幕間「或る少女の足跡② ~ビクター~」
ビクターと名乗った男は、少女――シフォンが喋れないことをすぐに察したようだった。
『無理に喋ろうとしなくても大丈夫だ』と言って、それから何事か呟いていた。心因性の失語症だの、生来の言語障害だの、発声器官の障害だの。ひとつひとつの単語はシフォンの理解出来るものではなかったが、はっきりしていることがあった。
髭の男は倒された。つまりは、村にやってきた人々は彼よりも強い。なかでもビクターは煌々たる光を放っている。ゆえに、彼が一番強い。
光――すなわち魔力量の多寡で強弱が決まるわけではないことは、シフォンも把握していたはずである。なぜなら髭の男は、母親よりも遥かに微弱な光しか持っていなかったのだから。ただ、このときの彼女は母親のことなど忘れ去っていた。感情と思考を失ったことにより、過去はいくつかの断片として彼女の脳に残っただけである。その破片には、かつて母親がどれだけの光を湛えていたかという事実は含まれていない。
それからビクターは少女の手を引き、村の中心部へと連れて行った。かつて村長の邸宅だった場所である。ならず者に乗っ取られたことでひどく荒れていたものの、村のどの家よりも部屋数は多く、造りも立派だった。木造であることには変わりないが。
邸へと向かう前に、ビクターは『私の言葉は聴こえているね?』とシフォンに訊ね、頷きを得ると、彼女の手を引きつつ、いくつかのことを喋った。
自分は王都の魔術訓練校を出たばかりであること。研究者としての道を歩みはじめたばかりだということ。在学期間中も私的な研究は行っていたのだが、王都の壁外での実地調査は出来なかったこと。したがって理論や仮説ばかりが積み重なり、ろくに検証出来ていないこと。魔物と魔術。主にその二つが自分の研究テーマであること。今後この村で研究を行うこと。村の征伐のために集めた人員はひとり残らず帰らせること。
『君は魔術を知っているかい?』
邸の玄関口で、ビクターはそう訊ねた。シフォンはなんの反応も返さなかった。母親が魔術師として夜に魔物と戦っている姿は、断片的な記憶の一部に含まれている。ゆえにまったく知らないわけではなかったが、どこまで理解していれば知っていることになるのか分からず、肯定も否定も出来なかったのである。
そんな彼女の反応を見て、ビクターはしばし考え込み、やがて視線をシフォンの高さに合わせるようにしゃがみ込んだ。
『君は魔術を見たことがあるかい?』
頷く。
『魔術がどうやって生まれるのか知っているかい?』
首を振る。
『もう一度聞こう。君は魔術を知っているかい?』
無反応。
『なるほど。イエスかノーかで明確に区別出来る質問でないと答えられないわけだね。曖昧な物事や、さじ加減の入り込む余地のある質問だと回答出来ないというわけだ』
無反応。
ビクターは苦笑し、『理解出来ない単語があっても、回答不能になるわけだ』と呟いた。
『仕方ないさ。君はまだおチビさんだ。ここにいた連中は君に知識を授けてくれなかっただろう。……私は違う。君になにもかも教えてあげよう。知らないことの多くをね』
言って、彼は邸に足を踏み入れた。そしてランプを灯し、テーブルへ腰かける。それから、持っていた鞄から大皿を取り出した。それは明らかに鞄のサイズよりも大きなものだったが、ビクターは顔色ひとつ変えない。
シフォンには当然、収納魔術のことなんて知らなかった。
ビクターは鞄から次々と物を出す。いくつかのパン。干し肉。スティック状にカットされた野菜の盛られた容器。
『おや、ドレッシングを忘れてしまった。私としたことが……まあいい。後で仕入れよう。さあ、君も食事にしようではないか。二人で一緒に食べるんだ』
