幕間.「徒花の蹉跌⑯ ~奥方レベッカと愛の標~」
かつての侍女であり、現在はアルブルの妻の座を得たレベッカに対し、ルシールは深々と頭を下げた。レベッカの周囲には誰もいない。侍女時代はともかく、妻の立場なら邸の出入りは自由である。敷地内ならば侍女のひとりやふたり連れ歩いてもおかしくない。たとえ庭先だろうと単身で動くような身分ではないのだ。にもかかわらず、彼女はたったひとり。人目を忍んで足を運んだとみるべきか。
「ご機嫌麗しゅう、奥様。わざわざ離れまで足を運んでいただき、恐縮でございます。お呼び付けくださればこちらから参りましたものを。ともあれ、本来なら真っ先にご挨拶すべきでした。今日までの無沙汰を深くお詫び申し上げます」
レベッカの顔を見るのは、脱走未遂の件以来になる。彼女が正妻の地位を得ても顔を合わす機会はなかった。体裁上、アルブルを経由して拝謁を願ってはみたものの、見事に拒絶されたのである。ルシールとしても殊更会いたい相手ではなかったので放置していたのだが、まさか直接出向いてくるとは思っていなかった。
「とにかく中に入れて頂戴」
レベッカはやはり周囲を警戒しているようだった。この場を見られたくないらしい。表情に余裕がない。それ以上に、苛立ちと疲労の入り混じった雰囲気がある。
レベッカを室内に招き、すぐに扉を閉めた。振り返ると、彼女はすでにリビングのテーブルに座している。
寝室のほうからイアゼルがじっとこちらを窺っていた。彼がレベッカに会うのははじめてのはずだ。
レベッカはイアゼルへと視線を向けてから、ものの数秒もしないうちに顔を逸らした。そしてルシールを手招きし、囁きかける。
「あの子をどこかに閉じ込めておいて」
名目上は貴女の子供でしょうに、と思ったが顔には出さなかった。頷き代わりに微笑を浮かべ、イアゼルのほうへと足を向ける。そして彼をリビングからは死角になる位置へとそっと導いた。ちょうどイアゼルの勉強机がそこにある。
「イアゼル様。わたくしは少し大事なお話しをしなければなりません。ひとりでお勉強出来ますか?」
イアゼルは不思議そうな顔をしていたが、抵抗することはなかった。この状況に疑問を持つのは当然だ。彼にとっては見ず知らずの者が家に入ってきたのだから。こんなこと一度もない。殊勝に魔術概論と辞書を開いてみせているが、勉強どころではないだろう。
ルシールはリビングに戻り、紅茶の用意を、と戸棚に手を伸ばしたところでレベッカがまたぞろ手招きした。耳を寄せると「内緒話の魔術ってあるでしょ? それを使って頂戴」との要求。ルシールは大袈裟に宙を手で撫でて、「音吸い絹」と魔術名を口にした。布状の魔力でリビングの一角が覆われる。魔術名の発声も身振りも、本来は不要だ。しかし相手は魔術に疎いレベッカ。大仰なくらいがちょうどいい。
「これでどなたにも会話は漏れません。大声を出しても聞かれる心配はございませんので、ご安心くださいませ」
胸に手を当てて一礼すると、レベッカは深い深い溜め息を漏らした。
「その話し方、やめて。特に、アンタにそんな喋り方をされると馬鹿にされてる気がしてならないわ。侍女だったときと同じように話して」
心外だ。侯爵の奥様相手への言葉遣いとしてはむしろ気安いくらいの気でいたのだが。
ルシールはさして迷うことなく、「分かった。これでいい?」と問うた。そして返事を待たず、再び紅茶の用意に入る。茶葉を用意して魔術でお湯を出し、ティーポッドでしばし蒸す。揃いのカップとソーサーをレベッカの前に、そして自分が座すことになる対面に置く。おまけにヨームお手製のクッキーを皿に盛り付けると、レベッカの対面に腰を下ろした。
明らかに急ぎの用事で来ただろうに、彼女は沈黙を貫いている。というより、なにから話すべきか逡巡しているような様子だった。
一応礼儀として言葉を待ってはみたものの、ここまでなにも切り出してこないなら仕方ない。ルシールから口火を切った。
「脱走事件のことなら、謝るつもりはないわ」きっぱり言うと、案の定レベッカの顔が険しくなった。それでも続ける。「申し訳ないとは思ってる。でも、私はなにがなんでもアルブル様の妻になりたかったの。誰しもそうだったでしょう? とりわけ私は死産したばかり。逆転するためなら手段を選ぶつもりはなかった。たとえ私以外の侍女が全員口封じに殺されようともかまわない。それくらいの覚悟で貴女たちを騙したのよ。結果は惨敗。私だけが煮え湯を飲まされたわけだけど、まあ、自業自得ね」
ちょうどいい温度になった紅茶をレベッカのカップに注ぎ入れ、続いて自分のカップにも注ぐ。
レベッカはなんの躊躇もなくカップに口をつけた。
「もう少し警戒したら? 毒だったらどうするのよ」とルシールは笑う。するとレベッカも、つられて苦笑した。すでに紅茶は彼女の喉を通過している。もちろん毒なんて入っていない。
「確かに、アンタならやりかねない。……脱走の件は許してないわ。許せるわけないでしょ。でも、アンタの言い分はもっともね。みんな必死だった。アンタが頭ひとつ抜けてただけで、それを咎めるなんて出来ない。だから、個人的に許さないだけ。もうどうでもいいけどね」
レベッカの声には敵意の欠片もなかった。むしろリラックスしている。
