幕間.「徒花の蹉跌㊲ ~引き返せない泥土へと~」
溶け落ちた街に領内各町村の専門家ならびに作業夫が行き交う様子を見下ろして、ルシールはここ一ヶ月の疲労を思い、自然と深い溜め息をついた。
東の男たちに洗脳をかけたのち、イアゼル自身の言葉で彼らに呼びかけた。ルシールの命令に従うように、と。洗脳を解除したのちに『そうすればまたいつか幸福にしてあげる』という文言が付け加えられた。彼らは実に従順な存在へと変化してくれたものだ。むろん、それらの台詞はルシールがイアゼルに言わせたわけだが。
それから最低限必要な衣食をウィステリアから取り寄せるついでに、その街の人々すべてに同じ洗脳と言葉を与えた。多幸の喇叭を用いた至福充溢の拡散である。ひとりとして抵抗する者などなく、幸福の虜になった彼らはフラティリア復興に尽力すると約束したのだ。
ただ、それだけでは足りない。復興のための作業をダンテと東の男に指揮させ、ルシールとイアゼルは主要な町村をめぐり、ウィステリア同様、幸福による支配を敷いたのである。街の復興にはウィステリアの人員だけでは専門知も労働力も足りない。そしてなにより、規模の大きな町村を籠絡することで謀反を抑止したかった。各地をめぐるなかで、言葉は洗脳ののちに一度だけ投げかければ充分であるという収穫もあった。
洗脳魔術への抵抗感はルシールのなかで徐々に消えていった。街が崩壊し、ウィステリアの襲撃に遭った時点で、彼女は例のごとく現状での最前手を探ったのである。
それが洗脳による主要町村の支配にほかならない。大規模な町村が従順な態度を示すことで、各地に点在する小規模町村は抵抗しなくなる。上納品の収集先は一旦ウィステリアに定め、フラティリアの機能が回復するまでは彼の地に納めるよう差配したのも彼女だった。幸福に飢え、従順となったウィステリアが領地からの利益を掠め取ることなどない。幸福を知った大規模町村が上納額を誤魔化すこともない。
ルシールとしては、溶けたフラティリアを復興する気などなく、ウィステリアを直轄地として新たに定めてしまえばいいだけだと考えたが、イアゼルの懇願で復興に舵を切る運びとなったのである。
『ここがもとに戻らないと、ママが帰ってこれないから』
目に涙を溜めて哀願するイアゼルに、ルシールが折れたかたちだ。
徐々に復興しつつある街を眺め、しかし、とあらためて考えた。
どうしてあのとき自分は、復興などという無駄な選択を受け入れたのだろう。フラティリアにろくな産業はない。街が元通りになったとしても、港も塩田もほぼ機能不全に陥っているのだ。単に『領主がいる街』でしかない。それを分かってなお、自分は復興の道をイアゼルと歩むことにした。傷心の子供になにかしてあげたくなった? ありえない。そんな無暗に優しい性格だったなら、乳母の立場を獲得することも、ある種強引で残酷な領地管理も出来なかったろう。
「ルシール、見て!」
「鷹ですね。優雅です」
イアゼルに示されて見上げた空には鷹が舞っている。彼の相変わらずの呑気さにはしばしば呆れてしまうが、これでいいとも思う。都合がいいという意味でもあり、イアゼルの純朴さをこのままにしておきたいという気もあった。計算高い相手との折衝は自分が担えばいい。
空を旋回する鷹を見上げ、ルシールは薄幸な女性の面影を脳裏に浮かべる。約束の一ヶ月は過ぎた。ただ、ロゼッタのことだ。一ヶ月で完璧な計画を練るのは難しいだろう。この街の復興が完了するまで、彼女の奪還は引き延ばそうと決めていた。
「鷹じゃないよ。蝶々がいたんだ。……もう消えちゃったけど」
「あら、ごめんなさい、イアゼル様」
イアゼルは人々に洗脳をかけるなかで、確かな満足感を得ているようだった。なにせ、彼にとって可哀想な人々を幸福にしてやるのは宿願なのだ。ルシールの命令で解除するときに、名残惜しい顔さえしたものである。彼としては、人々がずっと恍惚状態にあろうとちっともかまわないのだろう。至福充溢にかかった者は、きっと魔物に襲われている最中であろうと幸せに違いない。
「ルシール」とイアゼルが急に真面目な声で言ったものだから、ルシールはやや警戒して隣の彼を見上げた。イアゼルは遠くへと視線を向けている。「異常者は、あれでよかったんだよね」
「ええ。間違っていません」
町村の人々のなかには、至福充溢にかからない者がいたのだ。ルシールは彼らを異常者だと糾弾し、処刑を命じたのである。洗脳にかかっていない者を生かしておけば、後顧の憂いが残るのは明らかだ。放置すればどんな火種になるか分かったものじゃない。
もう二度とイアゼルをパニックに陥らせたくはなかった。それも、ぼろぼろ泣きながら、ルシールの名を連呼する彼の不遇を避けたかったのである。これは計算であり、同時に計算でない本心だと、自分でも理解している。
ウィステリアの東の男は、もうこの世にいない。幸福を約束されたというのに彼は自害したのだ。その亡骸をイアゼルが目にしていないのは幸いである。東の男が死んだのは、街道沿いの木の根元だった。ルシールは死を報せてくれた男たちに命じて、即刻亡骸を埋めるよう指示し、木に刻印された遺言を消したのである。
『自分だけ幸せになるのは筋が通らない』
木の根元に彫られた小さな文字だった。イアゼルの授ける幸福に一度は浸りながら、再度の幸福を約束されて頭を垂れた己が許せなかったのだろう。彼もまた異常者だったわけだ。むろん、ルシールの定義では異常者と正常者はほぼ完全に意味が反転しているが。
とはいえ、字義通りの異常者も存在している。ルシールは自分の爛れた手を見つめた。
私とイアゼルは取り返しのない道を歩みはじめている。それを仕方ないとは思わない。なるべくしてこうなったとも言い訳しない。私が泥土に足を踏み入れたのだ。イアゼルの手を取って。
フラティリアがもとの姿を取り戻し、ウィステリアなどから移住者を募って人員を埋め、上納品の管理がおこなわれるようになるまで、実に半年を要した。
そしてルシールは今、またしても流刑地へ潜入したところである。毒色原野を経由しての飛行魔術の行使は、経験済みであっても嫌なものだ。自分のなかにどれだけの毒が蓄積されているのか知れない。もう致死量に達しているのかも謎である。ただ、身体に変調がないのは安心材料のひとつだった。
巨木を目指して歩く途中、ルシールは以前ロゼッタと再会した池に立ち寄った。相変わらずの濁り具合で、ひどく陰気である。しかしどこか幽玄さを湛えていた。
池の面を見つめながら、内心で呟く。
――私たちは準備を整えた。もう貴女を排除するような奴はどこにもいない。
――貴女はどうなの、ロゼッタ。ちゃんと準備出来てる? イアゼルに幸せを教えてあげられる?
実母と出会ったら、イアゼルは至福充溢の行使をやめてしまうかもしれない。それはそれでいい。代わりに自分が各地の支配に全力を注ぐだけのこと。大立ち回りだってなんだってする。
ルシールは幸せがなんなのか、もう分からなかった。それはずっと昔、若い頃に失われてしまった概念で。けれど、もしもイアゼルが幸せになったなら、自分もそれを知る日が来るだろう。悪夢に泣いたイアゼルをおぶって夜空の下に出た日のことが、本当の幸せだったと確信出来るはずだ。
きっと。
きっと。
巨木の根元には案の定、帯剣した男がいた。ここの番人というわけだ。会うのはこれで三度目になる。
男はルシールを見て、ぼんやりとした視線を寄越した。「遅かったな」
「色々手間取ったのよ。ロゼッタと彼女の息子をここに呼び出して」
木々がざわめく。悲鳴に似た鳥の声が上空で鳴っている。
男は巨木の根元に腰かけ、はっきりと首を横に振った。無表情で。
「連れてこれねえ。ロゼッタさんは三日前に死んだよ。自殺だ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。霧は一定周期で晴れる。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『飛行魔術』→肉体に浮力と推進力を与える魔術。制御には高度な技術を要する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




