135.「それは予告なく訪れる」
その女性はセシルと名乗った。ただ、それ以上は口にしなかった。
彼女が本当に、ノックスに対して逃げるよう囁いたのなら少なくとも悪党ではない。ヨハンの二重歩行者を察知して罠にかけるつもりでそれを口にしたのでなければ。しかし、見る限りセシルはヨハンを上回るほど狡猾には見えなかった。
ひとまずの信頼は置いていいかもしれない。
「セシル……あなたが子供に逃げるよう告げた理由を教えてくれないかしら?」
セシルは目を逸らし、ただひと言「言えません」とだけ呟いた。
「どうしても?」
彼女は控えめに頷き、瞼をぎゅっと瞑った。拳を握り、なにかに必死で耐えているような、そんな苦しげな様子だった。「私の口からは……言えません」
ヨハンを見ると、彼は伏し目がちに首を横に振った。これ以上追及したところで意味はない、ということだろう。
レオネルはというと、探るような眼でセシルの身体の隅々までじっとりとした視線を走らせていた。彼が熟練の魔術師でなければ引っぱたいていただろう。
レオネルは単純に彼女の魔力を計っているのだ。わたしが視る限り、セシルは常人よりやや強い程度の魔力しか持っておらず、魔術を使用出来るほど整ってはいない。身体の中心から仄かに魔力が溢れている程度である。
セシルを見つめて、柔らかく微笑んで見せた。彼女の視線がわたしに焦点するのを待って口を開く。「あなたがもし『アカデミー』の実態を全て知っているのなら、勿論教えてほしい。この施設がなにか……不穏当なことを仕出かしているのなら、わたしたちはそれを徹底的に壊すわ」
セシルは目を泳がせて、白衣のあちこちを掴んだり離したりしている。揺さぶられているのだろうが、多分、彼女は決して真相を語ることはないだろう。動揺や葛藤の表現は多く、そこに偽りは感じない。ただ、言おうか言うまいか迷っているようには見えなかった。話さないと決めていながら、それでも追及に耐える頑固で哀切な姿である。
彼女の手を取ると、震えと強張りが伝わった。緩く握ったかたちで硬直した手を、両手で挟み込む。
「それでも施設について言いたくないのなら、言わなくていいわ。けれど……あなたが苦しんでいるのなら、それを少しでも分けて頂戴。あなたの力になれるかもしれない」
セシルはわたしの両手を振り払うことなく、力を込めるでもなく呟いた。「見なかったことにしますから、早く逃げてください」
もし彼女が施設に疑問を抱いているだけの人間なら、この怯えも理解出来る。わたしたちとこうやって話している事実を『帽子屋』をはじめとする騎士団に見つかってしまえば、施設からの追放では済まないだろう。言うまでもなく生命が脅かされる。
「あなたが恐れているのは『帽子屋』? それなら、わたしがそいつを倒してあげる。約束するわ」
「無理です……」とセシルは即座に返して、やや身を引いた。それでも彼女の手は放さなかった。
「『帽子屋』はそんなに強いのかしら?」
ちらり、と彼女がわたしを一瞥する。そして気まずそうに続けた。
「『帽子屋』だけが問題ではないんです……。ビクターに掴まったら、きっとあなたたちは酷い目に遭います」
『帽子屋』が脅威であることは理解していたが、もうひとり知らない名前が出た。振り向くと、レオネルが怪訝な表情をしている。
彼は髭を指先で摘み、わたしの疑問に答えるかのように説明した。「防御壁と等質転送器を造り上げた技術者です」
なるほど。魔道具職人か。しかし、職人に戦闘能力があるとは思えない。たとえ戦えるにしてもヨハンやレオネルに匹敵する魔術を会得しているとは到底考えられなかった。そもそも魔具及び魔道具職人は魔力を整えて対象に籠めることに長けた存在なのだ。
魔術師であるということは、特定の魔術に偏ることを意味する。あらゆる魔術に精通することなどおよそ不可能である。『白兎』が魔力の凝固に長けているように、あるいはケロくんが洗脳魔術を得意としているように、それぞれ得手不得手があるのだ。職人は魔力を注入することに偏っている。防御壁や等質転送器、はたまた街中の永久魔力灯を造り上げるような精力的な職人に攻撃魔術が使用出来るはずがない。
したがって、遭遇したとしても脅威になるとは思えなかった。それとも、施設中に魔道具の罠が張り巡らされているとでも言うのだろうか。
「セシル。安心して頂戴。魔具や魔道具の職人に後れを取るようなメンバーじゃないわ」
刹那、彼女の瞳に哀れみが満ちた。無知な者に対するときの悲哀とでもいうべき色がセシルの目を彩る。
そして「……ビクターにだけは掴まらないで」とだけ繰り返した。
