幕間.「徒花の蹉跌⑰ ~皿一枚で買えるもの~」
「それでは、お気を付けてお帰りください、奥様」
「ルシールも元気でね」
離れの外では涼やかな風が吹いていて、侯爵夫人と一介の乳母の髪を等しく乱した。
不意にレベッカがハグをしてきたので、ルシールは労るように背中を撫でさする。
「ありがとう、ルシール。頑張ってみるわ」
「心より応援しております」
身を離したレベッカは満面の笑みで去っていった。いささか少女じみた駆け足で。
貸しは作っておくに越したことはない。そんな言葉を内心で呟いた。
レベッカへ提案したのは、大した内容ではない。乱暴な悪戯を繰り返す四歳児を御するにあたって、彼の弱点はすでに察しがついている。アルブルの前では大人しい。つまりお父様が苦手なのだ。あのアルブルのことだ、彼も幼児期の育児に関心はなかろう。ある程度成熟したのち、彼一流の政治を学ばせるに違いない。それまでは家長として、領主として、ある程度は不干渉でいるはず。
ブランの乱暴狼藉はアルブルも把握していることだろうが、ブラン当人はその限りではない。お父様の目に触れないように上手くやっているつもりだろう。特に彼は割れ物を投げるのがお好きらしい。アルブルの大事にしているであろう品には手を付けていないはずだ。特に書斎にあるような品は。
レベッカにはまず、ブランの狼藉を窘めてもらう。このままではブラン様はお父様に叱られる。それは可哀想なのだと。そして、割れ物で怪我をしたら大変だと説かせる。自分はどうなってもいいが、ほかならぬブラン様になにかあってはいけないと。愛しているのだから、と。
当然聞く耳は持たない。お説教なんて鬱陶しいだけだ。ただ、間を置かず事件が起こったら、レベッカの説教の意味も染み入ることだろう。本来はアルブルの書斎にある高級なガラス皿が、普段ブランが獲物にしている侍女部屋の廊下の台座に飾られていたらどうだろう。四歳児に物の良し悪しなど区別がつかない。当然、放り投げて割る。ところで、ブランは皿を奥の間へと続く本館の扉に投げつけるのが大好きらしい。それも、侍女が見ている前でやるのが楽しいようだ。侍女が悲鳴を上げる。腕白少年が割れ物を投げる。粉々に割れる。それが愉快なルーティーン。アルブルお気に入りの皿を手にした少年が、貴重品と知らず、侍女の悲鳴を合図に投げる。悲鳴を聞き届けたレベッカが奥の間から現れる。皿は見事彼女に命中し、床で砕け、レベッカはその上に崩折れる。少年はその瞬間、自分が分水嶺を越えてしまったと悟るだろう。哀れな母は侍女からの治療もそこそこに、痛ましい姿のまま、ブランの手を引いて書斎へ向かう。事の次第を知ったアルブルは激怒するだろう。なぜ例の皿が侍女部屋の廊下なんぞに移動されていたのかをまず追求するはずだ。汚れていたので侍女に掃除を頼んだなどと、それらしい言い訳をいかにも下手くそに並べるレベッカを、アルブルが許すはずがない。まず手が出る。あれはそういう気性の男だ。領地管理の辣腕ぶりとは打って変わって、家庭内の面倒事は暴力か罵倒か、あるいはその両方で捻じ伏せることだろう。
ときに、ブランもお叱りを受けるかもしれない。それはどちらでもいい。大切なのは事後のケアだ。
悄然と書斎をあとにする二人。レベッカは私室へブランを引っ張り込む。多少乱暴にでも。そこで目一杯、ブランの身に怪我がないかどうか検分させるのだ。てっきり母からお叱りがあるものと思った少年は意外に感じるだろう。そして多少なりともレベッカを憐れむはずだ。自分の悪戯で怪我を負わせてしまったのだから。そこで謝罪の言葉が出れば儲けもの。少年を抱きしめて、ちょっと涙声になりつつ、こう囁いてやればいい。
『いいのよ、ブラン。これからもうんと遊んでいいわ。なにかあったら、お母さんが一緒にお父様に謝ってあげるからね。でも、怪我はしないように気をつけなさい。愛する貴方が傷付くなんて、お母さんは耐えられないから』
実際、どうなるかは分からない。ただルシールの読みでは、これで狼藉は減る公算が高い。普段はヒステリックで気難しいレベッカが事件後に殊勝な態度をみせるのも、愛の表明としては上出来だろう。なにより、ブランの心に罪悪感が植え付けられるのは間違いない。皿一枚と多少の怪我でそれらが買えるなら安いものだ。そして皿は自分の懐を痛めて購入したものではない。
ルシールがレベッカ相手に真面目なアドバイスをしたのは、かつて彼女を騙したことへの償いではない。レベッカと芳しい関係を保っておいて、得はあっても損はないのだ。アルブル亡きあと、右往左往するレベッカと無知なブランが領地管理のアドバイスをこちらに乞う可能性が高くなる。そうなれば実質、ルシールはアルブルの後釜に居座るようなものだ。ようやく盤石な地位を手にしたと言えよう。
レベッカを見送って家に戻ると、イアゼルはまだ勉強机に向かっていた。そっと後ろから見ると、書物のページはレベッカが来たときからまったく変わっていない。どうやら、想定以上に彼の関心は訪問者へと向いていたらしい。
「イアゼル様。ひとりにして申し訳ございません」
呼びかけると、彼は少し不満げにルシールを見上げた。微笑み、ベッドまで導いてやる。勉強机よりは座り心地がいいだろう。なにより、彼は隣り合って座るのが好きなのだ。どこであれ。
イアゼルは大人しく座ったものの、ずっと俯いている。
拗ねている彼を抱きしめ、一緒になってベッドに転がった。ちょっとばかり抵抗されたのは、むしろかまってほしい気持ちの表れだ。意固地にそっぽを向いているのも同じ理由。
「イアゼル様。気になってることがあるなら、なんでも聞いてください。わたくしは嘘をつきません」
数分間の沈黙を置いて、イアゼルはぽつりと問うた。
「なんの話してたの」
「あの方のお子様がお皿を割ってしまう癖があるので、どうしたら割らなくなるか、相談を受けていたのです」
「ふぅん」
「そのお子様ですけれど、貴方のお兄様ですよ。お兄様のことは前にもお話ししましたが、覚えておいでですか?」
彼には簡単な説明しかしていない。兄がおり、訳あって別々に暮らしているのだと。なぜ一緒に暮らせないのかは、ちゃんと説明していない。いつか教えてあげますと、いつだってはぐらかしてきた。病だとか、それらしい嘘はいくらでもつけるが、露見した場合に彼の信用を失う恐れがある。なので伏せ続けてきたのだ。
幸い、このときもイアゼルは兄についてそう深く追求はしなかった。ただ「会いたいな」と呟いただけである。
「いつか必ずお会い出来ます。その日まで、うんと賢くならないと、お兄様に褒めてもらえないかもしれません」
「うん」
素直な子だ。次の問いにもルシールは迷いなく返答した。
「あの女のひとは誰?」
「イアゼル様のお母様――レベッカ様です」
イアゼルの憤懣が破裂するのは予期していた。なんで母がいるのにちゃんと紹介してくれなかったのか。なんで先に教えてくれなかったのか。なんで母は自分になにも言わずに去ってしまったのか。
憤りとともに放たれる言葉への対処は、すでに脳内で整えてあった。
しかし、イアゼルはそのいずれとも異なる、ルシールの想定から遠く離れた言葉を返したのである。身を捩り、横たわったベッドでじっと彼女の瞳を見据えて。
「あのひとはママじゃないよ」
ルシールは頭が真っ白になって、なにも言えなかった。脳裏に、髪色以外はこの子にそっくりの顔を持つ、薄幸な侍女の脆い笑みが蘇った。
一週間後、離れの庭先で窓を拭いていると、頭と右の手足に包帯を巻いたレベッカが歩いてきた。満面の笑みである。どうやら万事うまくいったらしい。ルシールは窓の死角に入り、レベッカと自分とを音吸い絹で包み込んだ。
「音漏れ対策はしてあるから、大丈夫よ」と微笑みかける。そんなルシールの手を取って、レベッカはぶんぶんと上下に振った。
「ありがとう! 全部アンタの言った通りになった! アルブル様はお冠だけど、ブランはとっても大人しくなったのよ!」
「それはなにより。でも、油断しないことね、レベッカ。今後もなにかと問題が起こるでしょうから。それでも、愛してあげれば大抵なんとかなるわ」
「ええ、本当に。……ねえ、アンタに恩返ししたいんだけど、出来ることはある?」
いつか然るべきときに恩を返してもらえればと思うものの、今すぐというと、頭に浮かぶのはひとつだ。
「イアゼル様がお兄様に会いたいとおっしゃっていました。それを叶えるのは――」
「無理よ、今は」
真顔になったレベッカに、ルシールもそうだろうなと内心で呟いた。レベッカはそもそもイアゼルを快く思っていないと聞いている。ロゼッタの面影を見てしまうからだろう。ルシールとしても、イアゼルの実の母を毛嫌いしていた。彼女とイアゼルを切り分けていられるかどうかが、自分とレベッカの違いだろう。それゆえ、あまりレベッカを責める気にもなれない。
ただ、伝えておくべきことはあった。
「イアゼル様は気付いてるわ。貴女が自分の母親じゃないって」
「……アンタがなにか吹き込んだの?」
「そんなわけないでしょう? 子供相手だからって、自分が不利になるような情報は絶対に与えない」
「うん……そうよね。確かにアンタは徹底してるはずよ。だとしたら、なんでかしら」
ルシールは短く首を横に振った。見当もつかない。これが子供心の思い違いなら良いのだが、決してそうではないのだと、のちに彼女は思い知ることになる。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『音吸い絹』→音を遮断する布状の魔術。密談に適している。詳しくは『216.「音吸い絹」』にて




