Side Laurence.「暗渠の谺」
※ローレンス視点の三人称です。
一切が幻覚魔術の産物だと気付いたのは、ローレンスがようやくその魔術を察知したからではない。ありえないことが起きたから、すべて幻なのだと悟ったのだ。
かつてのルイーザが館を修繕した際、そこに強力な魔術を施した。魔物からの襲撃を阻止するための防御魔術である。よほどのことがなければ破壊されることはない。ローレンスの魔術程度では破壊に至らないことは、自身がよく知っていた。だからこそ館の一部が砕けたことで、幻覚魔術にかけられているのだと分かったのである。
ただ、ローレンスの魔力消費は著しかった。彼が次々と魔術を行使したのは事実で、そこにナターリアの姿がなかったという一点が現実と異なっていたわけである。ナターリアの実体は廊下の影から、ローレンスの魔術をじっくりと観察したに違いない。査定のために。
手にしたはずの勝利が空無となれば心折れるものだろう。しかし、ローレンスは違った。まだなにも終わっていないし、終わらせるつもりもない。
「水弾……!」
瞬時に生成した水の弾丸が、悠々とエントランスの中心に歩を進めるナターリアへと接近し――。
顔面に直撃したように見えた。が、彼女は何事もなかったかのようにエントランスの中心まで至ると、立ち止まり、下腹部で手を重ねた。その身体には水滴ひとつない。
魔術の解除。ローレンスがそれに気付いたときには、ナターリアが口を開いていた。
「ローレンス様の魔術は先ほど拝見しましたので、すべて解除可能です。水の魔術はそう複雑なものではございませんので、まだローレンス様が行使していない種類の魔術であっても解除は可能とお考えください」
ローレンスは思わず、階段の手すりを掴んだ。重心のいくらかをそこに分散する。ナターリアが嘘や誇張を口にしていないことは、彼にもなんとなく分かった。
どうしよう。
どうすればいいんだろう。
そんな疑問が頭を支配する。ナターリアと、館の裏手にいる血族をどうにかしなければ、誰かが攫われてしまう。そんな未来は到底納得の出来るものではない。
ローレンスが無意識に親指の爪を噛んだ瞬間、彼の真横を影が通り抜けた。彼とお揃いのローブの下から、ピンクのシャツが覗く。
それは一直線にナターリアへと駆け――。
「ナーゴ!」
ローレンスが叫んだのと、ナーゴがナターリアの腹に蹴りを入れたのはほとんど同時だった。
ナーゴの蹴撃はナターリアに近付くにつれ、冗談のようにゆるやかになっていく。目に見えない強力な抵抗を受けているかのように。
やがてナーゴは弾かれたように足を引き、もう片方の足で顔面に蹴りを入れたが、今度も同じだった。敵の背後に回り込んで放った拳も、身体の側面を標的にした肘打ちも、全部。
「ナーゴ様、でよろしいでしょうか? ナーゴ様の――」
「ナーゴは『様』って呼ばれたくない! ナーゴさんだろ!?」
「申し訳ございませんが、わたくしは身内の者以外は隔てなく『様』を付けさせていただいております。ご理解ください、ナーゴ様」
会話の間にもナーゴの攻撃は続いていたが、有効打はひとつもなかった。見えざる抵抗に阻まれて指一本触れることが出来ていない。
羽根布団。対象を包み込んで衝撃を殺す魔術。ナターリアがナーゴの攻撃箇所にそれを無駄なく展開していることは、ローレンスの目には明らかだった。
「なんで、なんで攻撃、でき、ない!」
「ナーゴ様。気を落とさず聞いていただきたいのですが、ナーゴ様の攻撃はすべて、わたくしの魔術を突破するほどのものではございません。身体能力は高いようですが、一般的な人間の範疇に留まっておりますね」
ナターリアの言葉のあとも何度か攻撃を繰り出したナーゴだったが、無力を悟ったのだろう。息を切らせて数歩後退した。敵を睨む目付きは獰猛そのものだったが、視線や態度でどうにか出来る相手ではないことはもはや誰の目にもはっきりしているだろう。
「さて、それでは――」
言いかけて、ナターリアの言葉が止まる。
そして、右手を彼女へと向けたローレンスへ視線が注がれた。
「……ローレンス様。まだ開けていない引出しを持っておられたのですね」
そう、ローレンスは今まさにナターリアへ魔術をかけたのだ。ナーゴが戦闘している間に、これならどうか、と。
ナターリアに外傷はない。洗脳もされていない。ただ、ローレンスと双方に魔術による繋がりが生まれている。
「これは、感覚共有の類でしょうか」
言って、ナターリアは自分の手をしげしげと見つめたりしている。彼女にも看破出来ていないらしい。
「暗渠の谺……ボクが作った魔術だよぉ」
「それは興味深い。どういった――」
「すぐに分かるよぉ」
ローレンスは手すりを両手で掴み、身体を大きく逸らした。
そして、勢いよく打ち付ける。
なにを。
自分の頭を、だ。
激痛が脳を焼く。視界に火花が散る。
額から血を流したローレンスは、ナターリアの姿を見て思わず口角を上げる。彼女は今しも殴られでもしたかのように額を押さえ、口元を歪めていた。彼女の顔にはローレンスのように傷はついていない。
ローレンスの名を叫ぶ声がいくつか聴こえたが、彼は無視して次の一撃を放った。意識が飛びそうになったが、それでも堪えてナターリアを見やる。彼女はちょうど、よろめいたところだった。
「痛覚の共有……」ナターリアの呟きが、ローレンスの耳に歪んで届く。「そもそも感覚共有は両者で呼吸を合わせて成立させるのが一般的ですが、ローレンス様のこれは強制的な共有ですね。それだけでも評価に値しますが、痛み分けですか」
ナターリアが口にした事実に誤りはない。痛覚の強制。ローレンスが行った魔術は端的にそう言い表せる。
さてもう一発、と身体を仰け反らせた瞬間、全身が柔らかなものに包まれる感触を覚えた。
羽根布団で自傷行為を止めさせる。それがナターリアの出した回答らしい。ローレンスはその魔術を識っている。ゆえに――。
「解除」
ローレンスは羽根布団を霧散させ、頭を手すりに打ち付けた。
彼の自傷を止めようとナーゴが躍起になって身体にしがみついているのを知りながら、それを押しのけて、一発、二発と頭を激突させた。手足の感覚はあやふやで、視界は不確か。耳も上手く機能していないが、それでも声だけはなんとか拾えた。
「ローレンス様。わたくしの羽根布団を解除したのもお見事です。痛みの共有というアイデアも実に斬新。本当に痛いですね、これは。しかし、これではローレンス様が死んでしまいます。血族と人間とでは肉体的な強度に雲泥の差があるのはご承知でしょうか。ローレンス様とわたくしの感じている痛みが同等であることは保証しますが、気絶には程遠い状態です。わたくしとしては、ローレンス様に傷を負っていただきたくはありません。どうか、もうおやめになってください」
ナターリアの声はひどく乱れていた。ローレンスの耳の不調のせいばかりではないだろう。
ナターリアの言葉は事実かもしれない。でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。自分が死ぬよりも先に、彼女の意識を奪いさえすれば。
もう一度、と思って身体を引いたところを、がっしりと掴まれた。三人分の腕で。ルイーザもナーゴも、エリザベートさえ、ローレンスをこれ以上傷付けさせまいと力を振り絞ったのだろう。
ローレンスに抵抗するだけの体力は残っていなかった。意識が朦朧として仕方ない。
「……ご配慮痛み入ります、ナーゴ様、エリザベート様、そしてルイーザ様」
やや落ち着いた調子の、ナターリアの声がする。
「エリザベート様。意趣返しではございませんので悪しからずお聞きください。応接室へご案内いただけますか? ローレンス様の手当ても、お願いいたします」
やがてローレンスの意識は暗転し、なにも分からなくなった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ローレンス』→ルイーザの幼馴染。水魔術や変装魔術、果ては魔道具の作製など、魔術的な才能に溢れた青年。能天気な性格。愛称はローリー。詳しくは『第二章 第六話「魔女の館~①流星の夜に~」』にて
・『エリザベート』→ハルキゲニアの元女王。高慢で華美な人間。ルイーザの母。支配魔術の使い手。詳しくは『174.「ハルキゲニアの女王」』にて
・『ナーゴ』→ローレンスの飼い猫。ペルシカムの領主であるアレグリアに殺されたが、ローレンスとルイーザの作り上げた仮想世界『魔女っ娘ルゥ』で、人型の生命を得た。詳しくは『492.「ナーゴさん」』『515.「幸福のために」』『幕間.「流星の翌日に」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。『針姐』の墨の魔術により全身に縮小した魔紋を刻んでいたが、クロエの持ち込んだ『墨虫』により無力化された。現在は魔力の大部分と記憶を失い、平凡なひとりの少女としてローレンスの館に住んでいる。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』『第二章 第六話「魔女の館」』より
・『水弾』→魔力で作り出した水を弾丸のごとく放つ魔術。詳しくは『Side Sinclair.「信じるための決め事」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『羽根布団』→対象を包み込み、衝撃を緩和させる魔術。詳しくは『Side Alice.「自由の旅のアリス」』にて
・『解除』→魔術を解除する魔術。対象とする魔術の仕組みを熟知していないと消すことは出来ない。詳しくは『479.「ローリー」』にて