「それだけでは気をつけようがありませんな」痺れを切らしたのか、ヨハンが呆れたように言った。
セシルはしゅんと頭を下げる。「……ごめんなさい」
「まあ、いいです。ともかく、話は簡潔に済ませるべきだと思いますよ。……お互いのために」
びくり、と彼女の身体が震える。本当に怯えやすい人だ。ヨハンも脅しのつもりではなかったろうに。つまり、私たちは先を急ぐためにシンプルな答えが必要で、彼女は彼女で『アカデミー』の敵である私たちと長話をしているのは決して得策ではないはずなのだ。それすら見えていないとすると、はっきりした答えを得るのは随分と骨が折れそうだ。
「セシル。お願いだからこれだけ答えて頂戴。あなたが逃げるように伝えた子は、今どこにいるの?」
セシルは思い出すように宙に目をやり、それからゆっくりと首を振った。「……ごめんなさい。子供がどこへ行くのか知っているのはビクターだけなの……。『アカデミー』の管理は彼がしているから……」
彼女の言葉に、思わず首を傾げた。
なぜ職人が子供の行き先を決める必要があるのだろうか。施設の管理者だから、という通り一遍の理解ではどうも足りない気がする。
「子供がどこへ行くのか、ですか。すると、この施設には子供がいないんですか?」とヨハンが追及する。
「いえ、います。一階の広間に」
広間、と聞いて鳥肌が立った。聞くべきことがまだある。「広間にベッドを並べて、そこに子供を寝かせていたのはなんのため?」
ヨハンが二重歩行者で見たと語った情景である。ここに『アカデミー』の違和感が表れている。
わたしの言葉に、セシルは驚いたように目を丸くした。「……どうして」
「魔術で侵入したんですよ。ただ、知っているのはそれくらいです。……いいですか。わたしたちは『アカデミー』が本当に魔術師養成施設ならわざわざ忍び込みはしませんよ。ハルキゲニアの将来を考えるうえで大変由々しき事態が起こっているように感じたからこそ、夜霧を抜けてここまでやって来たわけです」
畳みかけるようにヨハンは続けた。
「もう一度言いますが、あなたが『アカデミー』に疑問を感じているのなら、手を取り合える立場だと信じています。勿論、選択はあなたに委ねられている。重要なのは……いいですか? 重要なのは、このチャンスはもう二度と訪れないという事実です。生涯口を閉ざしてこの場所にいるのか、多少なりともリスクを負って現状を変えようとするのかはあなた次第です」
きっと今のこの状況は、セシルにとってあまりに突然の出来事だったのだろう。疑問を感じながら日々を過ごす中で、いきなりそれを解消してくれるかもしれない相手が現れた。心構えなんてあったもんじゃない。けれど、運命は往々にして予告を与えないものだ。
彼女は俯いたまま黙っていた。
これ以上ここにいることは出来ないと判断したのか、ヨハンは「行きましょう」と告げた。レオネルが頷いて部屋の出口に向かう。
俯いた彼女をこのままにしておくのもなんとなく気が引けたので、彼女の肩をぽんぽんと叩き、実はずっと気になっていたことを口にした。
「机の前の椅子……あれに敷いてあるのってスライムのぬいぐるみでしょ? 実はわたしも同じクッションを持っていたの」
ニッコリと笑顔を見せると、彼女はきょとんとこちらを見つめるばかりだった。
さて、言いたいことは言った。
ヨハンが扉に手をかけた瞬間、セシルの声がした。控えめな声量だったが、先ほどよりもいくらか力が籠っている。
「……待って。……案内します。迷わないように」
わたしの隣で、ヨハンが満足気な笑みを――いつもの邪悪そのものといった笑みを――浮かべた。
「歓迎しますよ、セシルさん」
彼女に振り向いて見せたヨハンの表情は、ささやかな微笑に変わっていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。『アカデミー』に引き取られた。
・『二重歩行者』→ヨハンの魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』にて
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。
・『等質転送器』→拡声器型の魔道具。声を均等に届ける道具。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの騎士。魔術師。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて




