幕間.「徒花の蹉跌㉖ ~決して枯れない冬の花~」
春が訪れ、夏が尽き、秋が去って、冬が来た。おおむね大過ない一年だったとルシールは振り返る。ウィステリアの開墾は順調に進んでおり、分与された領地からの上納品も問題なし。夏に八歳を迎えたイアゼルの成長度合いだけが気がかりといえば気がかりだった。
ルシールはひとり書斎で読書に耽っていたが、目は紙面を滑っていき、一向にページが進まない。よくもまあ、こんな退屈な哲学書に真面目に取り組めるものだと思えて仕方なかった。八歳の子供が読むには過ぎた内容で、大人でもろくに理解出来ないだろう。ルシールはその限りではなかったが、迂遠な論述や解釈の幅がある理論までは把握出来なかった。離れを不在にしているイアゼルの顔を頭に浮かべ、ちゃんと分かって読んでるのかしら、と独白する。以前と比較すると『ルシール、これ教えて!』と言ってくることも随分減った。それとなく水を向ければ彼なりの理解を言葉にしてくれるし、おおむね書物の内容と齟齬はない。それでも、心理学、脳科学、神学まで手広く様々な類書を読破していくイアゼルの姿には少しばかり不安がある。成長自体は喜ばしいが、普通の子供の範疇を逸脱しているように思えた。
魔術においても同様で、知識だけは高度な分野まで頭に入っている。けれども実践となると、からっきし。魔球ひとつ出せない状態で止まっていた。とはいえ、それで魔術の才がないと断定出来るものではない。殊、魔術に至る前段階の、魔力の操作においては奇妙なほど習熟していた。空中に魔力で絵を描くことすら出来る。しかしながらそれを魔術とは呼ばないのだ。イアゼルはその事実に落胆した様子だったが、めげずに魔術関連の書物をひもといて、うんうんと悩んでいる。意欲を保ち続けるのは難しいもので、だからこそ彼の性質は稀有だった。ウィステリアで彼を伴って飛行魔術を実施した際には、目を輝かせたものだ。『ぼくも空を飛びたい!』と。今のところ見込みはないが、長い人生である。彼の生まれ持った膨大な魔力が実を結ぶか、それとも徒花に終わるか、こればかりはルシールにも分からない。
そういえば、と彼女は思う。ここ数週間イアゼルは離れを留守にしがちだ。庭師であるヨームの番小屋に出入りして、なにやらこそこそやっている。小屋に行く際は、決まってルシールは連れて行ってもらえない。仮にも乳母として彼から目を離すわけにはいかないのだが、ヨームと一緒なら文句を言える筋合いではなかった。イアゼルが幼い時分は、領地管理のイロハを学ぶために本邸へ出向き、当のヨームにお守りを代行してもらったのだから。
ルシールは散漫な思考をあえてそのままにして、ぼんやりと窓の外を眺める。レベッカの子供――アルブルの仮初の長男であるブランは、今頃厳しい教育に晒されていることだろう。ときおり離れにやってくるレベッカは相談と称して愚痴やらなにやらを吐き出していくのだが、ごく最近になって、ブランがアルブルから直接領地に関する教育を施される運びになったと聞かされたのだ。かつては乱暴者で、今は癇癪持ち程度に収まったブランは、初等の数学をようやく飲み込んだところらしい。レベッカの話を聞く限り、経済学も地政学も覚束ない七歳の子供である。本来ならもっと成長してからアルブルが教鞭を執るものと聞いていたが、どうも方針転換があったようだ。そこにウィステリアの新制度および、ルシールの存在が影響しているとみるのは妥当である。あの自信家のアルブルから脅威認定されたようなもの。それで鼻高々になるほど彼女は甘い性格ではない。
それはいいとして、レベッカは依然としてイアゼルを避けている。頑なに顔を合わそうとはしなかったし、ルシールもそのように取り計らった。ロゼッタへの憎悪は相当根深いのだろうが、おそらくそればかりではないだろう。彼女が流刑地に追放されたのは彼女自身の愚行にある。だがしかし、いくらか負い目もあるのではなかろうか。本来なら正妻になるのはロゼッタだったはずで、自分はせいぜい側室だったのではないかという憂鬱が、レベッカの顔に時折見受けられた。ほんの少しだけだが。ただ、小さな罪悪感が時を経て巨大なものへと成長していくことはままある。その点、ルシールはロゼッタや侍女を犠牲にしようとした策略にも、ロゼッタの実の息子を育てていることにも、罪の意識は欠片もなかった。罪悪感とはなんぞや。手元の哲学書や、あるいは神学書に書かれているかもしれないが、それで悔悟するような性格ではないのは彼女自身知り抜いている。『だからなに?』だ。
不意に表戸が開く音がしてルシールは振り返った。肩口までの長さの金髪が、ゆるく波打ってイアゼルの顔を縁取っている。母親に似て、本当に美しい。イアゼルは両手を後ろに回して、ヨームと一緒に室内へと入ってきた。
「ルシール、こっちに来て」
「はい」
リビングまで行くと、イアゼルに促されて椅子に座った。彼はなにやらとても嬉しそうな表情である。
「目を閉じて、ルシール」
言われるがまま目を瞑ると、やがてテーブルのうえでコトリと軽い音がした。
「目を開けていいよ」
「はい。――あら」
清潔なクロスの敷かれたテーブルのうえに、口の細い花瓶がひとつ。そこに収まっていたのは一輪の黒百合である。よく見なければ造花と気付けない程度には精巧な品だった。
「お誕生日おめでとう、ルシール!」
満面の笑みで拍手するイアゼルと、不器用な笑顔を作るヨーム。
ここ最近イアゼルがこそこそしていたのは、これのためか、と得心がいった。考えてみれば、自分の誕生日を教えてあげたっけ。イアゼルの誕生日は毎年祝っていたけれど、こちらが祝われたことは一度もなかった。ほかでもない自分が、誕生日を訊かれてもはぐらかし続けてきたのだ。祝われる立場にないのだから。単なる乳母ならまだしも、イアゼルを今でも自分のための道具のひとつと見做していたから。けれども今年の夏に彼の誕生日を祝ったときに、しつこく食い下がられて仕方なしに教えたのである。
「この黒百合、枯れないんだよ」
知ってる。見れば分かる。黒百合は冬に咲く花ではない。
いつだったか、庭の黒百合を指して『ルシール!』と言ったことがあったっけ。頭を垂れた黒百合は侍女服とよく似ている。重苦しい風合いも、毒々しい色味も。
ルシールは立ち上がってイアゼルを抱きしめた。
「素敵なプレゼントをありがとうございます。本当に、本当に嬉しい。大事にしますね」
これがもっと可憐な花だったなら、あるいは全然別の贈り物だったなら、ルシールの笑顔にも少しばかりの困惑が滲んだことだろう。
望外の贈り物に喜ぶ乳母。
ルシールがそれを完璧に演じきれたのは、プレゼントが皮肉の塊だったからだ。もちろんイアゼルは純粋な気持ちで贈ったのだと分かっているけれど。
季節を逸脱した花。枯れることない作り物。決して実ることもない。不吉で厳粛な黒い花は、侍女の、否、私の象徴だ。
書斎の窓辺に置いた黒百合の花瓶は、冬が訪れるたびに一輪ずつ数を増やした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『飛行魔術』→肉体に浮力と推進力を与える魔術。制御には高度な技術を要する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




