幕間「或る少女の足跡⑧ ~ジョゼ~」
栗毛色の馬に揺られ、夜を駆けていた。真後ろではメアリーが手綱を握っている。
メアリーはシフォンの衣類と数日分の保存食を素早く茶皮の鞄に詰め込むと、有無を言わせず夜闇へ連れ出したのである。鞄はメアリーがこの地にやってくるときに持ってきたもので、今も馬上で彼女が背負っていた。小さな少女の荷物だけを入れるには大きすぎる代物だった。
メアリーはビクターが邸の周囲に施した防御魔術の部分的な解除と修復を、実に慎重におこなった。それで彼が目覚めやしないかと心配だったのだ。しかし、杞憂である。ビクターの施したそれは、自分の無意識下でコントロールしているものに過ぎない。破壊されようものなら話は別だが、慎重を期した解除にはまったく無抵抗だったし、気付くすべもない。あくまでも、対魔物のための防御なのだから当然だろう。彼は翌日の王都行きのため、既にベッドでぐっすり寝入っている。論文提出ごときで緊張するような神経をしていないことは、メアリーにとって幸いだった。
シフォンがメアリーの言う通りにしたのは、別段理由があってのことではない。もしその場にビクターがいて、『行くな』と言われればそうしただろう。なにせ、メアリーの光――魔力はビクターのそれに及びもつかないのだから。
『シフォン、ごめんなさいね。勝手なことをして』
頭上で聴こえるメアリーの声は耳を過ぎゆく風の音と混じって届いた。
『これからあなたは別の町で暮らすの。中途半端に放り出すようなことになってしまって、本当にごめんなさい。……わたしのことは、恨んでくれてかまわないから』
これが逃避行であり、自分を捨てるための旅なのだということは、朧げながらシフォンにも理解出来た。曖昧な言葉から意味を汲み取るのは決して得意ではなかったが、ぼんやりながらも分かるようになったのは大いなる進歩だろう。ビクターがもしこのことに気付いていたなら、感激の言葉を口にし、シフォンの小さな身体を抱え上げ、ぐるぐると回転して笑ったに違いない。
時刻は既に魔物の時間に突入している。周囲でちらほらグールの光――魔物の持つ先天的な気配――が感じられたが、馬はスピードを緩めなかった。進行方向に魔物の姿はない。
『これからは自分で髪を切るのよ。いい?』
頷いた。
『もしも困ったことがあれば、誰でもいいから頼るのよ』
首を傾げる。頼る、の意味するところが広すぎて分からない。しかしメアリーは、シフォンの反応に頓着していないようだった。声が震えている。それが罪悪感からなのか、ビクターへの恐れからなのか、はたまたシフォンを手放してしまうことへの寂しさからなのかは、誰にも分からない。そのどれもが含まれていたとしても否定は出来ないだろう。
『鞄に紙と鉛筆を入れておいたから、話せなくても、それで自分がどうしたいか伝えなさいね』
紙でのコミュニケーションは、メアリーともビクターとも何度かやっている。数える程度だが。紙で伝えるような複雑な物事はなかったし、二人の言葉に反応するなら簡単なジェスチャーで充分だった。
頷く。首を横に振る。傾げる。それで問題なかった。
『……あなたがいると、きっとあの人は駄目になってしまう』
ぽつりと、独白のような声が届く。あの人が誰を指しているのかさえ、シフォンには分からなかった。
『あの人にとって、あなたは希望なの。それは間違いないわ。でも、きっと、それは幸せを意味しない。あの人は一線を越えてしまうし、あなたは……豊かな人生を送れない』
メアリーの言っている意味がまったく分からなかった。シフォンは希望という言葉の語義は知っていても、適切な用法は把握していない。豊か、もそうだ。一線もそうだ。人生も幸せも、ひどく曖昧な言葉だった。
『よく聞いて、シフォン。忘れないでほしいことがあるの。この先なにがあっても』
頷く。聞けと言われれば、聞く。素直でありなさい、と彼女に言ったのが誰だったのか覚えていない。
『あなたは、あなた自身の幸せを見つけなさい。やりたいことでもなんでもいいわ。……今は理解出来なくても、いえ、きっと分からないでしょうけど、これだけは絶対に覚えていて』
無論、分からなかった。この先の自分が覚えていられるかも不確かである。それでも頷いたのはなぜなのか、シフォン自身にも謎だった。
やがて、まばらな林の先に隣町の明かりが見えた。が、そこで馬を停めることはなかった。もっと遠くまで行くのだろう。目指すべき場所がどこなのか、メアリー自身も理解していなかったのではなかろうか。ビクターの手の及ばない場所がどこなのか、彼女にも分からなかったに違いない。
やがて魔物の気配が濃く、強くなった。前方に一頭の巨大な影が現れたのは、メアリーも視認したことだろう。馬を急停止させる。
シフォンはその魔物を知っていた。目にしたことこそなかったが、ビクターから与えられた書物で生態は分かっている。
キマイラ。顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇の、大型魔物。本では、獰猛さが特に強調されていた。グールのように分かりやすい弱点を持たず、生命活動が維持出来なくなる程度の傷――首を切り落としたり、胴を寸断したり――を負わせることでようやく討伐可能とされている。そして特筆すべきは俊敏さだった。馬よりも速い。
メアリーは防御魔術を展開させつつキマイラを迂回しようとしたが、無駄だった。すぐに飛びかかられ、防御は木端微塵に破壊され、二人は地面に投げ出される。馬は胴を裂かれ、間をおかず絶命した。
『シフォン、逃げなさい』
いつの間にかメアリーはシフォンの前に立っていて、有無を言わさぬ口調で命じた。
逃げるという言葉は少女にも分かる。ただ、どこへ逃げていいのか分からない。だから、その命令には従いようがなかった。