過去の一件を許すかどうかなど、ルシールにとってはハナからどうでもいい話だ。本題の入るための軽い挨拶みたいなもの。けれど、脱走事件に関して大きな禍根を残していないと知れたのは収穫だ。ルシールの知る限り、良くも悪くもレベッカは嘘をつけない。というより、嘘をついても簡単に見抜ける手合いだ。
「で、今日はなんの用件かしら?」
水を向けると、レベッカは寝室のほうに視線を動かした。そして呟く。「あの子、随分大人しいのね」
「そうね。イアゼル様は大人しくて素直な子よ」
「こっちとは大違い」
レベッカは小さく舌打ちをしてから、一気呵成に捲し立てた。身振り手振りを交えて。
レベッカの息子――ブランは以前から我儘放題だったのだが、このところ悪戯癖がついたらしい。それも割れ物を投げて遊んだりといったような、ちょっと看過出来ないレベルになってるんだとか。アルブルの前では大人しくして、レベッカや侍女相手には容赦なし。勉強なんて一切やらないし、おかげで言葉の覚えも悪い。落ち着きもない。
要するに手を焼いているというわけだ。
空になったレベッカのカップに紅茶を注ぎ入れ、ルシールは「分かるわ」と疲れ顔を繕った。
「嘘よ。だってあんなに大人しいのに」
「今は大人しくなったのよ。小さい頃は本当に大変だった。どうしたらいいのか分からないことが山ほどあって。イアゼル様になにかあったら、私は文字通り首が飛ぶ立場よ。傷のひとつでも大事。しかも手を貸してくれるのは庭師のヨームだけ。随分助けられたけど、それでもなにかあったときの責任は私に降りかかってくる」
「うん……まあ、そうでしょうね」
「この家の角という角に、柔らかい防御魔術を張ったわ。床にもね。今は解除したけど。一歳頃はなにもかも危険ばかり。転ぶだけで死んじゃうかもしれないもの。運が悪ければ、だけど」
レベッカは若干俯き気味にこちらの言葉を聞いているようだった。顔には決まりの悪さがはっきり出ている。
なるほど。この奥方は幼児の世話を侍女に任せきりだったわけだ。
「ブラン様も夜泣きしたかしら?」
「したわよ。そりゃあもう、うるさくてうるさくて……」
「分かるわ。それで、どうやって泣きやませたの?」
「どうやってって……」
「侍女を呼びつけて、泣きやむまで面倒を見させた?」
レベッカはルシールを睨み、「そうよ」と答えた。
「侍女にブラン様を任せるとき、貴女、こう言わなかった? うるさいとか、黙らせてとか」
図星だったのだろう。レベッカは腕組みして「それのなにが悪いの?」と開き直ってみせる。「それが今の滅茶苦茶な悪戯に繋がってるって言いたいわけ?」
ひとは刺激に反応する。傷跡を突かれたら痛いものだ。自然、態度も過敏になる。外傷は撫でても痛いし悪化するものだ。ところが、心の傷はそうではない。触れ方を心得ていれば、それは慰撫となる。
ルシールはテーブルに右手を伏せた。レベッカに差し出すように。
「レベッカ。貴女、自分の子供に愛されてると思ってる?」
「なにが言いたいの? 愛されてるかどうかなんて知らないわ。分かるわけないじゃない。というか、あの子がなに考えてるかなんてちっとも――」
レベッカの言葉が絶える。ルシールが右の手のひらを返したからだろう。焼け爛れた手のひらを凝視している。
「イアゼル様が立てるようになったとき、彼、暖炉に近付いたの。真冬のことよ。ほら、炎って綺麗じゃない? イアゼル様は興味津々だった。あと一歩でも近付けば大火傷。その寸前で、私はイアゼル様を抱きとめたの。左手で彼を抱いて、右手は炉室の煉瓦に突いたのよ。私が叫んだから、あの子、泣いてしまったわ。泣きやんだ頃に爛れた手を見せて、炎がどれだけ危険か伝えたの。そうしたら、私の手を見てまた泣いてしまったわ。でも、二度と暖炉に近寄らなくなった。言葉が覚束なくても、ちゃんと理解してくれたのよ。自分が助けられたことも分かってるのね。ときどき私の右手を見て、目を潤ませたりするの」
「火傷は気の毒だけど、結局なにが言いたいの? 自慢話?」
レベッカの苛立った口調に、ルシールは微笑みを返した。
「わざとなの」
「……なにが?」
「全部。イアゼル様が暖炉に近付くのを私はずっと横目で眺めてた。あわや、というところまで放置して、わざと自分の手を焼いたのよ」
レベッカは自分の口元に手をやり、奇怪なものでも見るように焼けた手のひらに視線を落としている。
「それで恩を売ったってわけ?」
「違う」
「じゃあなによ」
「愛してるって伝えるためよ」
レベッカは唖然とした様子である。ルシールとしては、より厳密な表現があったのだが、彼女相手に使うのはいささか穏当ではない。
なぜ手を焼いたのか。
もとよりルシールにとって愛は、イアゼルを自分の手元に繋ぎ止めておくための必須条件である。だから分かりやすく、何度でも思い出せるよう消えない傷として、自己犠牲の標を刻んだに過ぎない。それが愛の表明だと思うのは相手の勝手だ。しかしながら、爛れた右手が打算の結果だと断ずるような性格にならないよう、慎重に育てた向きはある。
換言すると、ルシールは愛を植え付けるために手を焼いたのである。
レベッカが言葉を失っている間に、ルシールは畳みかけた。
「ねえ、レベッカ。今のブラン様のために私だったらどうするか。興味ある?」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『音吸い絹』→音を遮断する布状の魔術。密談に適している。詳しくは『216.「音吸い絹」』にて