それを耳にして、シフォンは踵を返した。緩慢な足取りで玄関のドアを開け放ち、敷石から外れた地面にしゃがみ込む。後ろで足音がしたのは気付いていた。ビクターが自分のあとを追って家を出たことは、背後に感じる光で分かる。こちらをしげしげと覗き込んでいる様子も。
そんな具合に観察されようとも、シフォンは普段通りだった。土に手を突っ込み、まとまった量を頬張る。五回咀嚼して呑み込む。その一連の動作を繰り返した。
『君』肩を掴まれたので、シフォンは食事の手を止めた。『君の村では、みんな土を食べていたのかい?』
振り返り、首を横に振る。かつての村人も、その後にこの地を支配した連中も、土を食べたりしなかった。
『じゃあ君だけが土を食べていたのだね。……誰かに命令されたのかい?』
頷く。
『毎日、土だけを食べていたのかい?』
無反応。
髭の男は気まぐれに、芋やらパンやらを食うよう要求する日もあった。なので毎日ではない。
『君に最初に教えてあげよう。土は食べ物ではない。……いや、土食文化も地方によっては存在するし、土にまったくの栄養がないわけではない以上、食物ではないと断ずるのは適切ではないが――ああ、すまない。よく分からないことを口走ってしまったかもね。とりあえず、これからは土を食べないでくれたまえ』
頷く。
『土を食べていて、腹痛になったことはあるだろう?』
頷く。食後しばしば、お腹が痛くなる。
『もしかして、今だってお腹が痛くなってるんじゃないのかい?』
シフォンは頷いた。確かに腹痛がある。ただ、それが表情に表れることはなかった。傍目からは、平然としているようにしか見えなかったろう。その点が、青年研究者の好奇心を刺激した最初の一歩だったかもしれない。
『……ひとまず、手を洗って家に入ろうか。そして、私と同じように食事をしたまえ』
『美味しいかい?』
食事中、ビクターは何度かそう問いかけた。その度にシフォンは咀嚼を中断し、彼の目を見て、首を横に振った。同じくらいの回数、『美味しくないのかい?』と問われたが、それにも同じ反応を返した。
『味は感じる?』
それにも首を横に振る。
そんな彼女の反応を見て、ビクターは落胆するどころか、ますます興味の度を強めていくようだった。好奇心に染まった瞳を、しかしシフォンはどのようにも感じ得ない。
テーブルの品々がすっかり片付くと、ビクターは満足そうに長く息を吐いて、シフォンを眺めた。
『君のご両親はどこにいるのかな?』
無反応。
母親が死んだことは知っている。父親が死んだことも、髭の男が何度か口にしていた。ただ、死者がどこに行くものなのか彼女は知らない。
『よし、ひとつ決め事をしよう。分からないことがあれば、首を傾げること。いいね?』
頷く。
『よし。それでは質問を変えよう。君のご両親は生きているかい?』
首を横に振る。生きてはいない。
『親戚はいる?』
首を傾げる。両親の親族の有無をシフォンは把握していない。実のところ父親には兄がいたのだが、放浪の身であった。父は王都の出身者で、たまたま訪れたこの村で母親にひと目惚れしたのである。故郷に戻ることはなかった。父の両親は、彼を魔術訓練校に入れてから間もなく病で息を引き取り、兄の行方は知れない。
父の兄という人物に少々踏み込んで語ろう。彼は弟である父と同じく魔術訓練校に通っていたが、自主的に退学した。魔術師として充分過ぎるほどの魔力を備えていたにもかかわらず、それを魔術として顕現させる才がなかったというのが世間的な評価である。退学した彼に失意があったかは、彼にしか知りようがない。ただ事実だけを述べると、彼は弟になにも告げずに王都から離れた。その後しばらくの間、ある魔術師のもとで過ごし、以降は護身用の武器ひとつで外の世界へと旅立ち、生きて故郷の土を踏むことはなかった。
さて、ビクターとシフォンとの対話は順調に進んでいた。親戚の有無は知らないが、シフォンの知る限りにおいて、その存在は耳にしたことがないことまで聞き出すと、ビクターはにっこりと微笑んだ。
『つまり君は、おそらくは天涯孤独の身である可能性が高い、と。世に数多いる孤児のひとりだね。心配しなくていいよ。これからは私が君の面倒を見るからね。それに、いつまでも二人きりってわけでもない。一年もすれば私の恋人がここにやってきて、一緒に研究をすることになっているんだ。私のひとつ下の学年でね、まだ魔術訓練校を卒業していないんだよ。なに、留年の懸念はないさ。優秀だからね』
だから、それまでは二人きりで生活することになる。
ビクターはそう言った。もちろん、シフォンの反応はない。ただ、なにひとつ聞き漏らすことはなかった。
『今は理解しなくていいんだけどね』ビクターは少女から視線を外すことなく、自分の両手をテーブルの上で組み合わせた。『私が君の心を正常にしてみせる。笑ったり泣いたり出来るようにね。それと、喋れるようにもしてあげるよ。勉強だって、いくらでも教えてあげるさ。私はね、魔術や魔物の研究と同じくらい、心に病を負った人の助けにもなりたいんだ』
これは、本心である。ただ、魔術や魔物への興味よりも強かったかというと、そうではないだろう。ならず者にひどい扱いを受けて心が壊れてしまった少女を前にして、憐れみの念が暗示的に誇張されただけのことである。
現に、彼の化けの皮は簡単に剥がれた。
シフォンを身綺麗にするために、汚れた服を脱がし、全身に負った異常な傷の数々を検分するにつれ、ビクターの好奇心の歯車が徐々に回転を速めたのである。土食だけでも異様な虐待だったものの、顔に傷はなかったので、物理的に痛めつけられていたにせよ程度は低いと考えていたのだ。
『百から先は数える気にもならないな。傷の上に傷があるものだから、正確に数えるのも無意味だ。しかも、これは生涯消えない。断言出来る。ただ、随分と器用にやったもんだ。絶対に死なないぎりぎりの範囲で痛めつけてある。そのくせ顔は綺麗なものだ。偏執狂だったんだな、きっと』
ひとしきり呟くと、ビクターはシフォンと目を合わせた。彼が検分している間、彼女は身じろぎひとつせず立ち尽くしていた。
『傷つけられたときは、痛かったかい?』
頷く。
『これは』と言って、ビクターは彼女の腕をつねった。『痛いかな?』
頷く。
『そうか』
ビクターは、妙な笑い方をしていた。それからすぐに真顔に戻ると、井戸から汲んだ冷水を魔術で温め、シフォンの身体をすっかり清潔に洗ってやった。頭のてっぺんから足の先に至るまで。そして彼は、自分の持ってきた着替え用のシャツを器用に裁断し、縫い合わせ、新しい衣服として少女に着せた。それからシフォンをしばし外で待たせ、邸宅内を徹底的に掃除したのである。無論、魔術を用いて時短しつつ。
一時間もすると、邸は見違えるほど清潔な空間へと変貌していた。木造であることに変わりはないが、埃ひとつない。
ビクターに招かれて、シフォンは小部屋へと案内された。ベッドと木机と椅子があるだけの、ささやかな部屋。
『今日からここが君の部屋だ』
それと、とビクターは続ける。
『この先一年、つまり、私の恋人がやってくるまで、私と過ごした日々のことは絶対に内緒にするんだよ。いいね? 誰にも言っちゃいけない』
疑問の余地はなかった。正確には、シフォンには物事を疑問視する能力が欠けていた。だから、頷きひとつを返す。
ビクターは満足したのか、両手を広げて天を仰いだ。
『私は君を祝福する。君は必ずや、人類の礎になってくれるのだから。ゆえに、君を全力で愛そう』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔術訓練校』→王都グレキランスで、魔術的な才能のある子供を養成する学校。魔具訓練校とは違い、卒業後の進路は様々




