Side Riku.「妄信者回想録④ ~沼地の村~」
※リク視点の三人称です。
墓地での告白の最中、リクの父は晴れ晴れとした感傷を隠さなかった。涙を拭うことなく、息子の顔をまじまじと見つめながら、母にまつわる断片的な事柄をしみじみと語ったのである。
モリー。それが母の名であることも、リクはそのときはじめて知った。
『これからはちゃんと、お前に向き合おうと思う。今まで寂しい思いをさせて本当にすまなかった』
そう言われてみると、確かにリクにとって父の存在は薄かった。わずか五年ばかりの過去を振り返ってみても、父の姿はおぼろげな印象しかない。追憶の情景の中心に近いところでは、常にマルタか夜の家政婦――すなわち彼の母であるところのモリーの姿ばかりが鮮明だった。
リクの父が示した感動は、そう不自然なものではない。出産直後に亡くなった妻が、その後も息子のそばで見守り続けていたのだから。誤解や幻、あるいは妄想の類だとしても、感情を揺り動かすには充分な事象である。霊的なもの、神的なものの存在を信ずるきっかけとなったとしてもおかしくはない。
一方のリクはというと、これまでずっとそばにいてくれた存在が母であることを理解し、いっときは父の感動に共感した。母の墓に手を合わせている間も、しんみりとした思いに包まれていた。しかし日を追うごとに段々と、父への憎悪が再燃していったのである。
夜の家政婦が母であったことに疑いはない。が、消えてしまった理由がまるで分からなかった。もし彼女が本当に母で、自分を見守るために霊魂を振り絞って現世に姿を留めていたのだとするなら、なぜ今消失してしまったのか。なにゆえ去らねばならなかったのか。なぜ、一週間、一ヶ月が経過しても戻ってきてくれないのか。それらは答えを導き出せない自問だった。否、誰にも答えを出せない設問だろう。夢幻のほうから自分の正体を明かしてくれない限り、いかなる論理も妄想めいた憶測の域を脱することがないのだから。
リクは段々と眠れるようになったものの、彼にとって夜の持つ意味は変わってしまった。これまでは頭を撫でてくれる庇護者がいたからこそ、夜は却って温かい安寧の時間だった。それが今では不安の象徴と化している。眠りに落ちるまでの間、頭に浮かぶのは嫌なことばかり。瞼を開けば、あらゆる物体が暗闇に沈んでいて、見通すことの出来ない夜影の先に異形の怪物を想像して怯えることもあった。
それもこれも、夜の家政婦――母が消えてしまったからである。そのきっかけを丁寧にたどっていくと、どうしてもリクは或る考えに回帰してしまうのだった。
すなわち、父への憎悪。
世界のどこかで母が生きていると思うことはなくなったが、しかし憎悪は別の柱によって支えられていた。そもそも父を憎むようになった原因はマルタの解雇であり、母という概念の隠匿である。当たり前のように母親の存在を教えてくれていたなら、たとえ幻であったにせよ、母の幻影が消えることはなかったはずだと、リクは強く強く考えた。また、彼女が母であること知っていたならば、五年の歳月ももっと違ったものになったはずだという想いも、そこに籠められていた。
息子が再び負の感情を抱きはじめたことに、父が気付いた様子はなかった。むしろ、嬉々として日々を謳歌していた。街の長として、自治や交易、あるいは魔物対策で多忙だったが、それでも時間を捻出して最低限度の家事をし、可能な限り息子の面倒を見るようにしていたのだが……そんな事実はリクの知ったことではない。疲弊の滲んだ笑顔が、憎悪の作用により薄気味悪い代物に見えただけだ。
翌年から、リクは父に連れられて或る土地に出向くようになった。
長年交易関係にある沼地の村――マナスルである。
鬱蒼とした林に囲まれ、絶えず薄靄のかかったその村を、リクはひどく不気味に感じた。吸い込む空気は重く淀んでいる。果実の腐ったような臭いがそこかしこでしており、悪しきもの、不浄なものをひとつところに集めたような、そんな印象を受けたものである。
リクと父とは道案内の老婆に導かれ、木造二階建ての家へとたどり着いた。なんの変哲もない家屋なのだが、立ち込める靄のせいで、どうにも不吉な佇まいに見えてしまう。近くの沼で泥濘にまみれた巨大な魚が『ゴェ』と寒気のする声で鳴いたのも、リクの気分を悪化させた。
『いいか、リク。お前は大人しくしていれば、それでいいんだ』
マナスルはリクの住む街――ブロンと交易関係にある村であり、神聖な一族が治めている。事前に父から聞いた説明を反復し、少年は鼻白んだ。清らかさとは無縁の、おどろおどろしい沼地の様相に興醒めしたのである。
食料品を主とした交易品を渡す代わりに、『聖印紙』なる霊験あらたかな紙を受け取るのだという話も聞いてはいたが、当時のリクに理解出来る話ではなかった。父から『聖印紙』を見せられもしたが、模様の描かれた紙という印象だけである。曲線が複雑に入り乱れる図柄で、裏返せば同じ模様が描かれているのだが、刺繍でもインクでもない。紙の表面を撫でると、模様に沿って若干の凹凸が感じられる。裏面はというと、こちらも同様に図柄が、触れてはじめて感じられる程度には盛り上がっている。紙のなかに一本の糸が通っている、と言えばイメージ出来るだろうか。実際には糸など通されていないのだが、印象としては近しいものがある。リクの父はそれを『祈りが織り込まれているんだ』と表現したが、実際に織り込まれているのは魔力である。魔力を紙に映し込めた、一種の工芸品であった。
案内役の老婆が表の戸をノックすると、ややあって扉が内側から開かれた。いかにも陰湿そうな目付きの小男が、ひょいと顔を覗かせる。
『おぉ……ハイデアさん。……これはどうも』
どうぞ、おあがりください。小男はそう言って二人を招き入れた。父の名が小間使いの男にまで覚えられているという事実が尚一層、少年にはつまらなく思えた。こんな辺鄙で陰気な土地に顔が利く父を恥ずかしく感じたのだ。
小男が室内を先導し、やがて二人は奥まった一室に通された。部屋全体に紫色の厚布が降りていて、中央に丸テーブルと椅子が二脚。
『すぐにもうひとつ椅子を持って参りますので……お待ちを』
擦れた笑い声を残し、小男は去っていった。
父に肩を叩かれて、リクはびくりと身体を震わす。
『そう怯えなくていい。大丈夫だ。少し変わった場所に思うだろうが、別におかしなことはない』
『……はい』
このところリクは、誰にでも敬語を使うようになっていた。より厳密に言うなら、父と距離を置くために、少しよそよそしい言葉を使おうと心がけていたのである。父にだけ敬語を使うのは妙な警戒心を刺激する恐れがあり、結果的にリクは誰に対しても比較的丁寧な言葉を扱うようになったのである。
足音がして、小男が椅子を一脚持って戻ってきた。
『や、お待たせしましたな』小男は二脚の椅子を寄せ、自分の持ってきたもう一脚を対面に据えて座った。『さ、お座りになってください』
てっきり小間使いだと思っていたのだが、どうやらこの男が村長であるらしい。それを知り、リクはますます嫌な気分になってしまった。このヒキガエルに似た男が『神聖な一族』だというのだろうか。リクの年齢でも、それがあまりに馬鹿馬鹿しいということは分かった。
『失礼します』
一礼して、リクに座るよう促す父が鬱陶しかった。反感を覚えながらも言う通りにしてしまう自分も、不愉快だった。
『で』小男は陰のある笑みを浮かべ、リクを見やった。『この子が……モリーさんの、お子さんですかな?』




