幕間.「徒花の蹉跌㉜ ~はじめてのお説教~」
離れへと帰宅して早々、ルシールはイアゼルをリビングに呼び出した。黙して見つめる彼女に、彼はきょとんとしている。首を傾げさえした。挙げ句に「ルシール、どうしたの?」だ。まったく悪びれた様子などない。
イアゼルが自分のことを少しばかり遠ざけようとしていた理由が反抗期などではないことは、ルシールはすでに悟っている。
「イアゼル様。魔術師として弁えておかねばならないことがなにか、覚えておられますか?」
イアゼルの表情が曇ったのは、なにもルシールが普段より冷淡だっただけではないだろう。
「……うん。魔術でひとに迷惑をかけちゃいけない」
「結構です。ところでイアゼル様、最近街に下りましたか?」
「……下りた。ヨームの買い物を手伝いに」
「ヨームさんのお手伝いをなさるのはご立派です。それで、貴方は買い物以外になにかしましたか?」
イアゼルは上目遣いにルシールを窺いながら、しばし口ごもったのちに白状した。
「……魔紋を描いた」
「どんな魔紋ですか?」
「至福充溢……ひとを幸せにする魔紋」
今にも泣き出しそうなイアゼルを見て、ルシールは息を整えた。厳粛な声を崩すまいと。
彼はただ、可哀想なひとを幸せにしてやりたかったのだろう。
「二度と街に魔紋を描いてはいけません」
「……なんで」
「昔、わたくしと一緒に街に下りた日のことは覚えておいでですか? ガラス張りの部屋に行きましたね?」
「……行った」
「あの場所にいた方は、街の権力者です。あの方はイアゼル様の作った魔紋にひどくお怒りでした」
直後、イアゼルが立ち上がり、その勢いで椅子が後ろに倒れた。両手をテーブルに突いて身を乗り出した彼は『信じられない』とでも言いたげな顔である。
これまでの意気消沈と一転した態度は、おそらく彼の勘違いによるものだろう。勝手に魔紋を描いたことを叱られると思っていたに違いない。魔紋の内容自体が問題視されるとは考えてもいなかったからこその、この態度だ。現に、彼は涙を溜めて捲し立てた。
「なんで幸せにするのがいけないの!? 怒るなんておかしいよ! ルシール! それはおかしい! 間違ってる! ひとはみんな幸せじゃなきゃいけないのに、それを邪魔するなんて!」
「イアゼル様の与える幸福が気に入らないひともいるのです」
「それは異常者だ!!」
怒鳴り声が部屋に鳴り響き、余韻を残して消え去っていく。枝葉の囁きが静寂を色濃く縁取っていた。
肩を上下させるイアゼルを、ルシールはじっと見上げる。彼の顔に一瞬だけ表れた怒りは、もはや影もない。今そこにあるのは物憂げな悲哀だけ。
まともに説教をするのはこれが最初かもしれない、なんてルシールは思った。母親の一件を除けば、これまでのイアゼルはおおむね素直だったし、こちらの思惑を悪い意味で大きく外れるような失態はなかったと記憶している。
叱り方が分からないわけではない。彼の信頼を損ねないように説教する方法だって心得ているつもりだ。けれど、それではなんの解決にもならないと分かっていた。分かってはいても、ままならないのが人心なのだろう。
「イアゼル様。誰かを幸せにしようとするお心は立派です。しかし、世の中は色々な人々で成り立っております。わたくしに至福充溢を施したときのことは覚えておられますね? あのとき、わたくしは幸せのあまりなにも出来なくなってしまいました」
単なる演技だったが、イアゼルは気付いていないだろう。実際、こっくりと頷いてみせた。
「全員が幸せになってしまったら、それはそれで悪くないのでしょうが、なにも出来なくなってしまいます。そうなれば街は滅びてしまう。分かりますね?」
「分かる」
「なので、街に魔紋を描いてはいけません。約束出来ますか? 同じことはもうしないと」
「……約束する」
