Side Riku.「妄信者回想録㉘ ~善なる獣~」
※リク視点の三人称です。
燃え盛る、十本脚の怪物――轟魔卿と呼ばれたその化け物は、街の周縁を狂ったように駆けた。
家屋を破壊し。
木々を薙ぎ倒し。
ときおり立ち止まっては、また進む。そのたびに髑髏の歯列には鮮血がこびりついていた。
住民を食らいながら、圧殺しながら、這いずる凶器。鳴り響く絶叫は止む気配がない。リクの立つ中央広場でも、発狂したように泣き叫ぶ議員が何名かいた。あとの者は呆然と立ち尽くすか、逃走を試みては兵士に取り押さえられる顛末をたどった。
『ブロンの皆様は、よくよくご自分の置かれた立場を理解せねばなりません』
轟魔卿が街を半周する頃、カーライルは悠然と口を開いた。
『貴方がたは貴族社会の裏切り者であり、粛清対象なのです。誰ひとり逃がしはしませんよ』
街は轟魔卿の私兵に包囲されている。カーライルの言葉通り、誰ひとりとして逃げおおせた者はいなかった。街の外を目指した者たちは兵士に捕まるか、あるいは半殺しの目に遭っていたのである。しかしながら、彼らはまだマシなほうだったろう。街外れでまごついていた者や、領地ぎりぎりに建てられた家屋に籠っていた者は、轟魔卿の被害――すなわち死を享受することとなった。食われた者や押し潰された者より、焼け死んだ者の数のほうが圧倒的に多い。このときのリクには知るべくもなかったのだが、轟魔卿の纏った炎は生物にのみ作用する。燃え移ることは決してないが、住民を焼き殺す能力は有していた。
善なる者の終わりとしては、極めて不幸な結末だろう。きっと。
それゆえリクは、この状況にある種の満足さえ感じていた。が、同時に不安も確固たる大きさで存在していた。
轟魔卿。その正体は明らかに自分たちと同族ではない。異形の魔物と見るのが妥当だろう。なんにせよその化け物が驚異的な暴力を宿していることは疑うべくもなかった。容易に討伐出来る相手ではない。
想像を超えた暴力が、やがてシャンティのもとにたどり着き、破壊の限りを尽くす。その様子を思い描いてしまったリクは、我知らず歯噛みしていた。
――これは、彼女の幸福を終わらせる存在だ。
自分が不幸になるのは全然かまわないし、むしろ善が蹂躙され悪が肥えていくのは彼にとって本望である。が、シャンティの幸福が近いうちに終わりを迎えるとなると、それはどうにも我慢ならないことだった。
自分の善と不幸。彼女の悪と幸福。それが対称関係にあることをリクは願っていたし、また、妄信していた。
今以上の善を。
それによって、彼女をより悪へと押し上げられたのなら。
轟魔卿なる悪魔から逃れられるほどに、姑息で敏感な悪を、彼女に。
『おや、どうしたんです? リク伯爵』
刀を抜き去り、切っ先をカーライルへ向ける。その一連の動作を経て、リクは冷静さを取り戻した。四十年間繰り返し鍛錬してきた剣術は、構えるという行為だけで、彼の精神を見事なまでに整えたのである。
『お前たちの好きにはさせない。ブロンはマナスルと無関係だと言ったはずだ。にもかかわらず粛清するなど、道理ではない』
道理なきは悪である。非道に対するは善である。
このときのリクは、正しさだけを、美しさだけを心に抱いていた。むろん、その先でシャンティの幸福が増すことを願って。
リクとカーライルの間に、三名の武装した兵士が割って入った。彼らはいずれも幅広の剣と身体の半分を覆い隠せる大きさの盾を構えていた。
堅牢な鎧と大ぶりの盾。どちらも、刃に対する防御力は極めて高い。鎧の継ぎ目に皮膚の紫が仄見える程度の隙間しかなく、そこを正確に突くのは至難の業である。また、致命傷にもなり得ない。カーライルが見下すような表情でリクを眺めやったのは、きっとそうした優位を充分に把握していたからだろう。虚しい抵抗を観るのは、ときに残酷な心地良さを感じさせる。
が、カーライルの余裕の態度はすぐに凍り付いた。
リクの刃は鎧の隙間を縫って皮膚へと触れたのである。そして次の瞬間、兵士は崩れ落ちた。
意識を奪う刃。卓越した剣術。そのふたつを備えるリクにとって、カーライルが優位の根拠としていた諸要素は、なんら問題ではなかった。
カーライルが、僅かに蒼褪めた顔で後退する。それと入れ違いに、別の兵士がリクの前に立ちはだかり――意識を失った。飛びかかってくる兵士もまた、同じ末路をたどっていく。
『肌を見せるな! 肌を斬られると死ぬぞ!』
ひとりの兵士がそう叫んだ。死ぬ、というのは大いに誤解があるが、そう思ってしまうのも無理ない状況である。リクに斬られて崩れ落ちた兵士が生きているのか死んでいるのか、確かめるほど余裕のある者はいなかった。
