Side Riku.「妄信者回想録⑳ ~宵闇を駆ける~」
※リク視点の三人称です。
ハイデアが死んだ。一週間ほど前、息子が滅茶苦茶に破壊したリビングで首を吊ったらしい。
いかに血族であっても、頚椎の損傷は致命的である。また、呼吸を失うことでも死に至る。ハイデアの場合がどちらのケースだったかは定かではないが、苦しんだ形跡がないことから前者であるとの見方が有力だった。
家具の残骸を取り払った、がらんどうのリビング。天井の梁に渡した縄は、ちょうど部屋の中心に位置していた。第一発見者となったマルタは、空中で揺れる領主を凝視し、しばし立ちすくんでいたらしい。窓から差し込む午後の光が、死者の痩せこけた足を照らしていた。そのときの彼女は、さながらハイデアが水面に足先を浸けているように見えたという。光の川を渡った――という表現は、その後のマルタが繰り返し街の人々に語って聞かせた言葉であり、いささか信仰めいた感傷はあるものの、彼女が実際に目にした光景とそうかけ離れたものではない。やがて我に返ったマルタは絶叫し、乱れた精神状態のまま男手を呼びに行ったのである。
ベッドに座り込んだリクはマルタの報告を聴きながら、ぼんやりと中空を眺めていた。ふと目に入った時計が午後八時を指している。マルタの話を聞く限り、リクとハイデアが地下で会話を繰り広げてから、およそ半日しか経過していなかった。
『坊ちゃん。お父様はリビングで眠っておられます。棺のなかで……ええ、本当に、眠っているのですよ。安らかなお顔で……』
首を吊ったのに、どうしてあんなにも清々しい顔なのかしら。
マルタは、そんな自問をなんとか呑み込んだようだった。
『マルタさん。しばらくひとりにしてくれませんか? お願いします』
『ええ、ええ。分かりました。でも、妙な考えは起こさないでくださいね』
妙な考えとは、いったいなんのことだろう。
このときのリクには、当たり前のことも分からなかった。十五歳という年齢のせいではない。自分のことを、唯一の身寄りを失った少年であると客観視出来ていなかったのだ。
いかにも、家族は大事だろう。しかしそれは血を分けた存在を指す。あるいは、嘘偽りのない清らかな関係性を指す。その意味で、リクにとってのハイデアは落第していた。
『後を追ったりなんて、絶対にしないでくださいね』
きょとんとするリクに、マルタがそう付け加えた。それでようやく得心がいって、思わず彼は笑いそうになってしまった。
後を追う?
なんのために?
哀しくって?
そんな馬鹿な!
『大丈夫です。ただひとりになりたいだけですから』
このときのリクの微笑は、随分と不器用だった。顔に余計な力が入り、頬や口元が引きつっている。呆れと笑いを堪えて、なんとかそれらしい表情を形作ろうとしたのだ。
リクの表情は却って効果的だった。マルタはそれを、涙の前兆だと勘違いしたらしい。急に訳知り顔になり、共感を示すように眉尻を下げてみせた。
『そうですか……。分かりました。なにかあったら私の家にいらっしゃいね。夜中でも大丈夫です。どうか、おひとりで抱えないでくださいね』
『ありがとう、マルタさん』
去り行くマルタの背を、リクはじっと見つめた。部屋を出る大柄な背中。振り返り振り返り、庭を遠ざかっていく丸顔。
ようやくその姿が見えなくなると、リクはすぐに階下へと降り、邸を出た。父の棺の安置してあるリビングを横切ったが、その死に顔を確認しようだなんて欠片も思わなかった。かつて父を名乗っていた他人の死体になど、なんの興味もなかったのである。そのとき棺の蓋はしっかり閉じられていたのだが、仮に開いていたとしても、リクは一瞥さえ与えなかっただろう。憎らしさではなく、もっと別の物事に心を囚われていたのだ。
ハイデアの葬儀が翌朝行われることは知っていた。先ほどマルタが教えてくれたのである。
葬列はさぞや、複雑な厳かさに満ちることだろう。ハイデアは慕われていた。少なくとも、彼を非難する声は一度も耳にしたことはない。リクの関知しないところで罵詈雑言が飛んでいたのかもしれないが、そんなものは無いのと同じだ。葬儀の場では、畏まった哀しみが膜のように周囲を覆うことだろう。その日のうちに次期領主の話も出てくるに違いない。
明日からの自治はリク様にかかっております!
わたくしめが、懐刀としてお仕えいたします!
泣きお父上のご意志を継いで――。
ブロンに永遠の平和を――。
今が夜であることを、リクは心の底から嬉しく思った。日中であれば鬱陶しい言葉の数々に取り巻かれ、窒息しそうになったことだろう。夜闇に紛れる黒のマントを纏い、人通りのない道を選んで街を抜け出すことも出来なかったに違いない。
街から離れ、農地を越え、街道の林に入ると、リクは深呼吸をした。空気には湿り気が混じっている。一週間前の大雨の名残をいまだに土が蓄えているのだろう。リクにとってあの日のことは、ほんの一日前でしかない。一週間という時間はすべて、意識を失った空白の時だった。存在しないも同然の時空間。そんな虚無の時間よりも、地下で描かれた透明な世界のほうが、遥かに強い現実感を与えてくれている。
『間違っていなかった』
林を進みながら、リクははっきりと独り言を口にする。
『おれは今、正しい流れにいる』
藪に突っ込もうと、ひたすら真っ直ぐに歩く。
『あの世界が、本当になるんだ』
たまらなくなって、駆け足になる。
『透明で、静かで、清らかな――』
木々にぶつかろうと、足は止まらない。視線は暗闇のずっと先へと固定されている。
『おれは、おれたちは――』
リクの声は、それ以上言葉のかたちを為さなかった。想いが咆哮となって溢れ出す。リクは自分が、夜の林を駆ける一匹の獣だと感じた。
一匹の美しいケダモノ。
父の自殺を心から喜ぶ罪人。
自分の足跡は、きっと真っ赤に染まっている。
もう何時間駆けたろうか。大気に混じった腐臭が絶えずリクの鼻を刺激していた。この臭いに顔をしかめたのが遥か昔のことに思える。
ほんの小さい頃のことだ。沼地の集落の陰湿な空気に、ひどい嫌悪感を覚えたものである。あちこちから聞こえるカエルの鳴き声が不気味で不気味で、一秒だって留まっていたくないと本気で感じていた。
それが、どうだ。
あのとき自分の手を引いた男――偽りの父親はもういない。本当の父親も、もういない。どこにも縛り付けられることのない自由が、自分と彼女を照らし出している。
いつの間にかリクは涙していた。頬を流れる液体は、抱えきれずにこぼれた祝福である。長く暗い通路に射した光を捉えて、眼球が熱く震えている。ぬかるみに足を取られて二、三度転んだが、リクはそれすらも歓迎した。もうじきすべて終わるのだ。苦しみも悲しみも終わる。
なりふりかまわず走ったからだろう、彼の肌はひどく汚れていた。マントは脱ぎ捨てて、薄手のシャツ一枚になっている。それも草の汁や泥を吸って、斑模様を描き出していた。
彼女が驚くのも無理はない。涙さえ拭わずにここまで――マナスルの長の家までやってきたのだから。
『……リクさん』
玄関を開けたシャンティは目を丸くした。が、驚きはすぐに鎮まっていく。ばつの悪そうな、伏し目がちな表情になった。
彼女がそうした反応を見せるのは、無理もないことである。リクの出生には、自分の父親であるダヌが深くかかわっており、結局のところすべての悲劇がそこに端を発していたからである。リクが『聖印紙』を破り捨てたことも、ハイデアを殺そうとしたことも、その後軟禁されたことも、シャンティは知っていた。ほかならぬハイデアから聞かされていたのである。
責任を感じなくていい。君は今とても辛い立場にいるだろうし、深く悲しんでいるんだから。君には本当に、すまないと思っている。
リクが昏睡している一週間のうちに、ハイデアは何度もマナスルを訪れ、傷心状態のシャンティに頭を下げたのである。それが却って彼女を恐縮させたことは言うまでもない。
こうして真夜中にリクが訪ねてきたのも、謝罪か慰めか、ふたつにひとつだと思ったのだ。
だからこそ、リクの口走った言葉に凍り付いたのである。
『シャンティ。会いに来たんだ。おれも、君と同じなんだ』
『……同じ、というのは?』
リクはもう、興奮を抑えきれなかった。
『死んだんだ。ハイデアも!』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




