幕間「或る少女の足跡④ ~グール~」
ビクターと暮らしてから二ヶ月が経過していた。相変わらずトレーニングは続いており、勉学も継続していた。ただ、内容は少しずつではあるが変化していた。トレーニングに関しては、持久力を伸ばす方面にシフトしている。何時間懸垂出来るか。何時間走り続けられるか。ビクターは付きっきりで計測し、徐々にではあるが持久力は伸びていた。以前は三十分で息切れしていたランニングも、一時間連続で走り続けることが出来ている。ただ、彼が言うには依然として筋肉は休眠しているらしい。
勉学はというと、魔術理論と魔物の生態学に比重が置かれるようになっていた。いつの間にやらビクターが王都から取り寄せた書物郡で、シフォンの部屋は埋まりつつある。床から何本もの本のタワーが形成されていた。それら全部を読破したわけではないが、ビクターの指示通りの順番で着実に読み進めている。小型、中型、大型問わず、ほぼすべての魔物の習性や弱点は把握しつつあった。
そしてもうひとつ、スケジュールに変更があった。睡眠時間を二時間に削減し、その分を魔物との戦闘に充てることとなったのである。魔物の生態学の応用編とでも言おうか。まだグール以外の魔物と遭遇したことはなかったが、グールの持つ習性や肉体構造は実体験出来た。
『そろそろ、私の研究について話しておこうか』
ある晩、夕食でのことである。ビクターは手作りのスープを口に運んでから、そう切り出した。この地で彼の作った料理は、それがはじめてである。近隣の町で入手した適当な野菜や芋などを、雑に切り、邸にあった調味料をなんとなくの配分で入れ、ぐずぐずになるまで煮込んだ代物だった。壊滅的な味だったが、シフォンはもちろんのこと、ビクターも料理の出来栄えなどどうでもいいようだった。関心の埒外にある物事に対して、ビクターはなにひとつ気にしないのだ。寝癖も直さないし、ろくに顔も洗わない。ただし、シフォンに対してだけは身綺麗にしておくことを厳命していた。当然だろう。彼女は大切な研究対象なのだから。
『私はね』スープをもうひと口飲んでから、ビクターは続けた。『人が魔物に怯えることのない世界を創りたいのだよ』
事実は異なるが、古来より、人の天敵として魔物が存在し続けているというのが一般常識である。ビクターはその歴史自体を疑ったことはない。シフォンはもとより、魔物は存在するのが当たり前という認識だった。感情を失う前もそうである。
『そのためのアプローチはいくつか考えている』
たとえば、と言ってビクターは人差し指を立てた。
――魔物自体の消滅。
――人体の強化により、魔物の脅威を相対的に弱める。
――魔物の攻撃対象そのものを変更する。
『最終的にどの方法にたどり着くかは私にも分からない。ただ、いずれの場合においても魔物の組成を知ることがスタートラインになるのだよ。だからね、シフォン』
今晩から、魔物を捕獲することにしよう。
ビクターのそれは提案ではなかった。命令である。どちらにしてもシフォンにとっては、すべきことさえ決まっていればなんの問題もなかった。是も否もない。
ビクターの話は、詳細へと移っていった。まず、グールの四肢を切断する。これで爪の攻撃に晒されることはなくなる。次に、口枷を嵌めることで牙も封じてしまえる。
『簡単な仕事だ』ビクターは例の鞄から、グールの口蓋を覆い尽くせるサイズのマスクを取り出した。『見ての通り、金属製だ。これをグールの頭部に通し、口を覆ったら、後ろのネジを巻いて締め付ける。簡単だろう?』
経験したことのない物事は、シフォンには判断出来ない。想像力が消失しているからだ。したがって、簡単かどうかなど分からない。ゆえに彼女は黙してビクターを見つめた。
『まあ、やってみなければ分からないだろうな』
かくして、実践することとなった。
まず、現れたグールの手足を切断する必要がある。これまでシフォンは、敵を一撃で仕留めてきた。たとえグールの構造を把握していたとしても、慣れ親しんだ方法以外は往々にして上手くいかないものだ。このときのシフォンも、そうだった。
グールは、お誂え向きに、一体だけ出現した。よろよろと緩慢な足取りでこちらへと迫る魔物へと疾駆し、腕を切断すべく、短剣を振り上げる。
振り下ろされた刃は、見事にグールの左腕を切断した。が、残った右腕により彼女は引き裂かれ、弾き飛ばされたのである。左の脇腹が燃えるように痛む。地を転げた衝撃で脳震盪を起こしかけており、視界が絶えず揺れていた。
シフォンが地面に倒れていたのは、一、二秒のことだったろう。すぐに立ち上がり、グールへと猛進したのである。そして剣を振るったのだが、視界の不確かさのせいか、それとも脇腹の痛みのせいか、刃は魔物の爪に阻まれた。グールが大きく爪を振りかぶると、シフォンの腕から剣が抜け、グールの後方へと落下していく。
間をおかず、爪が振り下ろされた。
七歳の少女は、このとき死を意識しただろうか。否。彼女にあったのは命令のことだけである。彼女が肉片にならなかったのは、そのためだろう。
グールの爪を回避し、その右腕に飛びつくと、彼女はグールの腕に歯を突き立てた。肉を食い進み、骨を砕き、残った筋肉を食い千切った。次に、右足も同じ方法で切断した。もちろん、左足も。
『いい子だ、シフォン。最後になにをすればいいか、分かるね?』
ビクターに渡された口枷を嵌め、ネジを締めた。おおむね上手くいったはずだったが、どれだけ締めればいいのか分からず、彼女はやりすぎてしまったのだ。グールの顎は潰れ、一度大きく痙攣すると、その身は蒸発してしまった。
シフォンの目に、短剣を拾うビクターの姿が映る。彼はそのままシフォンの横を通り過ぎ、彼女から数メートル離れた地点で足を止めた。
『シフォン。次のグールが出たぞ。さっきと同じ方法で四肢をもいでみたまえ』
ビクターの声には、妙な震えが混じっていた。興奮の爆発をなんとか抑えようとしている響きであることを、シフォンは知らない。
次のグールは簡単にはいかなかった。両腕が健在の状態の相手を素手でどうにかするのは難しい。だから右腕に食いついた瞬間には、敵の鋭い爪で背中を裂かれた。それでも食い千切ってしまえば、あとは一体目と同じ要領で四肢を喪失させてしまうことは、それほど難しい仕事ではなかった。口枷の調整も、今度は誤らない。グールを消滅させることなく、生け捕りに成功したのである。当初の計画では、捕縛後にはすぐに邸に持ち帰り、実験する運びになっていた。が、グールをビクターのもとへ引きずっていっても、彼女の仕事が終わることはなかった。
『シフォン。三体目だ。さっきと同じように四肢をもいで、それから今度は、首も食い千切ってごらん』
ビクターの要求は朝陽が昇るまで続いた。つまりは、魔物が自然蒸発するまで。
合計二十二体のグールを、すべてビクターの要求通りに始末しおおせた。満身創痍と言っていい傷を負って。それでも顔にはかすり傷もなかったのは、数奇な偶然だった。
ビクターは、せっかく捕らえた獲物が自然蒸発するのを意にも介さず、多くの裂傷を負って、しかし黎明の光を背に屹立する少女から目を離せなかった。
武器などに頼らずとも、人間は魔物を蹂躙出来る。ほんの子供でも。
シフォンだけが異常な存在なのだということは、彼も重々承知していた。
凡人は、せいぜい未来への礎にしかならない。それでいい。それでこそ価値があるし、愛するだけの理由も生まれる。
ビクターが、曙光を受ける銀髪の少女に見出したのは、未来そのものの姿だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて




