120.「契約終了」
殺風景な部屋。素っ気ない天井。ほんの少し、埃の臭いが鼻につく。窓は隣の建物に遮られている。陽の光が届かないために、薄暗く湿った雰囲気だった。
陽が昇ってから眠るには丁度良いかも、と言い聞かせる。
先ほど広間を出てからトラスに出くわしたので水を浴びられないか聞いたところ、浴室を案内された。律儀なことに着替えまで用意してくれた彼には感謝している。惜しむらくはぶかぶかの粗野な服だということだが、贅沢を言える立場ではなかった。案外綺麗な浴室でさっぱりと身を清め、部屋まで戻ったという次第である。
ベッドに寝転んで、これからのことを考えた。
昨日の一件で女王への謁見がご破算になってしまった。加えて貧民街区の警備により、ドレンテたちの住処から離れることも出来ない。
一歩進んだと思ったら三歩戻っていた。そんな徒労感が頭をぐるぐると回る。ヨハンが知ったら呆れられるだろう、きっと。
ともあれ、過ぎたことをくよくよと悔いても仕方ない。タイミング次第だが、予定通りハルキゲニアを抜けて海峡を渡り、『鏡の森』を越えよう。その先に待っている岩山はどこかに抜け道があるはずだ。王都を追放されたであろう女王が『岩蜘蛛の巣』を抜けてこの魔術都市に辿り着いたのなら、必ず道は続いている。
気まぐれに手のひらを天井に向ける。
掴めなかった勝利についての記憶が頭に広がった。
魔球の使い手『白兎』。天の階段で宙からの攻撃を仕掛ける魔術師。それと、ナイフの魔具使い『黒兎』。爆発魔術の使用者『グレイベル』。そして騎士団長ということ以外には情報がない『帽子屋』。禁魔術支配魔術を会得している『女王』。
他にも脅威は存在するかもしれない。レジスタンスが対抗出来る相手なのだろうか。
わたしが把握している限りでは強者と言えそうなのはレオネルくらいだ。あとはヨハンだが、彼は意識を取り戻すかどうかといった瀬戸際に立っている。立ち塞がる壁は厚く、とてもじゃないが打ち壊せるとは思えない。
だったら、わたしが――。
ため息をつき、目を閉じた。目的を忘れてはいけない。どんな状況にあっても一直線で王都を目指さなければならないのだ。
けれど真っ直ぐに進んだところでニコルや、彼の仲間に勝てるのだろうか。
いや、違う。勝ち負けを想像して歩みを止めてはいけない。こうしている間にもニコルと魔王は着実に魔の手を広げている。たとえ命を投げ出すことになっても食い止めなければならないのだ。
まどろみが訪れ、わたしの意識はゆるゆると溶けていく。思考のまとまりが欠け、暗い穴に落ちていく。
暗くて、寒い。
それは、きっと――。
水面から上がるように、わたしは飛び起きた。呼吸が上手く出来ない。自分の身を抱いて、深く短い呼吸を繰り返した。頭の奥が痺れるような痛み。
徐々に呼吸が収まり、全身が落ち着きを取り戻していく。
そして段々と、自分が情けなくなってきた。
とびきり嫌な夢を見ると決まって跳ね起きてしまうのだ。そして軽い錯乱状態に陥り、現実の空気を吸って吐くうちに自分に帰る。夢を海と喩えるなら、それに溺れているようなものだ。
部屋は暗く、人の気配はなかった。窓外にも灯りはない。
夜まで寝ていたということだろう。いくら疲労が溜まっていたとはいえ、騎士らしくない。
立ち上がると全身にぎこちなさがあった。『白兎』戦で傷付いた身体は恢復の途上にあるのかもしれない。鈍痛がないという事実を喜ぶべきなのか、あるいは逆に警戒すべきなのか分からなかった。激痛が訪れる前触れのようにも感じたからだ。
伸びをすると、脇腹が針で突かれたように痛む。
喉の渇きを感じて部屋を出ると、巨大な影が目の前に現れた。
「……トラス。あなたとは不自然なくらいよく会うわね」
言うと、髭面の大男は全力で否定した。ぶるんぶるんと首を振る。「いやいやいや、偶然だぜ! 俺は暗がりで待ち伏せする趣味なんてねえよ」
「まあ、信じるわ」
トラスはほっと肩を落とした。直後、またも豪快に首を振り、わたしの両肩を掴む。「違うんだ、クロエ! あんたを呼びに来たんだよ!」
「分かった分かった。だから突拍子もなく肩を掴むのはやめて頂戴」
彼はパッと手を離す。割と素直なところはトラスの美点だろう。
「悪かった! 気分が上がるとついつい大袈裟になっちまうんだよ」
大袈裟じゃないトラスを想像して思わず笑いそうになった。隅っこでしゅんとしている姿はあまりにも似合わない。
「それで、どうして呼びにきたの? 珍しい虫でも見つけたの?」
「そうそう! 台所にデカい団子虫がいたんだ! ……って、違う違う! そんなことじゃねえよ! 団子虫がいたのは本当だけどよ! それだけじゃねえんだ!」
デカい団子虫を見つけたから、という理由でいちいち来られたら困る。子供か。
「虫はどうでもいいけど、なにがあったの?」
「いいから来てくれ!」と言い残してトラスは先へ行ってしまった。全く、竜巻みたいな男だ。
彼のあとをついていくとヨハンの部屋が開いており、灯りが漏れているのが確認出来た。トラスは部屋の前で止まり、中へ入るようにジェスチャーをした。
部屋に入ると、思わず足を止めてしまった。半身を起こしたヨハンと目が合ったからだ。
その瞳には生命の色が宿っている。
恢復したのだ。ようやく。
ヨハンの口元がニヤリと歪む。
「お久しぶりです、お嬢さん」
すっかり聴き慣れた声。見慣れた表情。ああ、いつもの骸骨男だ。油断ならない雰囲気を持ち、謎や秘密をいっぱいに溜め込んでおり、妙なところで優しくなる。途方もなく厄介な同行者ヨハン。
「随分野暮ったい服を着てますね」
「う、うるさい! トラスに借りたのよ」
良かった。
「そうですか。似合ってますよ」
「馬鹿にしてるでしょ?」
良かった。
「私はお嬢さんを馬鹿にしたことなんて一度もありませんよぉ」
「はいはい。口は随分と元気なのね」
本当に。
「身体も頭も、お蔭様で健康そのものです」
「そうかしら。不健康な顔付きをしてるわよ」
本当に、本当に。
「生まれつきですよぉ。全く、心外ですなぁ。お嬢さんは相変わらず容赦ないですねぇ」
「そうよ。遠慮なく進むのがわたしだもの。生まれつきの性格ね」
本当に、良かった。
「猪突猛進、ってことですな。猫の次は猪ですか。クロエにゃんは随分と動物がお好きですね」
「にゃんにゃん言い出したのはあなたでしょ。相変わらず口が減らないのね」
本当に、本当に、良かった。
「……ええ。私は相変わらずです。幸いなことに、ね。お嬢さんもご健在でなにより」
「どういたしまして……」
生きていてくれて、いつものヨハンに戻ってくれて、良かった。
行きずりの同行者には違いなかったけれど、起伏の多い旅を乗り越えたのだ。困難な場面で何度も助けられた。意固地になったわたしに付き合ってくれた。
八日間。日数にするとその程度だ。なんて刹那的で、波乱の多い道中だったろう。
「お嬢さん」とヨハンは急に真剣な口調になった。
真っ直ぐに彼を見据える。珍しく引き締まった唇と表情だ。
「なに?」
テーブルの上に置かれたランプの灯心が、じりりと小さな音を立てた。壁掛け時計の秒針が鳴っている。外は風が強いのだろう、建物を通り抜ける笛のような音がした。沈黙は流れ、夜闇に溶けていく。
「お嬢さん。ここまでどうもありがとうございました。我々は助け合い、ハルキゲニアに到着しました。『魔の径』ではお嬢さんの力がなければ今頃……」
言いかけて、彼は首を横に振った。それは自分自身に言い聞かせるような仕草だった。
「いえ、恩義について云々言うのはやめましょう。私がおこなったことも、お嬢さんがしたことも、全てはギブ・アンド・テイク。ともかく、私たちは目的地に辿り着いたのです。つまり――」
不意に、ランプの灯が消えた。油か灯心が尽きたのだろう。
唐突に訪れた暗闇の先から、言葉が届いた。
「契約終了です」
複雑に押し寄せる感情を必死で抑えつけ、わたしはただ「ええ。ありがとう」とだけ呟いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『トラス』→レジスタンスのメンバー。髭面で筋肉質。豪快な性格。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。クロエは『鏡の森』へと続いていると推測している。初出は『110.「もしもあなたがいなければ」』
【改稿】
・2017/10/19 魔法都市→魔術都市




