117.「支配魔術」
病室に入ると、ヨハンはぼんやりとこちらを見つめた。ベッドに横たわったまま。
活力のない瞳。普段のその目は、卑劣な企みや策略で薄暗い輝きを放っている。なのに今の彼は空っぽな感じがした。
ベッドの傍に立ち、彼を見下ろした。確かに呼吸もしているし目も開いている。その気になれば身体だって動かせるに違いない。
しかし、どうにもしっくりこない感じがあった。重要ななにかが抜けてしまっている。そのなにかは未だに彼の内部へと帰還していない。
「具合はどう?」
呼びかけても、ヨハンはなんの反応も見せなかった。
肩を叩かれて振り仰ぐと、トラスが首を横に振った。「まだ本調子じゃねえんだ。話しかけたって反応しやがらねえ」
ヨハンの瞳に視線を戻す。のっぺりと、生気のない目。
「レオネルさんの話によれば、明日明後日までに恢復するかどうか、ってとこらしい」
はっきりとしない内容だ。つまるところ、レオネルほどの魔術師であっても彼の病状に関しては言葉を濁してしまうということだろう。
ふと、ヨハンの手になにかが握られていることに気が付いた。
「これは?」
「ああ、目覚めたときには握ってたんだ。昨日の晩はなんもなかったのに」
指の間から漆黒の小箱が覗いていた。アリスに渡した箱と同じ型だ。ベッドサイドにはヨハンが愛用しているくたびれた鞄が置いてある。
一体この小箱が彼にとってなにを意味し、どうして目覚めて最初に握ったのだろうか。
不意に、ヨハンの口がぱくぱくと動いた。しかし、音はしない。
「たまにそうやって口を動かしてんだ。伝えてえことがあるのに声が出ねえのか、頭ン中の誰かと喋ってるのか。レオネルさんでも分からねえらしい」
いかにも哀れな姿だった。狂気的ですらある。なんの魔力も持たない普通の人間がこうなってしまったら、周囲の人々はあまりの悲劇に目を伏せることしか出来ないだろう。
だが、彼は魔術師だ。目覚めるや否や小箱を握り締め、その瞳は現実でないものを見て、その口でここにはいない誰かと会話する。彼ならそうするはずだ。いや、現にそうしているに違いない。
……きっと。
「トラス……わたし、盗賊たちと話があるから」
そう言い残して出ていくと、背後から「あ、ああ」というトラスの狼狽混じりの返事があった。
これ以上この場所にいたら、多分泣いてしまう。
広間に入ると、見覚えのある顔ぶれが揃っていた。盗賊たちと、ドレンテ。そしてレオネルもいた。
「姉さん! 昼間は本当に助かった! あんたがいなけりゃ今頃……」
「気にしないで」と言ってレオネルの向かいの席に腰を下ろす。
ドレンテはやや沈んだ面持ちで「無事帰って来てくれて安心しました」と呟いた。けれど、本心は別なのだろう。わたしが逆の立場なら間違いなくため息程度じゃ済まない。
「勝手なことをして申し訳ありませんでした」
ドレンテは「謝る必要はありません」と首を振って否定し、盗賊たちをぐるりと見回した。「貴女のお蔭で彼らを同胞にすることも出来ました。同じ目的を持った人間は多ければ多いだけ助かります」
そうは口にしながらも、彼の表情は曇ったままである。
その本心を代弁するかのようにレオネルが口を開く。
「お嬢さんの活躍は目覚ましいものでしたが、同時に厄介な問題も持ち上がりましてな……。貧民街区への警備兵常駐が議会で決定したのですよ」
貧民街区はそれまでなんの警備も得られなかったエリアである。勝手に殺し合い、勝手に盗み合え、といった具合に。
このタイミングで警備兵を立てるとなれば原因はひとつだ。
レジスタンス勢力か、盗賊団への警戒強化。『白兎』か『黒兎』、あるいは他の騎士団員がキマイラの敗北を知り、かつ、わたしたちの行方が不明であることを不吉な事実として受け取り、今まで手付かずだった貧民街区に捜索の手を入れようとしているのかもしれない。
「警備と言う名の捜索ですね。無論、標的は貴女と盗賊の皆さんです。……ここに捜索の手は入らないでしょうが、しかし、もう迂闊に外出は出来なくなったわけです」
「面目ありません……。しかし、なぜこの場所は捜索されないんですか?」
あとを引き取るようにドレンテが口を開いた。「この場所が女王から与えられた私の邸宅だからです」
「えー、と」少し考えてみても、それが理由になるとは思えなかった。「それがどうして捜索されない理由になるんですか? 寧ろ女王に反抗したのなら優先的に捜索されても良さそうなものじゃありませんか」
ドレンテは伏し目がちに答えた。どこか憂鬱そうな雰囲気である。「女王が私を侮っている、というのが理由のひとつです。私は現に、彼女の言葉に逆らうことは出来ません。今も」
疑問が頭の中でずらりと浮かぶ。
「なら、どうしてレジスタンスを立ち上げることが出来たんですか?」