『幸せにしてあげられなくて、ごめんなさい』
そんな呟きが、キマイラの咆哮に混じって聴こえた。その声は最前よりもずっと震えていた。月光の下、メアリーの目から流れた水分が涙だということは分かったが、なにゆえそれが流れたのか、シフォンに分かるはずもない。
キマイラの爪が振り下ろされる。
その刹那。
敵の前脚がびくりと蠕動した。そして、キマイラの身体に次々と穴が空く。さながらつむじ風のように魔物の周囲で躍動し、手にした細長い武器で刺突を繰り出し続ける影が人間であることを、シフォンははっきりと目にしていた。その身から溢れた光が、ビクターを凌いでいたことも。
全身を幾度もの刺突で貫かれたキマイラが蒸発するのに、およそ五分程度。その間、シフォンはまばたきひとつしなかった。
魔物が消え去ると、その人はまとまった息を吐き出し、こちらを――メアリーとシフォンに振り向いた。長髪を後頭部で束ね、無精髭を生やした中年の男。あっけらかんとした顔つきは生来のものだろうか。
『怪我はないかい、お嬢さんがた』
男の言葉にメアリーはしばし口ごもっていた。シフォンはというと、一度だけ頷いた。
『あの』メアリーは息せき切った調子で発し、深々と頭を下げる『助けていただいて、ありがとうございます』
『なに、感謝なんてしなくたっていい。キマイラなんて何度も相手にしてる。とにかく、無事でなによりだ』
言って、男は満面の笑みを浮かべた。そこに疲労の色はない。今しも口にしたキマイラの討伐経験は確かなのだろう。その身には傷ひとつなかった。
『……あなたは何者なんですか?』
『そう言われると、ちょっと困るな』男は頭を掻いて斜に天を見上げた。『遍歴の戦士……と言えば格好良いだろうけど、ただの根無し草だ。そこいらの町や村を回って魔物を退治する代わりに、日銭を稼いでるってところかな』
あてのない人生を送る男と、行き場のない少女。このふたつがメアリーにとって結びついたのだろう。『次の行き先は決まっておりますか?』
『いや、特に。なんとなくだが、西の方面へ行こうかと思ってる』
西は、ビクターのいる村とは反対の方角だった。それが決め手だったのかは分からない。メアリーは、またぞろ頭を下げた。深く、深く。地面に跪き、頭を地に付けんばかりに。
『どうか……どうかこの子の面倒を見てあげてくれませんか』
『顔をあげてくれ。……のっぴきならない事情なんだな?』
『はい』
『この子の身寄りは?』
『おりません。わたしと恋人で親代わりをしていましたが……あの人のそばにいると……この子が駄目になってしまうんです』
駄目になる。それについて、男は特に追求しなかった。具体的なところは分からずとも、破滅の予兆を察したのだろう。
メアリーにとって、シフォンを預けるには絶好の機会だった。相手は手練れの戦士で、行き先も申し分ない。今後ビクターと鉢合わせになることもないだろう。なにより、男の親切心はキマイラ討伐の様子にも、その後の態度にも存分に溢れていた。
自分とビクターでは為し得なかった未来。それを彼に見出したに違いない。
『万事、承知した。俺の見る限り、あなたは悪い人ではない。詳しいことは分からんが、深刻な事情もあるんだろう』それから男はシフォンに目を向け、歯を見せて笑いかけた。『心配しなくていい。これからはおじさんが、お嬢ちゃんの仲間だ』
仲間。シフォンにとって不思議な言葉だった。親でもない。助手でもない。そこにはなにか、対等な響きがある。
『おじさんはジョゼって名前だ。お嬢ちゃんの名前は?』
ジョゼと名乗った男は、シフォンと目線の高さを合わせて問う。
『その子、シフォンっていうんです。喋れなくて……。それに、こう言って信じていただけるか分かりませんが……感情もなくて、考えることも、その、出来ないんです』
男は一瞬、呆気に取られた表情をしたが、すぐに平静な顔になった。
『そりゃ、のっぴきならないな。生きづらいことこの上ない』
『ええ……』
『でも、生きてる。それだけでいいんだよ』
一陣の風が吹き、メアリーの長髪が夜に流れた。ぽかんとしたその顔に、涙が一筋伝った理由なんて、シフォンには分からない。おそらくは永遠に。
それからジョゼはメアリーから鞄を受け取り、いくつかの言葉を交わしたのち、いよいよ別れることになった。
『シフォン……元気でね』
メアリーは呟いて踵を返した。そこにジョゼの言葉が追いすがる。
『せめて朝になるまで見送らせてくれ。魔物が出たらどうにもならないだろう?』
彼女は決して振り向くことなく、足を止めることもなく、小さな声で返した。
『魔術師ですから、最低限の防衛は出来ます。……もしどうにもならない魔物に出会ってしまったら、そうなる運命だっただけのことです』
彼女が自分の命を賭けの対象にしていたことは、彼女自身しか知らない事柄である。死んだらそれまで。もし生き延びたら、ビクターに一線を越えさせないよう、命を張る。こんなひどいことがあってなお、彼女は彼を愛していた。どうしようもない感情だと自嘲しながらも、彼の信じる未来も、彼自身のことも、拒絶なんて出来ない。そして、シフォンの代わりになることも出来ない。でも、それでいいのだと信じていた。彼の歯車が狂いさえしなければ、それで。もしシフォンの代わりに実験材料にされたとしても、最期まで愛する人のそばにいられるだけで、哀しいくらい幸福でいられる。
やがてメアリーの姿は夜闇に消えた。シフォンは彼女の後ろ姿が視認出来なくなっても、じっと、果てのない闇を見続けていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。精神は『鏡の森』で生きている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて




