幕間.「徒花の蹉跌㊳ ~尋ね人は永遠に~」
男は一切を包み隠すことなく語ってくれた。鬱蒼とした森のなか、呆然と頭上を見上げる彼には、少なからずロゼッタへの想いがあったのだろう。それは彼女の置かれた境遇への同情なのか、自殺に至るまで止められなかった後悔の念なのかは分からない。
ルシールが去って間もなく、ロゼッタは下手を打った。彼女なりの計算があってのことだろうが、それが果たして策と呼べるものだったのか、もはや誰にも分からない。ただ、ルシールの知る限りのロゼッタにおいて、自然とすら言える方法だった。
ロゼッタは男爵とその正妻に直訴したのである。息子のベアトリスとともに地下の別区画に移らせてほしいと。
懇願の模様は、ルシールには容易に想像出来た。ロゼッタはアルブルの邸のときと同じ轍を踏んだわけだ。もはや成長のなさを通り越して、ロゼッタの根本的な性質ですらあると言えよう。暴君に対し、彼女の嘆願がむしろ怒りを煽るだけなのだと、どうして学習しなかったのか。いや、理解していてなお、彼女にはそのようなやり方しか出来なかったのかもしれない。そのあたりの心情はルシールの推し量れるものではなかった。
ロゼッタの望みは歪なかたちで叶えられた。咎人などが隔離される区域へ押し込まれたのである。しかし、彼女の唯一無二の希望であるベアトリスとは離れ離れの運命になった。我が子は暴君の手のなかに残り、彼女だけが隔離区域へと追放されたのである。
だが、それで終わらなかった。男爵は定期的に隔離区域からロゼッタを呼び戻し、欲望のまま嬲ったのである。ときにはベアトリスの目の前で。
隔離区域と一般区域は頑丈な格子で仕切られており、通常は行き来できない。ゆえにロゼッタのときどきの解放は、隔離区域のほかの人々の羨望を買った――なんてことはない。彼女がどんな目に遭っているか、隔離区域の人々は語られずとも察していたのだ。優しくて、けれど弱い、救われる見込みのない連帯が確かに存在したことだろう。
隔離区域の格子越しに、ベアトリスがこっそり来てくれることもあったらしい。そんなとき、母子は格子の隙間から互いに触れ合い、睦ましい会話を交わした。誰の目から見ても、どの耳が聞いても、哀れみを喚起するに余りある情景である。
半年ほどそんな状態が続いた或る日、例のごとくロゼッタは男爵に呼び出された。暴力と凌辱の約束された邸へと絶望的な顔で歩む彼女に、住民たちは一様に目を背けた。
しかし、そこで起こった暴力は別種のものであったのだ。男爵と正妻をベアトリスが殺したのである。短剣を手に立ち尽くす我が子を前にして、ロゼッタがなにを思ったかは彼女以外の誰にも分からない。ただ、哀しみや喜びや失意や諦念、あるいは憤懣や自嘲といった、一語に収まってしまう感情ではないだろう。いくつもの想いが、彼女の人生の道のりを多量に含んでブレンドされている。それら感情の混淆がロゼッタを次の行為に駆ったのだろう。
毒石という鉱物がある。人体に死をもたらす危険物として周知されている代物だ。男爵の邸にはどうしてかそれが保管されていたらしい。身内を殺してしまったベアトリスに一瞥を送り、透明な涙を一筋流して、彼女は毒石を呑み込んだのである。
「ただし」と番人の男は俯いて続けた。「この話には別の説もある」
番人の言う説とは、男爵と正妻を殺したのがロゼッタ当人であるという内容だった。
先に述べられた説は、下手人であるベアトリスが自ら語った顛末であり、今しも話された別の説は、邸の使用人を発端とする噂話らしい。地下では結局のところ後者の説を支持する向きが強く、ベアトリスは不問となり、男爵位を継ぐこととなった次第だ。
「真実は俺にも分からん。ベアトリス様の言葉も本当かどうか……。俺はほとんどの時間、地上にいるからな。全部又聞きだ。ただひとつ確かなのは、ロゼッタさんの呑んだ毒石の影響で男爵の暮らしてた区画全域が閉鎖されたってだけ。……まあ、それはどうでもいいことだな。あんたにとって肝心なのは、もうこの世のどこにも尋ね人がいないってこった」
男の口調はぞんざいだったが、ルシールへと向けられた視線には同情が込められていた。そんなものに慰められるような性格ではないが、少なくとも、この男の言葉に嘘は感じられない。
話の途中から、ルシールは立ったままずっと脱力していた。徒労感からではない。ロゼッタの境遇を想っても哀れみは感じない。ただ、もはや世界中どこにもイアゼルの求める人物がいないのだという事実が残念でならなかった。
死んだのは三日前。もっと早くこの地に来れたなら、違った未来があったかもしれない。ロゼッタが自殺する事態にはならなかったかもしれない。なんならルシール本人が番人を籠絡し、地下に潜入して、隔離されたロゼッタとベアトリス両人を連れ帰るのだって不可能ではなかったろう。それを思えば、半年前にロゼッタと再会したときに行動すべきだった。しかしながら、これらすべての思考は結果ありきのものである。こうなってしまったから、あり得た未来を頭に描いてしまう。
ひとは過去に遡ってやり直すなんて出来ない。常に現在を直視することしか出来ない生き物なのだ。現在を積み重ねて、望む未来へと歩んでいく。あるいは、決して望まぬ未来へと流される。
ルシールはきつく口を結んだまま、心の声で呼びかける。もう届くことのない相手へ。
――ねえ、ロゼッタ。貴女の人生はそれで良かったの?
――私は貴女のことなんてちっとも知らない。共感出来る部分もない。
――冷酷な侍女だった私に、貴女だけは優しくしてくれた。それに感謝したことなんてないし、今も恩は感じてない。私が貴女を罠に嵌めたことも、悪いだなんて思ってない。でもね、私は本当に貴女を流刑地から出したかったの。親切心じゃないけど、貴女の苦しみを消せたかもしれない。
――ロゼッタ。ねえ、ロゼッタ。貴女にとって、幸せってどんなものだった? 前に聞いておけば良かったんだけど。もう貴女に会うことさえ出来ない。貴女にとっての幸せを教えてくれれば、イアゼルにそれをちゃんと伝えられたかもしれないの。
――いえ、無理ね。あの子、ママが大好きなんですもの。貴女が居てくれさえすれば、それで幸せを自覚出来たのかも。
――ロゼッタ。最後にこれだけは言わせて。間に合わなくて、ごめんなさい。私がもっと早ければ、こんなことにはならなかった。
ルシールは番人が無言で差し出したハンカチを、首を横に振って、決して受け取らなかった。
いつぶりだろう、泣いたのは。もう涙なんてとっくに枯れたと思ってた。
その後、ルシールはフラティリアに帰還し、領地管理をおこないながらも個人的な魔術修行をはじめた。
転移魔術。それも一般的なレベルの転移ではなく、正確さ、距離、規模のすべてを磨いたのである。同時にイアゼルの攻撃魔術――太陽の魔術の制御も手ほどきしたのだが、どうも彼の扱うそれは感情に強く結びついているらしく、汎用性は乏しかった。とはいえ、ひとつの魔術を顕現させたことでイアゼルが飛行魔術を会得したのは収穫である。そればかりに打ち込んで、ほかの魔術をろくに使おうとしないのは玉に瑕だったが、魔術師には誰しも得手不得手があるものだ。特にイアゼルのような気分屋はその傾向が強い。
それから何年もの時間が過ぎた。領地に憂いはなかったが、イアゼルの執着は変わらない。いつか母親を取り戻すと決めているようではあるものの、具体的な方法は定まっていないようだった。ルシールは、ロゼッタの死を彼に伝えてはいない。然るべきときに、彼自身が理解すべき事柄だ。それに誰かの伝聞ではなくて、自分の目と耳で徹底的に確かめなければ彼は納得しないだろう。五十歳近くになっても子供っぽいところばかりで、母親への想いは殊にその傾向が強い。
そんなおり、戦争の話が舞い込んだ。首都ラガニアの最高権力者であるイブに与した人間――ニコル――により発案されたものである。イアゼルがこれを絶好の機会だと捉えたのは言うまでもない。流刑地の地下とグレキランスが繋がっているのは、すでに彼の知るところであり、グレキランス側にあると思われる転移道具のおおよその座標も特定出来ている。これはイアゼルの持つ偏執狂的な魔力察知の賜物だ。
グレキランス側から流刑地に潜入する。イアゼルはそれしかないと踏んでいるらしい。ルシールとしては彼が納得してくれさえすれば良かった。彼女ももはや百五十歳で、血族としては初老の域に達している。地位について考えることなどもうない。ただ、ときどき幸せについて思考をめぐらすことはあった。おおむねそれは、イアゼルの幸福と不可分という結論になったが。
毒色原野を行進する途中、ルシールは隊列を離れ、流刑地の参戦者の隊伍へ足を運んだ。イアゼルにはなにも告げずに。
「……なにか?」
流刑地の長――ベアトリスに問われ、ルシールは素早く依頼したのである。戦後、イアゼル様に是非お会いしてください、と。
「あの方は貴方の異父兄弟です。あの方はご母堂……ロゼッタさんの死を知りません。今も生きていると信じて、グレキランスを目指しておられます。流刑地の地下と、グレキランスの町が繋がっていると看破しているのです。……返答は必要ございません。わたくしどもはグレキランス側から流刑地に入る予定です。そこでイアゼル様はご母堂の死を知ることでしょう。傷心の彼を、どうか、ご兄弟の貴方に慰めていただきたいのです。……お願いばかりで申し訳ございませんが、ロゼッタさんの死を事実として受け止めたイアゼル様に会ってくださいませ。それまではどうか、ご内密に」
ルシールは深く礼をして、ベアトリスのもとを去った。漆黒の兜で顔を覆われていたが、目元はロゼッタに似ている、なんて思いながら。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『ベアトリス』→ラガニアの地下都市ヘイズの長であり、バーンズの子孫。黒の血族で、ラガニアの男爵。誠実な男。祖先の恨みを晴らすべく、夜会卿への宣戦布告を目論んでいる。鎧をかたどった貴品『虚喰』により、無形の靄を自在に操ることが可能。ただし、力を使えば使うほど鎧の内部は空洞化する。戦争にて竜人と組んで人間側につくことを誓った。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『毒石』→人体を溶かす固形物。正体は不純物が入り混じった『固形アルテゴ』。血族の肉体を怪物化させる効能がある。詳しくは『920.「危険物を背に」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『飛行魔術』→肉体に浮力と推進力を与える魔術。制御には高度な技術を要する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『イブ』→魔王の名。ラガニア王の三女だった。ラガニア王直系の生き残りは彼女のみ。肉体は成熟した女性だが、精神は幼い状態のまま固定されてしまっている。魔物を統率する力を有する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『転移道具』→ヘイズの『層間転移』や、ヘイズとマグオートとの行き来を可能とする魔道具。詳しくは『922.「技術の源」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。霧は一定周期で晴れる。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて




