幕間「或る少女の足跡㉕ ~石鹸と、エストックじゃないもの~」
ところで、宿舎生活を送るシフォンは清潔面では完璧と言って差し支えなかったが、コミュニケーションは当然壊滅的だった。大浴場で彼女の傷を目にした同輩の見習い騎士から同情の言葉をかけられても、芳しい反応が出来ず、却って不興を買ったのは言うまでもない。トリクシィに反旗を翻した噂によって、いっときは皆の尊敬を受けたものの、淡白な反応の数々に見習い騎士は失望するばかりだった。それに、おおっぴらにシフォンを認めることでトリクシィに睨まれかねないという恐怖心も手伝ってか、尊崇の眼差しは徐々に減っていったのである。シフォンにとっては些事どころか、極めてどうでもいいことだったが。そもそも、どうでもいいという感慨すらない。
さて、彼女の問題はコミュニケーションだけではなかった。買い物は実に不器用である。宿舎では食事や最低限の日用品こそ用意されていたものの、それ以外の物品は自分でどうにかするほかない。ゼールはシフォンが訓練校を卒業する際に、カトレアとジョゼの用意した金貨をシフォンに渡したものの、その使い方は――彼女の関心の埒外ではあるのの――雑と言うほかなかった。宿舎には常備されていない石鹸を定期的に買い入れる際、シフォンは露天商の男に金貨一枚と吹っ掛けられ、なんの疑いも持つことなく、本来は銅貨一枚程度の価値しかないであろう小さな石鹸に大金を支払ったのである。以来、男から定期的に石鹸を買うことになった。『余所の店の石鹸は粗悪品で、とても石鹸と呼べたものではございません。ここにある品だけが、本物の石鹸なのです』なんて大嘘を鵜呑みにして。木製の歯ブラシも換えどきだったので、同じ露天商から、今度は金貨二枚で買うことになった。無論、それも粗悪品である。こんなわけで、シフォンの懐は少しずつ寒くなっていった。見習いとて騎士である以上、給金はあるのだが、決して多くはない。宿舎での生活費も差し引かれているのだからなおさらである。
そんなおり、夜間戦闘でエストックが破損した。明朝までは、柄だけになったエストックと体術とで凌いだものの、このままでは差し障る。シフォンは任務帰りに武器屋に直行した。エストックを見繕ってもらうためである。
『エストックですね。こちらでございます』
柔和な店主が、注文通りの品をシフォンへと見せる。しかし、彼女は首を横に振った。
『違う。エストックじゃない』
『これはエストックですが……』
『違う』
こんなやり取りが何度か繰り返された。店主が別のエストックを見せても結果は同じだった。しばらく問答を続けたところ、ようやく店主は察したのである。
『つまり、その壊れてしまったエストックとまったく同じものがほしい、と』
『そう』
無理な注文である。グレキランスではひとつひとつの武器を職人が手で打って精製していた。どの武器であろうとも、唯一無二なのだ。
『職人に頼んで修復することは可能でしょうが……以前とまったく同じとは言えないでしょうな。重さや切れ味も、違ってしまうでしょう。柄しかないとなると、なおさらです』
『……』
『どうでしょう、この店のエストックで、お気に召す品をお選びいただいては……?』
シフォンはポーチ――これも例の悪徳商人の手管で買わされた品である――に柄をしまうと、エストックをひとつひとつ手にとって、以前の武器と近い重量と切れ味、柄の質感のものを選んだ。
ときに、この店主は例の商人とは違って実に親切な男である。ゆえに正当な値段でシフォンに武器を売った。それが彼女の手持ち金貨すべてとぴったり一致していたのは、まったくの偶然である。
その帰り道、例の悪徳商人に捕まった。
『シフォン様。そろそろ石鹸がなくなる頃では?』
『そろそろなくなる』
『では、この機会にぜひ、ご購入を』
言って、男はニヤニヤと笑ったのだが、シフォンが文無しと分かるや否や、小さく舌打ちした。そして瞬時に、もとの商売っ気のある顔に戻る。『では、親族からお金を借りるか、あるいは給料を前借りすればよろしいでしょう? きっと、貴女の雇用主も拒絶なんてしないでしょうに』
この小悪党は、シフォンが騎士であることを見抜いてはいなかった。帯剣している以上、近衛兵か騎士か警備兵か察しはつきそうなものだが、どうも見誤っていたのである。金払いの良さと世間知らずぶりから、おおかた貴族の令嬢かなにかで、暴漢対策に帯剣しているだけだろうと踏んでいたのだ。
騎士団本部に戻ったシフォンは、その足で団長室に向かい、ゼールと面会した。そして開口一番『給料の前借りがしたい』である。ゼールが苦笑したのも無理ないだろう。『なにに使うんだ?』と訊ねたのも。
『石鹸』
『石鹸? 石鹸なら銅貨で買えるだろう。なにか大きな買い物でもしたのか?』
『エストックが折れたから、別のを買った』
『予備のエストックなら本部にもあるが……』
『あれはエストックじゃない』
シフォンの謎のこだわりに対して、ゼールはしばし黙考した。武器に並々ならぬ執着を持つ騎士もいる。シフォンもその類なのだろうと自己解決するまで、そう時間はかからなかった。
『……なるほど。だとしても、まだまだ貯金はあるだろう? まさか、銅貨一枚もないなんてことはあるまい』
『石鹸は金貨一枚する』
それを耳にして、ゼールは矢継ぎ早に事の次第を確かめた。そして例の小悪党を成敗し、騙した金を――ほんの一部しか戻らなかったが――取り返し、警備兵に突き出したのである。そしてシフォンに、生活用品の価格の目安を紙にしたためて渡してやった。
つくづく養父失格だとゼールは落胆した。訓練校時代、食料も生活用品も、もちろん石鹸も歯ブラシも、使いの者を通じてシフォンのもとに届けるばかりで、一緒に買い物をしたことなどない。彼女を一時期養っていたジョゼなる男も、シフォンに正しい金銭感覚を身に着けさせることはしなかったのだろう。
落ち込むゼールを意に介さず、シフォンは淡々と話頭を転じた。
『この武器を魔具にしてほしい』
『魔具に?』
『絶対壊れない魔具に』
『それは無理だ。だが、修繕魔術の籠められた魔具に改造することは、おそらく出来る。その程度であれば、重さも含めて、使い勝手も変わらんだろう。金は必要ない。騎士団で賄うべき事柄だ。それまでは予備の武器で凌いでくれ』
『分かった』
シフォンは踵を返しかけ、ふと、団長の机に向き直った。そしてポーチから、柄だけになったエストックをそっと机に置く。
『これを、元に戻せる?』
それを眺めて、思わずゼールは嘆息した。彼女がエストックにこだわる本当の理由もまた、理解したのである。なぜ先ほどすぐに気付かなかったのだと己を叱咤する想いにも駆られた。
彼女を守って死んだ戦士、ジョゼ。おそらくは彼から授けられたであろう武器が、このエストックだったのだ。それも損壊してしまった。柄だけを残して。
本来なら、とゼールは後悔した。本来なら、シフォンが騎士団に入った段階で、これを修繕魔術の付与された魔具に改造してやるべきだったと。改造前と改造後を彼女が同じに思ってくれるかは分からないが、少なくとも、大事な思い出の品が壊れることはなかった。
『すまないが、元に戻すことは出来ない』
『分かった』
シフォンは短く返事をして、柄をポーチにしまった。それきり、ろくに取り出すこともなくなった。
感情も思考もないシフォンには、もはやなんの価値もない代物だったはずなのだが、わざわざポーチにしまったのは彼女自身にも不明だったし、そのこと自体すぐに忘れ去ってしまった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。オブライエンの策謀により逝去。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




