幕間.「徒花の蹉跌㉑ ~誰も幸せになれない~」
「まったくもって愚策だ」
フラティリア帰還の翌日、アルブルの書斎へと赴いたルシールは、ウィステリアの一件を委細漏らさず報告した。その結果が『愚策』の一語である。
「なにゆえ愚策だとお思いに?」
ルシールはすっかり馴染みになったソファに腰かけ、対面のアルブルへ問う。問いつつ、ガラス製のチェスを打った。ウィステリアと結んだ新たな契約――主に領地経営者交代制度について比重を置いて話しつつ、語り手のルシールも聞き手のアルブルも淀みなく交互に駒を動かしていた。
「町の境界線拡大に関して、あのエンゾに呑ませたのは手柄だ。これでウィステリアからは三倍の上納品が期待出来る。しかし、競争を煽って上納品を増やそうという目論見は奇手にもほどがある。彼の地の治安を徒に脅かすだけだ。交易の要衝だというのに、掻き乱してどうする。ウィステリアの区域間で血が流れるだろう。果てはフラティリアへの反旗を惹起しかねない」
「内乱の憂いはないとみております。少なくとも、フラティリアに牙を向けることはございません」
「東区域に差し向けた移住者が抑止すると?」
「ええ。東の代表者はフラティリアの守護者の忠臣ですから」
ふん、とアルブルは不快そうに鼻で笑い、ルシールの駒を自軍の駒で蹴散らした。
「仮に短期的に上手くいったとして、数十年先まで安定して収益が出るとは思えん。区域間の紛争が絶えず、開墾どころか荒れ地になるだろうな」
「そのような兆候があれば梃入れいたしますよ、さすがに」
「好きにしろ。だが、ウィステリアばかりにかまけてどうする。イアゼルに分与した領地内の町村はウィステリアだけではない」
むろん、心得ている。だからこそウィステリアに焦点を絞る必要があったのだ。
「ウィステリアからの収益がゼロだった事実は、ほかの町村にも知れております。ゆえに、ウィステリアに痛烈な一打を与えなければなりませんでした。あのまま放置するか、あるいは直轄地にでもしてしまったら、ほかの町村からの収益は激減します。ただでさえ新米の領地管理者なのに、領主はまだ子供で、実権を握っているのが単なる乳母となれば侮られて当然です」
「彼の地へ持ち込んだ混乱で、ほかの町村を萎縮させようと?」
ルシールは肩を竦め、困り顔を繕った。「萎縮と表現してもかまいませんが、わたくしとしては危機感を植え付けたかったのです。下手を打ったらウィステリアのように標的にされかねない、と。そう思わせておけば、収益が増えることはあっても減ることはない。恐ろしい魔女がやってきて災害を起こされるなんて、御免被りたいでしょうから」
ナメられると分かっているなら、徹底的にナメられたふりをして、大袈裟なまでに逆襲すればいい。ウィステリアの動乱は各地に伝わっていくことだろう。加えて、その地の上納品の多寡も注目される。各町村からの収益は秘匿されているわけではない。フラティリアの官吏に申請すればアルブルの許可なしに情報提供される。ウィステリアの上納品が急増すれば、各町村は戦々恐々とするだろう。新領主に目を付けられたら骨まで喰らい尽くされると。
とまあ、そのように恐怖を煽れば各町村の領地管理など放置で問題ない。それぞれの領地経営者との綱引きをする手間がなくなるだけでも随分と面倒が減るわけだ。ウィステリアが壊滅したらしたで、そのときはほかの町村に白羽の矢を立てて損失の補填を考えればいいだけのこと。
とはいえ、ウィステリアが危機的な状況に陥るとは思えない。僻地ならまだしも、交易の結節点がそうそう崩壊するわけもないのだ。なにより、東西南北の代表者はいずれも秀でたところがある。易々と町を傾けるような愚者ではない。その意味では、昨日やり込めたエンゾも抜け目ないと言える。
本邸から離れに帰るところで、ヨームから手紙が渡された。手紙というより、書類の束と呼ぶほうが適切かもしれない。ウィステリアから届けられたそれは、ルシールの仕掛けた上納品競争のルールに関し、微に入り細を穿ち、仮定を列挙した質問の数々。てっきり差出人はエンゾかと思ったが、そうではない。
書類への返答を書き記しているうちに、すっかり肩が凝ってしまった。陽も暮れかけている。本邸のそれと比較にならないくらいささやかな書斎から出ると、勉強机に向かっているイアゼルが目に入った。黙々と読んでいるのは各地の民間信仰の大全である。
「イアゼル様。夕食のご用意をいたしますが、なにかリクエストはございますか?」
反応がない。随分と集中している様子である。文字を追う目が素早く動いたかと思うと、考え込むようにぴたりと止まったりする。やがて、彼の片目から透明な液体が溢れ、雫となってページに落ちた。
「イアゼル様? どうかなさったのですか?」
しゃがみ込んで、ハンカチを涙の轍に押し当てると、ようやくイアゼルはこちらの存在に気付いたらしい。それでも涙が間歇的に溢れている。気付いていないのか、自分で拭いもしないので、ルシールにされるがままになっていた。
「ルシール」
呟いた彼の声に涙の気配はない。本当に無感覚に涙したのだろう。
「はい。どうしましたか?」
「ルシール、ごめんね」
なにを謝っているのだろう。胸のざわつきを感じ、ルシールは涙を拭うのをやめてイアゼルの両手を取った。小さくて、柔らかい手だ。ほんの少し前まで、ふっくらしたパンみたいな手だったのに。子供はあっという間に成長する。血族ならば十歳で成熟期の見た目を獲得するのが通常だ。一部の例外はあるが、イアゼルはそうではない。もう背丈もルシールの肩くらいまである。しかし、内面の成長はそのように急激なものではないのだ。
身体の成長と比して、ゆっくりと、不安定に、心が育っていく。そしてしばしば、奇妙な横道に逸れる。それが一時のものなのか、のちの人生にまで影響をおよぼすものであるのかは誰にも分からない。
「どうしたのですか?」
「前にね、ルシールと約束したこと」
「どんな約束でしょう?」
「神様のこと」
そんな妙な約束しただろうかと訝って、すぐに思い出した。神様の居場所がどうとかいう、そんな約束だ。神様がどこにいるのか訊かれ、ルシールははぐらかしたのである。分からないから、居場所を見つけたら教えてくれるように。
「神様の居場所ですか?」
イアゼルはぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。そうしてこんなことを言ったのだ。
「神様は、どこにもいなかった」
机に積まれた宗教史やら民間信仰の大全やらにサッと目を移す。そのなかに無神論が語られているのはルシールも把握していた。イアゼルが目を通すものは大抵彼女が先に読破し、問題なかろうと思うものだけを与えているのだから。
ただ、無神論にそこまで紙数は割かれていなかったはず。子供の興味を惹くようなエピソードの類もない。
ルシールは思い違いをしていた。彼の言うそれは無神論ではあれど、書物で説かれた既存の信仰を指して言っているのではなかったのである。
「どこにも神様が、書かれてない。だから、きっといない。神様はどこにもいなくて、でも神様がほしくて、神様を作って、神様じゃないものを、神様にしてる。それは、神様じゃない」
イアゼルの思う神がなんなのかルシールには定かではなかったし、彼にも上手く説明出来ないだろう。ただ、なんとなく思考のプロセスは分かった。宗教史や神学、大全の類を読むにつけ、そこにある様々な神のかたち、歴史、信仰模様が、いずれもイアゼルの思う神とは合致しなかったので、存在しないという結論に達したのだろう。
ルシールはイアゼルをやんわりと抱きしめ、「そうだったのですね。教えてくださって、ありがとうございます」と呟いた。
神がいようといまいとルシールにはどうでもいいことで、人生においてまったく関わりがないとすら言えた。イアゼルの健気な発見を否定する気はないが、無神論で納得したならもうそれ以上追求する必要がなくなるので、学問としての宗教から遠ざかってもらえるとありがたいものである。
そのあと、ルシールの胸の内でイアゼルがなにやらもごもご言っていたが、特に聞き返さずに、少年の背中を一定のリズムで叩いてやった。
ルシールの耳には入らなかったが、そのとき、イアゼルはこう言ったのだ。
神様がいないと、誰も幸せになれない、と。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




