幕間.「徒花の蹉跌㉝ ~ロゼッタ~」
分厚い曇天の下、ルシールは山岳地帯を見据えてひたすら進行していた。稜線に近付くにつれて木々はまばらになり、樹高も低くなる。植生も異なっていく。地上からは緑一色に見える山々も、鳥の目からは様々なグラデーションが映ることだろう。
今、ルシールはさながら隼のごとく空を駆けている。彼女の目には、雲に覆われた木々の陰鬱な彩りなど意識の外だった。
早く。一刻も早く。
それだけを考え、薄い肩がけ鞄ひとつを荷物に飛行している。彼女の扱える限界速度の飛行魔術では、目的地まで丸一日かかってしまうだろう。夜明け前に発ち、目的を果たして帰還するまで、およそ五日程度を見込んでいる。状況によってはもっと時間がかかるかもしれない。たったひとりの往路が一日で済んでも、復路で人数が増えれば飛行魔術の負荷は途端に上昇する。それに休息も必要だろう。収納魔術の籠められた鞄には、念を入れて一週間分の水と食料が二人分格納されていた。
イアゼルが指に魔紋を彫り込んでから、僅か数時間でルシールはすべての段取りを整えた。厳密には腹を括ったというほうが正しいかもしれない。必要だったのは隠れ家の確保だけで、それは交信魔術経由でダンテが請け負ってくれた。あとは覚悟と運だけあればいい。
頭領への対処を先延ばしにしてでも解決すべき問題は、イアゼル当人の精神だった。
彼の指を見てルシールが最初に抱いた感情は呆れだ。それは悲哀へと遷移し、焦りに繋がった。彼が幸福を追求してしまうのは、自分自身の幸せを後回しにしてしまっているからだとルシールは確信している。彼自身が本当の意味での幸せを知ったなら、洗脳魔術への異常な傾注も歯止めが効くはず。彼の心に根を張った歪な幸福論も是正されるはず。すべては仮定でしかなかったが、彼に幸福を教えてやれるのはこの世でたったひとりなのは確かだった。
ロゼッタとイアゼルを会わせることでしか問題は解決しない。それも流刑地を訪問するなんてやり方ではなく、もっと長期的な方法で。
かくしてルシールは流刑地への最短ルート――急峻な山麓を越えて一直線に彼の地を目指したのである。イアゼルには計画の一切を伏せて、しばらく留守にすると告げてあった。母親を連れて帰れる保証がない以上、無闇な期待を持たせるわけにはいかない。彼の面倒はヨームに見てもらう手はずになっている。決して街に行かせないよう、そしてイアゼルを守るよう、頭を下げた。
しかし憂いはある。当のイアゼルが無邪気に暴走する可能性だ。ゆえにルシールは、指の魔紋を含め、洗脳魔術は使わないよう厳密に釘を刺して置いた。
『わたくしが帰るまで誰かを幸せにしてはなりません。もし約束を破ったら、わたくしはもう二度と帰りませんから』
イアゼルは渋ったり、駄々をこねたり、泣いたりしたが、結局は約束すると明言した。どこまで守ってくれるかは定かではないが、別れ際の寂しそうな顔を見る限り、ちゃんと大人しくするだろう。彼がどれだけルシールに依存しているか、彼女はもう知り抜いている。
流刑地の壁が遙か先にぼんやりと見える頃には、もう真夜中だった。ルシールは航路を変更し、流刑地を迂回するように飛行する。流刑地の壁上を通過するという発想もあったが、危険性は高い。最初の訪問の際、壁上に魔術が施されているのは目にしている。魔力に反応し起動する類のものであることも看破していた。具体的なところは分からないのでルシールの推測でしかないが、接近する魔力を感知した時点で、壁上に天高く――飛行魔術では決して到達出来ない高みまで――防御魔術を展開するような代物だろう。むろん、脱走を防ぐ仕組みに違いない。同時に侵入も阻止しているわけだ。
ただひとつ、壁がないエリアが存在する。毒色原野に接する一帯は魔術的にも物理的にも遮蔽物はない。原野とラガニアを隔てる壁にも同種の魔術が施されているが、それも流刑地付近のみである。魔術的な細工のされていない壁を飛び越えて原野に入り、そこから流刑地に潜入するのがルシールの作戦だ。毒霧の充満した原野を数キロも飛行し、無事にたどりつけるかは運次第。