彼が拗ねているのは、至福充溢が不完全な代物だと断定されたからかもしれない。しかし、そうではないことをルシールは承知していた。至福充溢はひとを廃人にするわけではないのは証明済みなのである。頭領の邸からの帰路、路地裏に入って至福充溢にかかった者を見つけ、こう囁いたのだ。貴方に幸福を授けてくれたひとからの伝言です、家に帰って、普段通り生活しなさい、と。すると最前まで廃人同様だった男は、嬉々として歩きはじめたのだ。おそらくは家路についたのだろう。そして家族とこれまで通りの生活を送るはずである。いくらかの綻びはあれど、至福充溢にはひとの行動を操るだけの活かし方があるのだ。今のところ、それをイアゼルに明かすつもりはないが。
しょんぼりとするイアゼルに対し、ルシールは柏手を打った。「お説教はこれでおしまいです」
そして彼女はイアゼルを抱きしめた。少しばかり抵抗されたが、却って力強く抱きしめる。
「お見事です、イアゼル様。至福充溢の魔紋を作り上げるだなんて」
本当のところ、ルシールはずっとうずうずしていたのだ。洗脳魔術の魔紋だなんて、天才的だから。それを魔球ひとつ生み出せない子供がモノにしたなんて信じ難い。けれど事実なのだ。
イアゼルはそれですっかり機嫌を取り戻し、終始ニコニコしていた。約束はちゃんと守るから、と彼自身も口にしていたので、ルシールとしてはひと安心である。
目下の懸案は頭領のことだ。半年以内にどうにか片付けなければならなかった。イアゼルを下手人として突き出すのはありえない。危険に晒すだけだ。まさか殺しはしないだろうが、痛めつけられるのは目に見えている。指の一本や二本では済まない。
なら、頭領ごとやくざ者を一掃するか。これも悪手だろう。仮にもフラティリアの守護者であり、街をほぼ統治しているような存在なのだ。
頭領だけを消したところで、彼の腹心の部下はイアゼルへの恨みを継承する。半年以内という約定を反故にも出来ない。
一ヶ月。それだけの期間ルシールは頭を悩ませたが、結論は出てくれなかった。いっそ頭領に至福充溢をかけてしまえばどうかとも思ったが、洗脳の手続きに素直に応じる相手ではない。魔紋を仕掛けて踏ませる方法も考えたが、そう迂闊な男でもないだろう。手の内を知っているのに引っかかる手合いではない。魔紋を調査した魔術師とやらを今も囲い込んでいると考えるほうが理に適っている。
どうにも手詰まりを覚えつつの日々にトラブルを持ち込んだのは、またしてもイアゼルだった。といっても、今度は他人をどうこうしたわけではない。
「見て、ルシール!」
書斎で頭を抱える彼女に、イアゼルは左手を広げて見せた。満面の笑みで。
言葉が出なかった。頭が真っ白になってしまったのだ。
「約束は破ってないよ! これで、幸せにしたいひとだけ幸せに出来る。だからなんにも問題ないんだ。何人か幸せにしたら解除して、別のひとを幸せにする。そうすればみんな幸せを味わえるし、街が滅んだりもしない」
得意気に話すイアゼルの五指に極小の魔紋が彫り込まれていたのだ。しかも、それぞれ異なった紋様――つまり異なった魔術であることも示している。
それぞれの指がどのような洗脳魔術であるかをひとつひとつ説明するイアゼルの声を、ルシールはぼんやりと聞いていた。山間の部族に伝わる特殊な墨を触媒にして、自ら徹夜で彫り込んだとも話していたが、それどころではない。
「そうまでして、みんな幸せにしたいのですか?」
ルシールは、自分の声が震えているのに気付いた。それが憐れみゆえであることも悟っている。
「うん。だってみんなが幸せなら、ママも安心して帰ってこれるかもしれないから」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた者の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。




