幕間.「徒花の蹉跌㉙ ~至福充溢~」
それからの一年は凪のように平穏に過ぎ去った。イアゼルは十二歳の誕生日を迎え、ルシールは特別にと、空に炎の魔術を展開し、音のない花火を見せた。空に弾ける赤や黄金色、緑や青の光の大輪をイアゼルはいたく気に入ったようである。飛行魔術がそうだったように、自分もやってみたいとはしゃいだものだ。残念ながら、相変わらず魔術の行使に至らない彼には遠い道のりだが。
或る秋の夜のこと。食器を洗うルシールを、イアゼルがちょこちょことつついた。もう立派に大人の姿なのに、やることは子供だ。ちょっとした悪戯なのか、それともかまってほしいのか。
「なんですか、イアゼル様」
「ルシールを幸せにしてあげる」
ルシールは手元を疎かにせず、けれども思わず苦笑した。彼も男の子。色恋に目覚めてもおかしくない年齢――というより少し遅いくらいだが、まさか乳母相手に愛の告白とは。
洗い物が済むまでイアゼルはそわそわと待ち、やがてルシールはリビングの椅子に座らされた。
「ルシール。目を閉じて」
「なにをなさるおつもりですか?」
「少し質問するだけだよ」
なにを考えているのやら、と少々呆れつつ、ルシールは言われるがまま目を瞑った。瞼の裏には永久魔力灯の橙色の光が残っている。
不意に、額になにかが触れた。どうやらイアゼルの指先であるらしい。おそらくは小指。適切な位置があるのか、ルシールの額を探るように動いている。やがて指先は額の中心あたりで動きを止めた。
「ルシール。今から言うことに素直に従ってみて」
「はい」
「一番幸せだったときのことを思い出して」
幸せだったとき。そう言われると困る。幸福な記憶の引き出し自体が少ないし、そもそも幸せの定義がルシールのなかで曖昧だった。おそらくは子供時代、家族に囲まれて憂いなく過ごしていた頃が幸福に相当するはずだが、それを思い出したくはない。だから、イアゼルとの記憶を手繰った。
怖い夢を見たと言って愚図る二歳か三歳のイアゼルをおぶって、こっそり離れを出て夜風を浴びた深夜のこと。イアゼルは拙い言葉で空が綺麗だと言っていた。見上げると星の川が流れていて、本当に美しいと感じたものだ。背中の小さな体温が、その美しさへと続いているようにふと思ったのを覚えている。あの瞬間は幸せと呼んでも差し支えない気がした。
「思い出しました」
「じゃあ、そのときの気持ちまで思い出してみて。今、そのときに戻ったみたいに」
冷たい潮風のなかで見上げる星空。背中の幼い命。守るべき生命が絶景を教えてくれた。あのとき自分はなにをどう感じたのだろう。おぼろげだが、心が透明に澄んでいく感覚だったような。地位にしがみつこうと策を練り、一挙手一投足に意識を注いで生きていた時間。そういうものから束の間解放されたはずだ。
「……そのときの気持ちも思い出しました」
「そのまま、その気持ちに寄り添っていて。ほかのことは考えないようにね。……ルシールは今、その幸せな時間のなかにいる。幸せな時間がもたらした気持ちのなかにいる。その気持ちはどんどん高まっていく。どんどん、どんどん。これ以上ないくらいに」
ルシールはイアゼルの言う通りに、記憶に宿る感情を膨らませていった。どこまでも透明に。透き通ってなにもかも見えなくなるくらいに。
「至福充溢」
聞いたことのない単語が耳に浸透した。
この子は見事だ、と率直に思う。ただし、あまり褒められたものではない。ひとの脳に干渉する洗脳魔術はラガニアの魔術学校では禁忌とされ、口酸っぱく危険性を諭されたものだ。研究は許されているが、濫用は犯罪にあたる。そして当然、脳への干渉を察知した時点で相手の魔術を解除するのは可能だが、そのためには魔術の正体を知り抜いていなければならない。イアゼルの施した独自の洗脳魔術は、ルシールに解除出来るものではなかった。
ルシールはうっとりと目を開け、テーブルに半身を投げ出した。
「どう? ルシール、幸せ?」
「ええ。これ以上ないくらい幸せです。幸せすぎて、動けません。家事も出来ませんね。イアゼル様のお世話も出来ません」
「え、それは困ったな……解除!」
ハッとしたようにルシールは身を起こし、イアゼルに微笑みかけた。
「ありがとうございます。お陰様で幸せになれました。でも、約束してください。その魔術……至福充溢でしたか。ほかのひとに使っては駄目ですよ」
「なんにも出来なくなっちゃうから?」
「いいえ。ひとの気持ちや考え方を変えてしまうような魔術を嫌っている方々がいるのです。バレたら、とっても怖い魔術師に追いかけられてしまいますよ」
びくん、と身を震わせるイアゼルがなんとも素直で面白い。
とはいえ、これはひとつの達成である。労うように彼の腕を取った。
「イアゼル様。貴方は素晴らしい才能をお持ちです。きっと大魔術師になれますよ。ところで、魔球は出せるようになりましたか?」
イアゼルは褒められた喜びを隠すことなく、首を横に振る。
でしょうね。洗脳魔術と一般的な魔術とでは乖離がある。洗脳魔術を行使出来ても、それは魔術を使えることを意味しない。洗脳魔術はその性質上、相手の魔力と自分の魔力を取り結んで、脳の回路にちょっとした変更を加える類のものだ。魔力の操作だけで実現出来る、いわば魔術未満の魔術とも言い換えられる。
ともあれ、魔術的な進歩ではあるだろう。もしこれが本当に洗脳魔術なら。
確かにそれらしい魔力の流れを感じはしたものの、ルシールはちっとも幸せにならなかったのである。つまり洗脳にかからなかった。練度の問題なのか、洗脳の手続きに瑕疵があったのか、はたまたこちらの精神の問題なのかは不明だ。したがってイアゼルが本当に洗脳魔術を使ったと判断出来る要素はなにひとつない。
失敗の経験ばかり積ませるのも忍びなくて、演技したまでのこと。なのに成功を確信しているらしいイアゼルの笑顔に、少しばかり気の毒な感じがした。
だから話をズラそうとしたのだが――。
「イアゼル様。どうして至福充溢を発明したのですか?」
「みんなを幸せにしなきゃ駄目だから。だって、可哀想なままなのは本当じゃない。神様がいないから、本当はみんなどんなことだって出来るし、幸せなはずなんだ。それなのに、みんながみんな可哀想にしか見えない。なにかが間違ってるんだよ。それで、なにが間違ってるのか気付いたんだ。神様がいないのに、みんな誰かを責めたりしてる。責める権利なんてどこにもない。だって神様がいないんだもの! でもそうなっちゃうのは異常者のせいなんだ。本当ならみんな幸せなはずなのに、異常者が神様のふりをしてみんなを責めて、可哀想にしてる。だからみんなを幸せにしてあげて、可哀想じゃなくしてあげなきゃならないんだよ」
いささか陶酔した語りは、ルシールの胸をちくりと刺した。無神論を放置したのは自分。そして異常者というフレーズを彼の頭に植え付けてしまったのも自分だ。彼が港で与太者に襲われた事件は忘れもしない。
可哀想な人々を救うために幸福の洗脳を生み出した。魔術師としては看過出来ない考え方ではあるが、自分には彼を諌めたり軌道修正してやる資格はない。それに、濫りに使わなければいいだけの話でもある。
それよりも気がかりな点があった。
「イアゼル様のお考えは立派です。ところで、イアゼル様は幸せですか?」
「分かんない。きっとそれが分かるのは……」
俯くイアゼルの言葉の続きを、ルシールはじっと待った。
やがて、彼の瞳から流れた雫が床に落ちて砕ける。
「ママに会えたら、分かる気がする」
さめざめと泣くイアゼルを寝かしつけ、ルシールはひとり離れの外に出た。雲間に星が点々と散っている。潮風が髪を乱す。
もしロゼッタに会ったら、イアゼルは自分を捨てるだろうか。いや、そうはならない。あの子の依存ぶりは確固たるもので、どんな揺さぶりにも崩れはしないだろう。しかし、このまま会わずにいれば、母への執着は強くなっていくばかり。それこそ手が付けられなくなるほどに。
ルシールは本邸を睨み、深く呼吸した。
行こう。
流刑地へ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『飛行魔術』→肉体に浮力と推進力を与える魔術。制御には高度な技術を要する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。




