Side Riku.「妄信者回想録⑱ ~命がけの奇跡~」
※リク視点の三人称です。
『秘術を授けなければ交易を止めるなんて、今にして思えば卑劣な脅しだ。ダヌさんは困り果てた様子だったよ。まさか、説得するつもりが逆に脅されるとは思っていなかったんだろうな。でも、俺は脅しのつもりなんてなかったんだ。ただ気付いたらそう言ってしまっていただけで、本気で交易を止めるつもりなんてなかった。代々続いてきたブロンとマナスルの関係を破壊するつもりなんて微塵もなかったんだ』
一度口にした言葉は呪いのようにまとわりつく。思ってもいないことでも喉から声になって溢れてしまえば、簡単には撤回出来ない。冗談だ、忘れてくれ――そう言えたならどんなに楽だろうと振り返って後悔するようなことが往々にしてある。取り消せないというより、取り消すためのひと言がどうしても出てきてくれない。そこには心理的な背景が大いに作用していることだろうが、それだけで説明しきれてしまうようなものであるとは、後年のリクには思えなかった。口腔の奥、喉の入り口に見えない膜が張るようなイメージである。一度口にした言葉を撤回するには、それを突き破らなければならない。リクにとってそれは心理的抵抗というより、呪いと表現するほうが近かった。
自分の言葉で自分に呪いをかける。そんな経験を、リクは積み重ねてきた。ただ、十五歳の頃はそれを自覚していなかったように思う。だからこそ、あまりに大胆で放埓な言葉を発することが出来たのだろう。ダヌへの軽蔑、ハイデアへの殺意、シャンティを殺人へと誘った告白……それらはすべて、撤回するには重すぎる言葉であり、呪いだった。父ハイデアもまた、同じ呪いにかかっていたのだろう。
『秘術は本当に存在するとダヌさんは仰ったが、俺は毛ほども信じていなかった。なのに俺は、母さんに秘術を授けるよう要求したんだ。母さんの想いを汲む気持ちもあったんだが、それ以上に、この悪夢を終わらせてしまいたかったんだ。母さんは、秘術という幻想が残されているために心を病んでしまった……俺はそう思ったんだよ。だから、子供を決して授かれないという事実を受け入れて生きるためには、怪しげな幻を壊す以外になかった。もちろん、それで母さんが健康になるとは言い切れない。却って病状が悪化する可能性もある。すべては神のみぞ知ることだ。確かなのは、そのときの俺には、地面に額を擦りつけて最後の希望に縋ろうとする母さんを引っ張って、生きているのか死んでいるのか分からないような現実の世界へと戻っていく勇気がなかったことだけだ』
あとになってこのときの告白を吟味することで、ようやくリクはハイデアが率直にすべてを明かしてくれていたのだと考えるようになったが、檻のなかにいる十五歳の少年はいまだに空想の世界を漂っていた。ハイデアが支離滅裂な呪文を唱えたとしても、彼の反応はなにも変わらなかっただろう。狭い地下に反響する湿った声は、自然音と一緒だった。シャンティとともに立つ空想の沼のほうが、このときの彼にとってはより現実に近かったともいえる。
『ダヌさんは何度も拒絶したが、俺は同じ言葉で同じ要求をぶつけ続けた。そして、ついに彼は同意したんだ。秘術を施すと。母さんの命は出産と同時に消えると繰り返し言っていたが、俺は真面目に受け取らなかった。……とんでもない愚か者だよ、俺は。知っての通り、母さんはお前を産んで、死んだ。つまり秘術は本当だったんだ』
この世に本当のことって、いくつあると思いますか?
凪の水面に立ったシャンティは、歌うように言った。二人の手は相変わらず触れ合っていて、ひんやりしたその温度がリクに安堵をもたらしていた。
少ないよ、きっと。おれと君の周りだけ――すごく狭い範囲だけが、本当なんだ。
リクの答えに、彼女は声を出さずに笑う。
正しい心だけが本当なんです。美しい魂だけが本当なんですよ。霧も魚も水も木も、あるがままに正しい。
人は?
