ない。皮膚や骨の硬度や身体能力、あとは魔術および異能の有無が気になる。


「ルドラは――」


「話はあとです。まずは小箱を返してください。……どうも。それでは、行きますよ」


 ヨハンが強引にこちらの手を引き、昇降機へと歩んでいく。


「ヨハン。ルドラの能力は――」


「昇降機に入ったら呼吸を止めてください。喋るのも当然なしです。今のお嬢さんにも危険な毒霧が立ち込めていますから。私は二重歩行者(ドッペルゲンガー)なので平気ですが」


 どうやら彼は情報を渡す気がないらしい。こうも先を急いでいる理由も謎だ。それなのに、わざわざ尾根から煙宿までのんびりした行程を組ませたのも疑問が残る。しかしながら、答えるつもりがない奴にそれを(たず)ねたところで無駄以外のなにものでもない。嘘にまみれている手合いならなおさらだ。


 昇降機に入ると、すぐに下降がはじまった。指示通り呼吸は止めている。今の私はどれくらい無呼吸でいられるだろう。まさか無限というわけはないだろうが、実際のところ謎だ。


 やがて昇降機が一番下――煙宿の創始者ポールが常用しているバーに到着すると、ヨハンは薄気味悪い笑みを浮かべた。


「もう呼吸しても大丈夫ですよ」


 言われたので息を吸う。甘い香りが鼻を刺激して、視界が不確かになった。足に力が入らなくて、歩みが覚束(おぼつか)ない。自然と、先を歩くヨハンの腕にしがみついていた。


 いくつかの記憶が急速に浮かんでは消える。


 ――煙管(きせる)を持つ優美な指先。

 ――ガラス張りの小部屋。

 ――純白の花嫁衣装と双曲刀。

 ――カシミールの拳。


 この香りは知っている。水蜜香(すいみつこう)だ。わたしはポールの罠でそれに溺れて、快楽の高波のせいでろくに戦えなくなった。そして中毒症状の前に自制心が敗北を(きっ)したのである。


 今のわたしがどうなるか興味はあった。この気持ちいい煙がどれだけ肉体に影響をおよぼすのか、実験する価値は充分にある。


 あれ。


 気持ちいい?


 そう、その感覚は否定出来ない。身体も火照っているし、ヨハンの腕に身を寄せてよちよち歩いているのも悪くないと感じている。いや、ずっとこうしていたい。違う、それも正確じゃない。もっとほしい。


 もっと。


 もっと。


「ねぇ、ヨハン。わたし、もう歩けないの」


 上目遣いに顔を上げる。ヨハンは泣いてるようにも笑っているようにも見えた。奥歯を噛みしめる筋肉の動きが映る。一瞬目を()らして、苦虫を噛み潰したような顔をしたのも、それから口元だけ笑って、けれど瞳は暗く沈んでいるのも。全部がわたしの目に入った。


 なんでそんな変な顔をするのか分からない。


「今なに考えてるの?」


「なにも考えてないですよ。背負ってあげますから、行きましょう」


 言って、ヨハンは早足でバーを抜けた。わたしの身体を支えながら。そして扉をきっちりと閉め、しゃがみ込む。


 遠慮する気なんてない。彼の枯れ木のような背中に身を預け、鎖骨のあたりに腕を絡ませてしがみつく。(はた)から見ればみっともないと思う。でも頭や心以上に、身体がわたしの主導権を握って離さないのだから仕様がない。


 陶酔感(とうすいかん)に満たされながらも、頭のどこかに冷静で透き通った自分がいる。この状況を俯瞰(ふかん)して、ただ眺めているだけの自分。彼女は、ヨハンが水蜜香を吸わせた理由について多少なりとも分析し、でもこうなってしまった以上仕方ないので、なかば思考を放棄しているようだった。一方でまた、自制心を固持(こじ)しようと懸命になっている自分もいる。でも彼女に軍配は上がらない。ひとつの身体のなかにいくつものわたしがあって、でも肉体を制御しているのはひとりだ。


「ヨハン。たぶん今しか言えないから、ちゃんと聞いて」


「なんですか」


 吐息が漏れる。分身の彼の背は、ひどく冷たい。でも本体も同じなのかも。なにせわたしの身体は熱しているのだから。温度の基準は常に自分の肉体だけ。わたしの熱は、ヨハンに少しでも伝わっているだろうか。冷えた背が温まって、逆に、熱した身体は落ち着いていく。触れるとは、互いの体温を()け合わせて、同化するのを意味しているのかもしれない。


「絶対に忘れないで、覚えていて。わたし、あなたに感謝してるの。こんなふうになったわたしを見捨てないでくれて、本当にありがとう。……それと、あなたのことが好き。とても。苦しいくらい」


 言葉とともに、頬を熱い液体が流れていく。


 なんの涙なのだろう、これは。


 喜びじゃない。もちろん哀しみでもない。どこかに理由があるはずだけれど、一向に分からなかった。


 段々と、こんなはずじゃないのに、という気持ちが強くなる。わたしは、こんなふうに(さら)け出してはいけないのだ。たとえそれが本心だとしても、水蜜香で自我を(ゆる)めて垂れ流す言葉になんの価値があるというのか。


 戯言(ざれごと)。そう思われるのが当然。大事なものを雑に扱って、取り返しようのない傷を付けてしまった。


 ヨハンの首元に顔をうずめて嗚咽(おえつ)するわたしに、彼はなんの返事もしなかった。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。



・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて


・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて


・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。また、元真偽師。観察眼と魔力察知にも長けている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて


・『煙宿(けむりやど)』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて


・『不夜城(ふやじょう)』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて


・『前線基地』→王都北東の山脈にほど近い場所の山岳地帯に作った、戦争における要衝。血族の侵入経路と王都を直線上に結ぶ位置にあるため、全滅は必至であり、足止めの役割がある。総隊長としてシンクレールが配備されている。簒奪卿シャンティおよびシフォンの襲撃によりほぼ壊滅した。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて


・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場


・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて


・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。箱同士がペアになっており、握ることで交信が可能。仮想空間の生成と精神抽出の魔術で成立している。初出は『69.「漆黒の小箱と手紙」』


・『二重歩行者(ドッペルゲンガー)』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて


・『ポール』→『煙宿』の創始者。水蜜香の中毒者であり、娘を溺愛していた。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて


・『水蜜香(すいみつこう)』→微睡草(まどろみそう)と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて


・『カシミール』→マダムの養子であり、レオンの兄。血の繋がりはない。粗暴な性格だが、料理の話になると打ち解ける。人形術により自身の肉体を強化する技を得意とする。現在は『煙宿』で料理人をしている。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて

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