「それは殆どレオネルの力です。彼はハルキゲニアから追放された身分ながら、貧民街区を中心に女王の影響下にない人物を次々と仲間にし、組織化したのです。私は元領主という立場から彼らのシンボルになっているに過ぎない。実際はレオネルが指揮を取っています」
「それが女王に逆らえない理由とどう繋がるんですか?」
「その話をしなければいけませんね……。私が女王と結婚していたことは既にご存知でしょう?」
わたしは頷いたが、盗賊たちは目を丸くしていた。その様を見てドレンテは苦笑する。
「元々は私がハルキゲニアの領主だったのですよ。それが彼女と結婚してから、妙なことになりました。恋仲の頃は政に無関心だった彼女が結婚するや否や議会に席を欲しいと言い出したのです。家族に議席を与えることはハルキゲニアでは珍しいことではありませんでしたから、私は快諾したのです。レオネルに言わせると、その頃から私は彼女の術中にいたらしいのですが」
レオネルは思慮深く頷いた。
「その術中というのは、女王の政治的手腕に関してですか? それとも言葉通り、魔術なのですか?」
レオネルは感心するように目を細めた。「後者です。ドレンテは女王の支配魔術に、いつの間にかかけられていました。我々も実際にその瞬間を確認したわけではありませんでしたが、彼女と共に議会に入るドレンテは既に女王の支配下にあったわけです」
支配魔術。王都では使用が禁止されている魔術にあたる。洗脳魔術の一種であることは知られていたが、詳細は分からない。
「支配魔術を使えるような人間がいるなんて信じられません。グレキランスでも禁じられた魔術のひとつですから。習得方法も用法も明らかになっていないはずですよ」
レオネルは肯定した。「お嬢さんの仰る通りです。儂も支配魔術に関する知識は薄い。この地でも禁忌とされる魔術に指定されておりますから」
「なら、どうして女王の魔術が支配魔術だと……?」
「ハルキゲニア追放の折に焼かれてしまいましたが、師から授かった魔術書に載っておりました。儂は記憶のなかの書物に基づいて魔術の特定を行ったのです。『被術者(魔術をかけられた人間)は魔術をかけられたことすら知らず、自我のまま加術者(魔術をかけた人間)に従っていると思い込む。支配魔術は恣意的な選択に自由の名を加える魔術である』。支配魔術の項にあった短い説明書きです。……つまりは、自由意思だと思っていたものが術者の思惑通りの内容であるわけです」
思わず口元に手を当てた。すると、支配魔術を打ち破ることはおろか、それが本当の自由意思なのか支配魔術によって誘導された意思なのか判別不可能ではないか。
「お嬢さんの考えていることは分かります。支配魔術かそうでないかの区別が出来ない。そういうことでしょうな?」
「ええ」
「そのために我々は魔力察知を身に着けているのではないかな?」
「あ」と声が漏れた。確かに察知さえしてしまえば魔力の影響下にあるかどうか分かる。
レオネルはにっこりと微笑んだ。
「お嬢さんの魔力察知はまだ発展途上ですな。儂はそれが被術なのか加術なのかも判別可能ですし、魔力のかたちでおおよその内容も把握出来ます。思うに、お嬢さんはドレンテに一切の魔力を感じていないのではないですかな?」
頷く。確かにドレンテは魔力を持たない一般人にしか見えない。
「察知能力を磨けばいずれ隠匿された魔術にも気が付くようになります。……続けましょう。さすがにドレンテにかけられた魔術を直観で支配魔術とは言い切れませんでしたが、今まで感知したことのない種類の魔術であることは確かでした。魔術同士を複合させて創り出したともいえない。全く未知の部分が多いのです。そこで、もしやと思い、禁じられた魔術にあたりをつけたわけです。禁止魔術自体はそれほど多くはありませんから、彼にかかっているものがどういった性質かで答えに辿り着くことが出来ました。……彼は女王の言葉に決して逆らうことが出来ない。死を命じられたら死ぬしかないような、そんな状況なのですよ。自由意思として」
ドレンテは長いこと目を瞑っていた。
きっと、彼にとっては辛い話なのであろう。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『トラス』→レジスタンスのメンバー。髭面で筋肉質。豪快な性格。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダー。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。用途不明。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』