リクの問いに彼女は答えない。答える必要がないからだ。
『その晩、俺は村長の家に泊まった。一睡もしなかったよ。眠ることなく、朝まで壁を見つめていた。その間に、全部が済んだんだ。朝方、俺はぐったりした母さんを荷台に乗せてマナスルを去った。母さんは満足そうな顔をしていたよ。それが殊更腹立たしかった。秘術を施してもらえた満足感、つまりは妊娠することの確信からくる表情だったんだろうが、どうにも……俺には優しくしてやる余裕がなかった』
ある日、マナスルに雪が降った。夜半にちらちらと白い粒が舞い降り、朝には一面が雪に包まれていたのである。年中村を漂っている霧は消えていて、なにもかもが見通せた。木々も沼も家々も、みなが雪化粧をしている。空気はいつにも増して透明で、深呼吸をすると身体の奥底まで洗われていくような感覚になった。
リクとシャンティは手を繋ぎ、穢れのない雪面に最初の一歩を同時に踏み出す。
二人の足跡はくっきりと雪に残った。
『ブロンに帰ってから数ヶ月して、母さんの妊娠が傍目にも分かるようになったとき、俺は涙を流して喜んだよ。二人で抱き合って、祝福した。母さんの喜びに感化されたんだろうね。心のどこかでは悔しく思っていた気がする。なにせその子は、俺の子ではないんだから。そう……俺はこの時点でも、秘術を信じてなどいなかった。単にダヌさんの子を身籠ったという側面しか見えていなかったんだ。そんな俺が、母さんの死を必然だと思えるはずがない』
雪原を歩くシャンティは、いつにも増して美しかった。雪の色彩がそう見せているのだろう。
『母さんは子を産み、そして死んだ。死に際、母さんがなんて言ったか教えてやろう。……リクを愛してあげてください。そう言ったんだ。俺は死の床の母さんに誓ったよ。必ずこの子を守り抜くと。なにがあろうと。だが、内心は複雑だった。この段階でようやく秘術が現実のものだったと知ったわけだが、手前勝手なことに、俺はダヌさんを恨んでしまったんだ。……そして、リク。お前のことも、どうしていいか分からなかった』
雪も正しい心を持ってるのかな。
ふとリクは呟いていた。すると、隣で彼女が頷く。当たり前ですよ、と言わんばかりに。
白い世界に刻まれた足跡もまた、正しいのだろうか。その足跡の持ち主はどうなのだろうか。リクはそんなことを考えたが、口には出さなかった。
『俺が母さんの存在をお前に隠したのは、怖かったからなんだ。お前にどう説明すればいいのか分からなかった。嘘をつくことはいくらでも出来たが、俺は、嘘を作り上げる努力すらしなかった。いつか限界が来ることは分かっていたのにな。この点は、マルタが正しかった』
足が滑り、リクは仰向けに倒れた。手を繋いでいたシャンティもろとも。
あっ、という叫びが重なる。それから、雪に沈む音が二人分鳴る。
天を仰いで目を丸くした二人は、やがて同じタイミングで笑い出す。
『俺の目が覚めたのは、何度か話した通り、お前が母さんの面影を見たと言った瞬間だ。自分の不甲斐なさを呪ったよ。お前を守り抜くと誓いながらなにもしてこなかった自分こそ、憎たらしく思った。……リク。お前は母さんが手にした奇跡なんだ。あんなにも拒絶しながら、最後には秘術を施してくれたダヌさんにも、俺は感謝しなければならないんだと思い知った。なにしろ、母さんの起こした奇跡にはダヌさんの力があるわけだからな。……それから俺は、街のみんなに全部を話し、説得することに決めたんだ。嘘なんかじゃなく、真正面から事実を伝えて、その上でお前という存在を認めてもらうために。……何年もかけて、ようやく街のみんなに納得してもらったよ。本心じゃどう思っているか分からないが、ダヌさんと母さんの子を、ブロンの継承者として認めてもらえるようにはなったんだ。これがどれだけ難しかったかは、いつかお前も理解してくれると思ってる』
薄暗い檻という現実。
雪原の空想。
それらの終わりが近いことを、リクは意識していなかった。




