幕間.「徒花の蹉跌㉟ ~フラティリアの落日~」
イアゼルがようやく泣き止んだのは、それから三十分もしてからだった。その間、ルシールが彼を宥め続けたのは言うまでもない。泣きながら何事か口にしているようだったが、嗚咽に遮られ、なにを言っているのか、言おうとしているのか定かではなかった。ルシールとしても彼の言わんとするところを汲み取ることはせず、すっかり成長したその背を撫で、手を握り続けたのである。例の火傷を負った手で。『大丈夫』という語句も『ルシールはここにおりますよ』という慰撫も、彼の意識に届いたかはっきりとしない。イアゼルはひたすら、燃え尽きた瓦礫――かつて街だったフラティリアを見つめ続けており、彼女には見向きもしなかったのだから。しかし、爛れた手の感触は雄弁だったろう。誰がここにいるのか。誰が声をかけてくれているのか。目で見るよりも遥かに明確な示唆である。イアゼルにとって火傷した手のひらはシンボルであり、まだ短い人生で何度もその手を握ってきたのだから、勘違いの入り込む余地はないだろう。
「イアゼル様。落ち着きましたか?」
ようやく泣きやみ、まともにルシールのほうを向いた彼へと問う。すると弱々しい頷きが返った。このささやかで儚い小さな仕草は、一日前に目にしたロゼッタの相似に思える。こんなところまで似なくていいのに、とルシールは内心で苦笑した。
状況はとてもじゃないが笑えるものではない。街が灰塵と化した理由は、帰路で見た疑似太陽によるものだと察しがついたが、それまでの過程が抜け落ちている。この地で生きて動いているのがイアゼルただひとりという点も腑に落ちない。
「ごめんね、ルシール」イアゼルは涙の残る声で呟く。「約束、破っちゃった。だからもう会えないと思った。帰ってこないと思った」
約束と聞いてルシールに思い浮かぶのはたったひとつである。洗脳魔術を使わずに大人しくしていること。
どうやら彼はまた逸脱したらしい。しかし呆れはなかった。物事の適切な対処は、しかるべき経緯を知ってから為されるべきである。抱くべき感情も同じ。そのようにルシールは考えていた。
イアゼルの目を見て、器用に微笑んでみせる。
「見ての通り、ルシールはここにおります。なにがあったのか教えていただけますか?」
すっかり成熟した姿の男が、小さな子供のように俯くのはどうにも歪な印象がある。しかしながらイアゼルはまだ十五歳の子供なのだ。外見がどうあれ。
「ルシールがいなくなった次の日――」
ルシールが去って数時間もしない夜明け頃、イアゼルは動き出したらしい。眠ることなく。番小屋に行って本邸の鍵をもらうつもりだった。邸に入りたい理由は単純で、実父とレベッカ、そして年下の兄であるブランと仲直りしたかったからである。大失敗に終わったいつかの昼餐のやり直しというわけだ。
ただ、庭師ヨームは鍵を渡してくれなかった。当然である。ルシールから、イアゼルが妙な行動を起こさないよう見張りを頼まれていたのだから。ヨームは独断するような男ではない。自分がしていい範囲の事柄とそうでない事柄を、第三者からみても正確に判別出来る美点がある。本邸への出入りが後者にあたるのは至極当然のことだった。
押し問答の末、イアゼルは左指の魔紋――幸福の魔術である至福充溢――を発動したのだ。恍惚に呑み込まれ、忘我状態となったヨームから鍵を奪い取り、イアゼルは本邸へと足を運んだのである。
「まずレベッカさんに会おうと思った。ルシールと知り合いみたいだから。でも――」
邸へ入ったイアゼルはすぐに侍女たちに囲まれ、しばらくしてから取り押さえられたらしい。そして奥の間へと監禁された。それら一切がアルブルの指揮によるものであろうことは、簡単に想像出来る。断りもなく邸に踏み込んだ実の息子を鬱陶しい闖入者と判断したのだろう。もしイアゼルが赤の他人ならば、その場で殺されていたかもしれない。が、さすがに血の繋がりのひとつを絶やすのはありえないことだ。たとえ正式な息子がいるとしても、殺してしまったらストックがなくなる。
奥の間という単語を耳にして、ルシールはほとんど無意識に目を瞑った。因果なものだ。かつて自分とロゼッタが閉じ込められた場所。そしてロゼッタが当のイアゼルを出産したであろう場所も奥の間だ。薄暗い秘め事のすべては奥の間に隠される。
半日ほど経過して、数人の侍女がイアゼルのもとを訪れたらしい。彼を心配してのことではない。今度もアルブルの指示で行動したのである。
『なんの目的で邸に侵入したのですか?』
侍女の冷えた声音の問いに、イアゼルは必死になって主張した。父とレベッカ、そしてブランと仲直りするために来たのだと。侍女は簡単にメモを取り、次の質問に取りかかる。
『ルシールはどこにいるのですか?』
その問いには、イアゼルも答えを持ち合わせていなかった。ただ、しばらく留守にすると聞いていたのでその通りに答えたまでのことである。此度の件がルシールに端を発しているとアルブルは推測しただろうか。そのあたりははっきりしない。ただ、可能性のひとつとして疑っていたのは確実だろう。でなければ、翌日になって侍女経由で次のことを伝える必要などない。
『アルブル様からの伝言です。正確にお伝えするよう仰せつかっておりますので、どうか悪しからずお聞きください。……イアゼル。貴様が街で罪を犯したのを知った。領主として放置は出来ん。貴様の沙汰は共犯者ルシールの身柄を押さえたのち、追って言い渡す』
アルブルは街へ使いを出し、頭領から事の次第を聞きおよんだのだろう。魔術の素養の有無にかかわらず、他者の脳に介入するような仕掛けを街のあちこちに施したとなれば、そして実害が出たのが明白なのであれば、イアゼルを咎人と見做すのは道理である。そして乳母であるルシールに白羽の矢が立つのも自然だ。イアゼルを育てた張本人であり、なおかつ魔術を扱える存在なのだから。
「ルシールはなんにも悪くない。そのことをちゃんと説明したのに、ちっとも聞いてくれなかった」
ルシールの捜索隊が翌日には組織された。むろん、頭領の手の内の者である。イアゼルの知るところではないが、彼らは街をくまなく捜索し、乳母の姿がないことを確認すると、捜査の手をウィステリアへと伸ばす予定だった。
「なんとかしなくちゃと思った。ぼくの幸せが届かない本物の異常者のせいで、ルシールが危ない目に遭うのは嫌だったから」
だから、再び至福充溢を発動した。奥の間に入った侍女相手に。
彼女の持っていた鍵を使って奥の間を脱出すると、イアゼルは次々と幸福の小指で邸の人々を洗脳したらしい。そのなかにはレベッカやブランも含まれている。そして、当のアルブルも。
「ぼくがパパの書斎に入ったとき、パパはすごく嫌なことをたくさん言った。だからパパこそ本物の異常者だと思ったんだけど、違った」
イアゼルの至福充溢はアルブルを恍惚へと導いたらしい。異常者の親玉であるはずの実父が正常だったと知り、イアゼルは落胆した。なにかが間違ってると思った。辻褄が合わないと感じた。そして、或る発想に思い至ったのである。
イアゼルは手にした貴品――多幸の喇叭を軽く持ち上げた。
「これを使えば、ぼくの幸せの魔術が拡散出来ると思った。ルシールがウィステリアで声を拡散したときみたいに」
元来、洗脳魔術は煩雑な手続きが必要となる。それらをスキップしてしまえる魔紋であれば、なるほど、多幸の喇叭の効能を十全に発揮出来るだろう。イアゼルのたどり着いたアイデアにルシールは一瞬身震いした。自分が考えもしなかったことを、この子はいつも編み出してみせる。彼女の震えは驚きであり、喜びのようでもあり、また、戦慄でもあった。
かくしてイアゼルは街の全域に至福充溢を拡散したのである。そして街に下り、様子を確かめた。たったひとりでも異常者がいれば、そいつが親玉なのだと――他者の幸福を阻んで哀しみに陥れている張本人なのだと分かる――イアゼルはそのように思い込んでいたらしい。
街の人々はひとり残らず幸福に満たされていた。誰もがイアゼルをうっとりと見上げて呆けている。その様子を見るにつけ、彼のなかでどうにも耐え難い感情が沸き立ったのだ。こんなはずはないのに、と。
感情が最大限昂ったその瞬間、頭上に太陽が現れた。それが自分自身の発現させた最初の物理的な魔術であることは見抜いていたらしい。イアゼルは急いで街外れまで走り、フラティリアへと落ちる太陽をじっと眺め、やがて訪れた壊滅的な光景も余さず目にした。正体の分からない涙が迸り、いつしか彼は大切な乳母の名を叫び続けたのである。
一切を耳にしたルシールは、かつて街だった場所を見つめて内心で呼びかけた。
ロゼッタ。貴女の息子は幸せを求めるあまり、もう取り返しようのないところまで来てしまったみたい。でも、一緒に手を引いて歩むつもりよ。どこまでも。いつまでも。だって乳母なんですもの。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた者の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて




