Side Sinclair.「亡骸の地に銀の影」
※シンクレール視点の三人称です。
包帯を解くと、これでもかというほど詰め込まれた薬草がぼろぼろと地面に落ちた。患部の様子を見たいと言ったシンクレールに、クラナッハが手を借してくれているのである。リリーはというと、細かく砕いたビスケットを青年の口に運ぶ仕事に精を出している。シンクレールとしては多少の照れ臭さがあったものの、空腹ゆえ断る理由はなかった。それに、ちょこちょこと指先を差し出すリリーが心底嬉しそうな顔をしていたので、彼は胸を撫でおろすばかりだった。もしお世辞で『両手の使えないシンクレールには、ワタクシが食べさせてあげてもよくってよ?』と進言したのなら、申し出を受け入れたことは却って失礼だったかもしれないなどと考えていたからだ。
「痛くねえか?」
両手の薬草をすべて取り払ってから、クラナッハは心配そうに上目遣いでたずねた。
「いや、大丈夫。おかげで痛みはすっかりないよ」
緑の汁にまみれた両手を見つめ、シンクレールは二人に気付かれないように奥歯を噛みしめた。十本の指先には、火傷に似たひりつく痛みが残っている。しかし、それはあの拷問中の痛みから考えれば無に等しい。シンクレールが苦悶を感じたのには、別の理由があった。
爪がない。
指先の皮膚は無数の皺が出来ており、濃い茶色に変色している。まるでクルミのように。
おそるおそる地面に触れた瞬間、背筋に嫌な冷たさが広がった。分厚い手袋をしているみたいに、感触に膜がある。検分するに、末節から先の感覚がないようだった。
「……本当に大丈夫か?」
クラナッハの声がして、ハッと我に返った。二人とも眉尻をカーブさせ、不安げな表情である。
「大丈夫。全然平気さ。見た目はアレだけど、そのうち良くなるよ。心配してくれてありがとう」
指先に薬草を貼り付けて、今度は指のかたちに沿って包帯を巻き直した。
「さ、シンクレールも目覚めたし、安全な場所に移動しようじゃねえか」
「ワタクシが作った地下が安全じゃないって言うの!?」
「い、いや、そういうわけじゃねえよ」
「そういうわけじゃないならどういうわけよ! 失礼しちゃう!」
相変わらずの二人に、シンクレールは思わず笑みをこぼした。どこであろうと、どんな状況であろうと、二人はこんな感じでいてくれればいい。心からそう思ったのは、樹海での出来事が頭にあったからだろう。クラナッハもリリーも、その地で危険な目に遭い、ひどく傷付けられたのだ。そのぶん、平穏で幸福な日々を送る権利があると、シンクレールは素朴に信じていた。
とはいえグラキランスは今、どこであれ危険地帯と化している。
「二人ともありがとう。本当に感謝してる。だから、二人とも樹海に戻って欲しい」
「ハァ? なに言ってるの!? ワタクシはシンクレールを助けるために遥々ここまで来たのよ!」
「うん。それは本当に嬉しいよ。現に、こうして助けてもらった。二人がいなきゃ今頃……」
殺されていた。気絶間際の記憶はほとんど痛みに塗り潰されていたが、シャンティが殺意を持っていたのは間違いない。少しばかり残虐な嗜好で楽しんだのち、命を奪う算段だったのだろう。なにしろ彼女の秘密を看破してしまったのだから。生かしておくわけにはいかない。
「そうでしょう? ピンチに駆けつけたワタクシは、つまり、シンクレールにとって必要な存在というわけよ!」
「そうだね。でも、どうしても駄目なんだ。ここは危険すぎる」
もし、シャンティに見つかったら。
考えるだけで、シンクレールはゾッとした。自分が殺されるだけならまだしも、リリーとクラナッハも無事ではいられないだろう。なにせ、秘密を知った相手と一緒にいたのだから。
シンクレールにとって、最大の脅威はシャンティだった。シフォンが血族を裏切り、彼女を瀕死に追い込んだ顛末は知るところではない。
だからこそ、次の瞬間クラナッハが口にした言葉に、おや、と思ってしまった。
「でもよ、今は安全だと思うぜ。昨日までは阿鼻叫喚、って感じだったけど、丸一日くらいずっと静かなままだ」
「前線基地の状況を知ってるのか?」
「知ってるって言えるほどじゃねえけど……」クラナッハは頭を掻き、深いため息をついた。「なぁ、知らねえほうがいいぞ」
小高い岩場の上、夕陽に照らされた一帯を見下ろし、シンクレールは絶句した。生乾きの血の海が、谷底のあちこちに広がっている。死体の残骸が蠢いているように見えるのは、細かな生き物が生存本能に従って食欲を満たしているからだろう。リリーに頼み込んで高台まで移動してもらったことに悔いはないし、地獄のような光景であれ現実は正しく認識しなければならないと分かっていても、不快感が胃の底からせり上がってくる。足が震える。耳鳴りがする。平衡感を失った身体が毛むくじゃらの腕に支えられた。
「な? 知らねえほうがいいって」
「いや……知るべきことだよ。……ありがとう」
不意に、シンクレールの左手がきゅっと握られた。見ると、リリーが谷を俯瞰しながら口を真一文字に結んでいる。その目がどんどん潤いを増し、下瞼に液体が溜まっていった。彼女の涙は、しかし、流れる寸前で留まっている。
「こんなの、間違ってる」
リリーの声はピンと張り詰めていた。呼吸の間隔が速く、そして深いのは、目の前の光景に対する拒絶反応の一種なのだろう。
誰も殺さない。そんなリリーの信条と、目の前の現実とが、今激しくぶつかり合っているのは明らかだった。
命を奪うことに対する強靭な抵抗は、シンクレールも樹海で味わっている。自分を精神的にも肉体的にも追い詰めた相手――ハンジェンさえ、彼女は生かそうとしたのだ。ここにある戦争の現実を、きっと彼女は何年経っても鮮明に思い出すに違いない。そのときのリリーが果たして今と同じように、強い嫌悪感と意志を持って『間違ってる』と言えるのかどうか。そうであってほしいな、とシンクレールは内心で呟いた。
「生き残ってる人間は……?」
そうシンクレールが問うと、クラナッハは首を横に振った。「オイラの知る限りは、いない」
「じゃあ、血族は王都に向かったんだな」
敗北の二字が痛みを伴って胸で疼いた。が、クラナッハはまたしてもかぶりを振る。
「この場所から離れた集団はいねえな。オイラも四六時中監視してたわけじゃねえから正確には分からねえけど、固まって離れてく奴らがいたら分かる」
「それじゃ、血族は……」
クラナッハは一瞬だけリリーを見たが、やがて決心したように「人間と同じ末路だよ」と呟いた。
相討ちと考えるには、あまりに戦力差がある。そもそも集団戦において敵も味方もすべて屍になるということがありうるのか、甚だ疑問だった。ただ、クラナッハを疑う気もない。高台からは王都へと向かう街道が平坦に伸びていて、人影があれば気付くだろう。ましてや集団で王都に向かったとなれば、見逃す確率は低くなる。
疑問が膨らんでいくなかで、シンクレールの頭にふと、ある言葉が浮かんだ。
第三勢力。
しかし、そんなものがあったとしても、やはり前線基地から脱出すればクラナッハが捕捉するはず。
「もしかして、まだ谷に――」
血族も人間も殲滅した何者かが、いまだに谷に留まっている。クラナッハも前線基地のすべてを確認したわけではない。あくまで高台から観察していただけのことだ。谷の内部ならいくらでも潜伏出来るだろう。
我ながらおぞましい考えだと思い、シンクレールは首を横に振った。
その瞬間である。
「あ!!」
リリーの声が弾けた。嬉々とした音である。
彼女の視線をたどると、岩場を真っ直ぐにこちらへと歩んでくる人影がひとつあった。夕陽を背負った姿に、シンクレールはしばし呼吸が止まった。
「ちょ、なによ、シンクレール」
「リリー、クラナッハ。すぐに地下に潜ってくれ。早く。あれが来る前に」
ただ事ではないと感じたのか、リリーはすぐさま『陽気な浮遊霊』によって地下への道を作った。
「どういうこと……? せっかくの生存者が――」
「リリー。説明はあとだ。僕が指示する通りに進んでくれないか?」
シンクレールの心臓は、地中に潜っても早鐘のように打っていた。先ほど目にした少女の姿が目に焼き付いている。
外側にハネた銀の髪。
人形のような無表情。
針状の剣。
そのすべてが返り血に染まっていた。
ここが戦場である以上、返り血程度珍しくはない。が、その少女の正体を知っているがゆえ、彼女のまとった血が特殊な意味を持つと悟ってしまったのである。
「もしかして知ってるのか? さっきの人間のこと」
クラナッハの問いに、シンクレールは短く頷いた。
「……嵐のシフォン。勇者の右腕だ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『クラナッハ』→灰色の毛を持つ獣人(オオカミ族)。集落には属さず、『黒の血族』であるリリーとともに行動していた。気さくで遠慮がない性格。二度クロエたちを騙しているが、それはリリーを裏切ることが出来なかった結果としての行動。可哀想な人の味方でいたいと日頃から思っている。詳しくは『613.「饒舌オオカミ」』『650.「病と飢餓と綿雪と」』
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ハンジェン』→リリーに仕える壮年の『黒の血族』。言葉遣いは丁寧だが、冷酷無比な性格。死霊術を得意とする。リリーとともに夜会卿の支配する街を脱出し、『落人』としてグレキランス地方にやってきた。リリーを裏切り『緋色の月』に協力したが、シンクレールに討たれた。詳しくは『617.「リリーとハンジェン」』『630.「たとえ愚かだとしても」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『陽気な浮遊霊』→周囲の無機物を操作する呪術。リリーが使用。初出は『618.「大人物の愛娘」』




