Side Alice.「お別れに紙切れを」
※アリス視点の三人称です。
煙宿から湿原へと向かう細道の一角。一灯の明かりさえないこじんまりとした平屋でアリスは息を殺し、通りに面した小窓を覗いていた。
朝を迎えても靄に閉ざされたこの町は、まだ夜を抜けきっていない風情がある。深く打ち込まれた杭に支えられた木板の道は、桟橋のごとく霧中の湿原へと続いていた。煙宿の大部分はこうした桟橋状のエリア――『ほろ酔い桟橋』で構成されている。戦争の話が人々の耳に入っても夜々の賑やかさは変わらなかったが、いよいよ煙宿が要衝になると決まってからは比較的静かになったものだ。平時ならば、今の時間帯は桟橋のあちこちで酔っ払いが酒瓶を抱いて鼾をかいている。そんな馬鹿馬鹿しいくらいの平穏はもはや影もかたちもない。
煙宿の大通りへと続く方角に、ときおり紫色の肌が見えた。
自分ひとりでなにが出来るのか。それを考え続けているが、どうにも突破口が見つからない。嫌気が差してくる。こんなことなら昨晩帰還すれば良かったと思えてならない。後悔なんて性に合わないが、こうも閉塞した状況で潜伏せざるを得ないとなると思考も低迷する。
昨晩から今朝にかけての出来事が脳裏に浮かんだ。
『さっさと寝たまえ、アリスくん』
その日、ヘルメスの魔術修行を終えてからも、アリスは教わった内容を夜半まで反復していた。目が冴えていたのもあるし、そろそろ煙宿に帰らねばならないという焦りもあったからだ。教わったことはすべて、身体に染み込ませたい。そんな思いで鍛錬に励んでいたところ、ヘルメスが現れて、相変わらず憂鬱そうな顔で告げたのだ。
『眠れる気がしないのさ、先生。どうせ寝れないなら、時間は有益に使うべき。そうじゃないかい?』
『適切な休息は学習効率を上げる。そんなことも知らないのか? 一般常識のはずだが、キミは一般的な知識さえ持ち合わせていないらしい。残念な生徒だ。卒業おめでとう。健やかに畑を耕す日々を送りたまえ』
いつもの罵倒を聞き流し、アリスは自分に割り当てられたドーム状の巨木の内側で、諦めて横になった。
そもそも、ほぼ私室と化したドームまでヘルメスが足を運ぶなんて珍しい。しかも夜中に。まだ数日の関係だが、こんなことは一度もなかった。授業が終わったらさっさと自分のドームに引き籠もって、こちらには一切干渉しないのが彼の日常である。
『夜更かしする悪い生徒を叱りに来ただけかい、先生』
なにか目的があると思って訊いたのだが、肩透かしだった。
『その通りだよ、賢い賢いアリスくん。しっかり眠って、これまで学んだすべてを身体に取り入れたまえ。そうすればキミの残念な魔術も多少マシになるだろう。分かったら目を瞑れ。肉体を休ませろ』
『はいはい……』
かくして仕方なしに眠り、早朝に目覚めたのであるが――ドームを出るとヘルメスが腕組みして座っていたのでぎょっとした。
『……朝っぱらからどうしたんだい、先生。神妙な顔して』
『キミには選択肢がある。はっきり言って、今のキミはとてもじゃないが魔術師とは呼べない。ボクとしては生徒を中途半端な状態で放り出すのは気が進まないが、キミにはキミの意思と目的がある』
『まどろっこしいね……で、選択肢ってのはなんだい?』
『ここに残って修行を続けるか、今すぐ出発するか』
ヘルメスはグレキランスの地図を取り出し、アリスへと掲げた。彼女の目が凝然と見開かれ、やがて鋭い目付きへと変化する。視線は地図上の煙宿に固定されていた。そこに描かれた旗のマークと、ルドラという名も含めて視界と意識を占めている。
『出発するよ』
迷いなく口にする。それをなかば以上は予期していたのだろう、ヘルメスはさして抵抗することなく『そうか』と言って地図を仕舞った。
『なら、転移魔術で特別に送ってやろう。魔術痕は心配しなくていい。転移したのを誰にも悟られないよう送る』
『そりゃ助かる。ところで、煙宿が占拠されたのはいつなんだい?』
『昨晩だ。キミの部屋を尋ねる直前』
『……なんで教えなかった?』
『制圧旗が立った時点で、町は敵の支配下にある。出発するなら魔物が自然消滅する時間帯が適切。キミに煙宿の情報を伝えたらすぐに向かおうとしただろう? 考えもなしに』
反論したいところだったが図星だ。昨晩この情報を耳にしたなら、すぐにでも隠れ家を出ただろう。自分のことは自分が一番分かっている。特に、血に飢えた獣性と、それに照応するような軽率さは。
そしてヘルメスの言う通り、魔物の軍勢が居残っている状況で殴り込むのは得策じゃない。返り討ちだ。
『分かった。認める。先生が正しい』
『よろしい。キミも多少はマシになったようだ。預けている強制転移紙片だが、そのまま持っていたまえ』
ふたつでひとつの魔道具、強制転移紙片。片方の紙片の所有者を強制的に自分のもとに転移させる道具。より魔力の強い所有者のもとに転移される仕組みなので、実質アリスはヘルメスの心ひとつで彼のもとに一瞬で呼び戻されるわけだ。こちらの意思とは無関係に。アンフェア極まりない。
『いざとなったら助けてくれるのかい? 視覚も共有したままだし』
『いや、助けない。視覚共有の目的はキミの安全確認ではないからだ』
『じゃあ紙切れ――強制転移紙片はなんのために持たせておくのさ』
『キミが戦争で生き残ったあかつきには、授業を再開するためだ』
大真面目な顔で言うヘルメスに、アリスは苦笑いを浮かべた。ヘルメスの修行は願ってもないことだが、そんな日が来るのを――具体的には生存を自分が望んでいるのかどうか。本能としては生死など度外視した戦闘を求めている。今さら生き方は変えられない。
『アタシに魔術を教えてくれた師匠は、ひとり残らず死んだ。でもアンタは死なない。そうだろう?』
『アンタじゃなくて先生だ。口の利き方もいずれ直してもらう』
この男は、生存を確信しているわけじゃないだろう。ひとは死ぬときには死ぬ。そして助ける気がないのも確かだ。性格は悪いが、少なくとも、自ら死地に赴く奴に泥を塗るような男じゃない。
だからたぶん、強制転移紙片を預けたままにしておくのはヘルメスなりの願いだ。随分と不器用な。
『世話になったね。ありがとう、先生』
『感謝される謂れはない。講師を請け負った者として当然のことをしただけだ。それに、まだまだキミはひよっ子の身。一人前になっただなんて思い上がりは持つな。いいか。誰が相手であれ、自分が格下だと思え。少ない脳を絞って活路を見出し、決して無茶な真似はするな』
どれだけ心配性なんだ、ヘルメスは。その迂遠で不器用な親切心はありがたくもあり、邪魔でもある。これがただの他人から言われたのなら気にすることもなく聞き流せたわけだが、仮にも師だ。だからこの言葉は自分を抑制する鎖となる。その気になれば断ち切れる鎖だ。聞かなかったことにして、これまで通り本能に従う道もある。それが余計厄介に感じた。どうにでもなるからこそ、試されている感覚になるのだ。ヘルメスが試しているわけじゃない。自分が自分を試している。
それから二言三言の情報を引き出し、煙宿に転移した。町外れの位置を選んだのはアリス自身であり、人目を盗んですぐさま家屋に潜伏したのも彼女の判断である。
魔力の檻は転移直後に把握した。そのなかに人々が閉じ込められているであろうことも。
とにもかくにも、血族どもに見つからないよう潜伏し、まずは檻をなんとかする。今の自分の魔力操作では、檻を形成している魔術がなんなのかまで見極められない。実際に触れて確かめないうちには、それを破る方途もつかないだろう。孤立した血族を捕まえて情報を聞き出すのも手段としてはアリだ。なんにせよ機を窺う必要がある。
小窓からもっぱら大通りの方面を監視していたのだが、不意に湿原の方角から魔力を感じ、咄嗟に視線を逆方向へ転換する。
深く立ち込めた靄のなかに、やがてひとりの女性の血族が姿を現した。血族特有の黒い血に汚れた白装束は、さながら亡霊である。
そして異様なことには、口元が黒く染まっていた。同族の血肉でも喰らったかのように。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入り。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ほろ酔い桟橋』→『煙宿』のなかで、一般的な住民の住むエリア。『不夜城』以外の部分はすべて『ほろ酔い桟橋』にあたる。居住区よりも娼館や酒場、賭博場といった広義の娯楽施設のほうが多い。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした過去を持つ。血族化して以降は夜会卿に仕えていたが、ニコルによる襲撃以降、四代目となるガーミールに鞍替えした。死を契機に、事前に契約を交わした相手に成り変わることで不老不死を実現する異能を持つ。対象者はヘルメスの記憶と肉体と魔力をコピーした、ヘルメスそのものとなる。その際、相手の持つ魔力も上乗せされる。夜会卿の支配地であるアスターに訪れたルイーザの精神を叩き折って泣かせた過去を持つ。ヨハンの提案により、オブライエン討伐ならびに戦争での人間側の勝利後には、四代目ガーミールの部下とともにグレキランスに残り、アルテゴのワクチン研究をすることに合意。オブライエン討伐を見届けるべく、アリスの片目を介してウィンストンと視覚共有をしている。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『制圧旗』→旗状の魔道具。血族に配されたグレキランスの地図と連動しており、旗が刺された地点が地図にマークされる。制圧旗は通常の手段では破壊出来ず、各軍の指揮官が死亡した場合に消滅する。その際、地図のマークは髑髏に変化する。諸侯同士による獲物の横取りを防ぐために開発された。血族の部隊長クラスがそれぞれ所有しており、旗を突き立てる仕草を行うことで出現し、効力を発揮する。詳しくは『幕間「落人の賭け」』にて
・『強制転移紙片』→ふたつでひとつの魔道具。片方の紙片を持つ者を強制的に自分のもとへ転移させるという代物。より魔力の強い者のほうに転移される。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『視覚共有』→その名の通り、視覚を共有する魔術。詳しくは『9.「視覚共有」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