鎧の隙間を狙っている。決して突かれないようにせねばならない――兵士たちの得た理解は、なるほど、正しい。しかし、元来そうそう狙えるものではないのだ。棒立ちならばまだしも、彼らは常に動いている。動く的を正確に貫く剣捌きは、ただただ異常であると言えよう。多少の注意をしたところで、リクの刃の前には無意味だった。
このまま広場の兵士を一掃し、街道へと続く大通りを封鎖しているであろう兵士たちも排除する。住民への避難誘導を議員たちに任せ、最大の敵――轟魔卿を無力化する。リクが描いたプランは、決して悪いものではなかったろう。まず自由に行動を起こすには広場の敵をなんとかする必要がある。最終目的は轟魔卿の討伐だが、これに関して絶対の保証はなく、したがって万が一自分が敗北したときにも幾つかの命を長らえさせるためには、住民の避難経路の確保を優先せねばならない。
リクが冷静に計画を立てることが出来たのは、やはり善への意識の賜物だった。唯一絶対の信じるべき道のりが見えていれば、恐怖も絶望も問題にはならない。
リクの剣術は、この場にいる誰をも凌いでいたのは事実である。完全武装の兵士たちはそれなりに厄介な相手であるはずだったのだが、まるで歯が立たなかったのだから。
しかしながら、純粋な武力は勝利を保証しない。この世界には、武ではない力が存在する。リクはそれを失念していた。
異変は、広場の兵士を半数ほど倒した頃に起こった。
次の標的を討つべく刀を引いた瞬間――。
『ぁ……』
銀の刃が、リクの足元で跳ねた。彼が握っていたはずの刀である。
咄嗟に拾おうと腕を伸ばし、彼はようやく自分の身体に起きている異常を把握した。
肘から先に、まったく力が入らない。右も左も、握力はもちろん、感覚も失せていた。刀の柄に触れた指先がなんの感触も返さない事実を確認した瞬間、彼の背に悪寒が広がった。
鎧の兵士の間から、カーライルが悠々と歩み出る。その口元は、ひどく愉快そうに歪んでいた。
『リク伯爵。我々が単なる武装集団だと認識していたんですか? たかが鎧と剣で簒奪卿を討つ気だったとでも? ああ、なるほど。ベイゼ様の力に依存していると錯覚なさったわけですね?』
敵の最大兵力は轟魔卿であり、それ以外は雑兵に過ぎない。そうまで思っていたわけではなかったが、リクの心に僅かながらの油断があったのは確かである。化け物を率いる連中が、わざわざ自分たちの力を磨くだろうかという疑問。それはいつしか軽視へと変わっていたのかもしれない。
『感覚奪取という魔術はご存知かな? 高等な麻痺魔術だと思っていただければリク伯爵にもお分かりいただけるかと思いますが……ふふ……それすらピンときませんか? 随分と魔術にウブなかただ』
魔術という存在については、リクも知っていた。ごく低級な、生活に根差した魔術であれば街にも使い手がいる。が、ブロンには体系化された魔術知識もなければ、攻撃魔術の必要性もない。それらはすべて、書物のなかの存在でしかなかった。
したがってリクには相手が魔術師であるかどうか、今この瞬間に自分が魔術を施されつつあるのかどうかすら判断するすべがなかったのである。
あらゆる抵抗が潰えた。
あとに残るのは、約束された敗北のみ。
周囲の議員たちはきっと、そのような絶望を感じたことだろう。しかし、渦中のリクだけは別だった。
善であれ。美であれ。正しくあれ。
訪れる結果は、問題ではない。
リクが膝を折り、地面に這いつくばったとき、カーライルは高笑いを上げた。絶望の表現だと捉えたのだろう。
柄を呑むように咥え、手近な兵士の肌へと突き立てた直後、不愉快な笑いは消えた。
凶器を咥えてでも戦闘を継続しようとするリクに異様な迫力を感じたのか、兵士たちが後ずさる。
気圧された様子の兵士との距離を詰め、無力化してみせた。
そんななか、カーライルだけが余裕の態度を続けている。
『まるで獣だ。醜いですよ、リク伯爵』
なにが醜いと言うのか。
街の人々を守るために戦う姿のどこが醜いと言うのか。
善であろうとする必死さのどこが醜いと言うのか。
自分自身を正しさの裡に閉じ込めた男のどこが醜いと言うのか。
顎に力が入り、口内に鋭い痛みが走った。歯が欠けたのかもしれない。しかしそれが、いったいどうしたと言うのだろう。
七人。
リクが、口に咥えた刃で突いた人数である。決死の覚悟とはいえ、おぞましいハンデを背負った状態でそれだけの数を無力化したのは見事と言っていいだろう。
しかし、それで終わりだった。
兵士の振るった力任せの剣が刀に激突し、顎の力に勝った。口から離れて放物線を描く武器を、再び上下の歯で捉える隙はなかったのだ。リクは地に叩きつけられ、全身を殴打され、やがて意識を喪失した。




