Side Riku.「妄信者回想録㉒ ~失われた時間~」
※リク視点の三人称です。
ハイデアの埋葬が終わってからの半年間は、ほとんどリクの記憶に残っていない。ずっと邸に籠って呆然と時間の流れに身を任せているだけだった。マルタが毎日のように食事を届けてくれたが、それすら手を付けずに腐らしてしまうこともしばしばあった。二日と置かず議会の誰かが訪問したようだったが、彼らの姿を直接見ることはなかったように思う。玄関を叩く音と、健気な呼びかけの声だけが存在した。
――体調が恢復したら、ぜひ議会に顔を出していただきたい。
帰り際、彼らはいつもそんなふうなことを言っていた。返事などないのに。
半年もの時間のなかでリクが為したことはなにもない。思い悩んでいたわけでもないし、哀しみに暮れることもなかった。ぼんやり宙を眺めていただけである。まったくもって、ただの抜け殻だった。
ハイデアの自殺。シャンティからの拒絶。おおむねそのふたつが、リクの喪失感の源だったろう。愛と憎しみの両方が、ほとんど同時期に消失したのだ。心を温めていた熱源が失われたと言ってもいい。
生きる目的はなかった。かといって自殺も選べない。ハイデアと同じ結末を自ら進んで選び取ることはありえなかった。
なにもなければリクの生活はそのまま何年も、もしかすると何十年も続いたことだろう。邸の内部では時間の歩みが停滞したかのごとく、変化の兆しはなかったのだから。
契機は常に外部から訪れる。結果としてどんな変化をもたらすかによらず。
ハイデアの死から四ヶ月ほど経過した頃、農地で立て続けに事件が起こった。作物が荒らされたのである。当初は魔物の仕業と思われたが、被害が継続するにつれ、そうではないことが分かってきた。トマト、ニンジン、芋類――収穫間近の作物だけが乱暴に奪取されていたのである。魔物は通常の意味での食事をしない。したがって作物だけを狙うなどということも起こり得ない。獣による被害という見方もあったが、どの畑も柵で囲われている。厳重とは言えないものの、猪やら兎、あるいは野犬の類が易々と突破出来るものではない。加えて、獣を示す痕跡もなかった。
被害が二ヶ月経過したときには、誰もが事件の犯人を察していた。分かっていながら、明確にそれを指摘した者はいなかった。むしろ農民は一丸になって、被害から目を逸らそうとしていた向きもある。
明らかな足跡。根菜に残った歯型。極めつけは、真夜中に畑を往復する影。
そのどれもが、人のかたちをしていた。
かつてマナスルとの交易はひと月に一度行われていたが、ハイデアが死んでから――リクがシャンティと最後に別れてから――交易は途絶えていた。
ブロンが意図的に施しを取りやめたわけではない。
ハイデアの自殺の翌月、交易品を積んだ荷車がマナスルを訪れたが、門前払いを受けたのだ。
――マナスルはブロンとの交流の一切を絶つ。ブロンの者が領地を侵したならば、しかるべき報いを受けてもらう。
交易を担っていた男は、そんな報告を持ち帰ってきた。手つかずの交易品とともに。
その翌日に議会の何名かでマナスルを再訪し、彼らの意志を再確認したのである。内容が内容なだけに、交易担当者の言葉を鵜呑みに出来なかったのだ。当然どこかに勘違いがあるものと思っていた議会の人々は、交易担当が持ち帰ったものと同じ言葉を浴びせられることになった。
マナスルの意志を確認した者たちは、議会でその旨を報告し、かくして交易は一旦停止となったのである。ブロンとしては、彼らが自力で生き延びられるとは思っていないため、あくまで一時的なものと捉えていた。
議会に提出された報告のうち、交流断絶の理由として述べられたふたつの言葉が、議場の人々の記憶に深く刻まれることとなった。
『ブロンの施しは受けない』
『美しい魂は犠牲者だけが持ち得る』
マナスルの人々は一様に、自ら犠牲者たらんとしているのだと、議会では解釈された。彼らには彼らの信仰があり、それに従って判断したのなら、尊重しなければならない――そんな結論に至ったものの、誰もが釈然としない思いを抱えてもいた。
これまでマナスルは、穀物類の多くをブロンの交易品に依存していた。彼らにも沼魚やキノコなどの食糧はあるが、日々の飢えを凌ぐには心許ない。総人口は減っていくだろう。人材が減れば、夜間防衛も困難になる。絶滅する未来だって想像に難くない。
交易の断絶は、集落全体の緩やかな自殺を意味している。そう解釈するのも、決して極端ではなかった。
それからというもの、毎月のように議会の誰かがマナスルに断絶撤回の意志はないか確認すべく集落へと足を向けたが、結果は変わらなかった。
リクが引き籠って半年後、ちょうど黄昏時に来訪者があった。議会のメンバーで、リクと同じくらいの年齢の青年である。姿を見ずとも、声を聴けばそれと理解出来た。だとしても、返事をする気などなかったのだが。
『リク様! すぐに邸から出てください! 大変なことになっているんです!』
その青年は、喉が潰れるほどの大声で叫んでいた。だからこそ、地下に座り込んでいたリクの耳にも届いたのである。
リクは半年前ハイデアに閉じ込められたその空間に、もう三日も座り込んでいた。なにをするでもなく、じっと壁を見つめて過ごしていたのである。
『リク様! マナスルの人々がやってきたんです! 全員! あちらの長もいて――』
どうでもいい。そう思ったことを、不思議と明瞭に記憶している。おそらくそれが脳に焼き付いたのは、言葉とは裏腹に、身体が動いたからだろう。
階段を上り、廊下を抜け――。
『もしかすると彼らは、ブロンに移住するつもりなのかもしれません。あるいは……考えたくないことですけど……侵略、とか』
青年の口にした懸念は、いかにも馬鹿馬鹿しいものだった。ブロンの総勢とマナスルの全人口を比較して、どう考えれば侵略が成り立つというのか。
ただ、このとき起きていたことを考えれば、青年の想いもまんざら非現実的ではなかった。ほんの十数分前に、マナスルの人々がブロンの末端――厳密に言えば領地の境界線に当たる丘にずらりと並び、ただ黙して住民たちが集まるのを待っていたのである。濃密な沈黙が立ち込めた空間は、どんな怖ろしい空想をも現実的に思わせてしまう。それゆえ、青年の反応はむしろ当然のものと言えよう。
『リク……様?』
玄関を開けると、青年の顔が見えた。ぎょっとした表情でリクを見上げている。無理もない。この半年、リクは身だしなみなど一切気を遣わず、髪も髭も伸びるがままに任せていたのだから。そして慢性的な運動不足に三日間の絶食が追い打ちをかけ、げっそりとやつれていた。
それでも、青年が面食らっていたのは十秒程度のことである。
『行きましょう、リク様。貴方はブロンの領主です。この半年は議会の人たちみんなで街を守ってきましたけど、これからはリク様が――』
青年の言葉を最後まで聞くことなく、リクは歩き始めた。
――領主なんてどうだっていい。街を守るつもりもない。それぞれが勝手に生きているだけ。
リクの足取りは奇妙なほど確かだった。数十メートルも行くと全身が軽くなったように、駆け足になっていく。自分のあとを追う青年など、意識の端にもなかった。
『シャンティ』
丘を目指して駆けるリクは、無意識にその名を呼んでいた。