比較的毒霧の薄いと思われる壁際を飛行し続け、流刑地の森に到達する頃には周囲が朝靄に覆われていた。森のなかを歩きつつ、ルシールは額の汗を手の甲で拭う。丸一日魔術を使い続けた疲労はあれど、毒らしき変調がなかったのは幸いである。運が味方したと言えよう。ただ、勝負はここからだ。
目的の場所まで、ルシールは一切迷わなかった。天を突く巨木を目指せばいいだけの話で、その位置と方角は原野から流刑地の森に入る時点で把握していた。
巨木の根本に到達したルシールを迎えたのは見覚えのある人物である。相手からすれば迎えたというより、偶然出くわしてしまった具合だろうが。
「あんた、また来たのか」
男は以前同じ場所で出会ったときと同様に帯剣している。目付きには警戒心がありありと表れていた。
ルシールはしばし呼吸を整え、厳然と男を見据える。迂遠な駆け引きは必要ない。
「ロゼッタを呼んできて頂戴」
「誰だそれは」
「前にこの森に連れてきた子の母親よ」
「知らん」
この男はロゼッタを知っている。でなければ、彼女にそっくりなイアゼルの顔を見て驚きの表情を浮かべるわけがない。
これ以上、小賢しいやり取りを続けるつもりは毛頭なかった。足元を指差し、脅しつけるように声を低くする。
「さっさと地下から連れてきなさいな。でないと、貴方がたの秘密を全部バラす。地下空間のことも、そこにある転移魔術のことも」
すべてはイアゼルの呟きから導き出した妄想めいた事柄だった。ゆえに、男が首を傾げたなら別の方法に訴えるつもりだったが――その必要はなかった。
「……分かった。なんとか連れてくるが、誰にも秘密を話さないと誓ってくれ」
「ええ、誓うわ」
男はルシールに、森の北東にある池で待っているよう伝え、彼女がその場から離れるまで一歩も動かなかった。おおかた、地下へ入るところを見られたくないのだろう。侵入方法まで特定する必要がない以上、ルシールは命じられた通り北東へと足を向けた。
たどり着いた池は随分と濁っており、蓮の葉がいくつも顔を覗かせている。木々の枝葉の先から、靄を通過した朝陽が曖昧な光を投げかけていた。樹冠の先は前日と違って晴れているようだが、羽虫の飛び交う池の周囲は枝葉の作り出す闇に負けている。池の中心だけが薄ぼやけた光を帯びていて、どこか幽玄な雰囲気を湛えていた。
今頃イアゼルはなにをしているかしら。まだ眠っているかも。早起きの乳母の代わりに、庭師が朝食を持ってくるまで夢のなか。
池に浮かぶイアゼルの面影は、ほんの小さな頃の姿だった。言葉を覚えたてで、乳母を黒百合に喩えた時期だ。
早朝に目覚めて、まだ眠りのなかにいるイアゼルを眺めていたことがしばしばあった。それは、この世の不幸も哀しみも、なにも知らない寝顔で。彼が自然に起きるまで、身じろぎもせず見守ったものだ。そのとき自分は、どんな顔をしていただろう。ロゼッタから奪った大切な時間だということを、ほんの少しでも考えただろうか。
ルシールは目を瞑り、じっと正面を向いていた。
後悔はない。罪悪感もない。それでいいと開き直っている。ロゼッタを連れ出すのも、イアゼルの屈曲した執着を軟化させるための計算だ。自分の地位を盤石にするための手段のひとつ。
でも、本当にそれだけなのかしら。
不意に背後から聴こえた足音で、ルシールの自問は途絶えた。振り返ると、豊かな黒髪を湛え、薄汚れた白の衣服を身に着けた女性が、一本の木に手を添えて立っている。美しい目鼻立ちで、けれども薄幸な印象を拭えない。
「久しぶりね、ロゼッタ」
ルシールの声に、かつての侍女でありイアゼルの母親ロゼッタは、儚げな微笑を浮かべた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『飛行魔術』→肉体に浮力と推進力を与える魔術。制御には高度な技術を要する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた者の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。霧は一定周期で晴れる。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




