Side Sinclair.「夜の部屋と三人の女」
※シンクレール視点の一人称です。
薄く開いた視界に、橙色の光に照らされた焦げ茶色の床板が映っている。瞼を擦って伸びをすると、意識が少しだけクリアになった。
丸テーブルの上のランプが、柔らかい光で部屋を満たしている。テーブルの上には魔術書が一冊、開かれたままになっていた。それを読んでいるうちに微睡んでしまったんだろう。
椅子に腰かけたまま部屋を眺めているうちに、心が安らいでいった。
壁の一面を占領した本棚には、魔術関連の本が隙間なく詰まっている。小ぶりの窓に縁取られた庭は、濃い闇に染まっていた。窓の反対側、質素なドアの真上に掛けられた時計は、時針も分針も四時を指している。
ドアが控えめに開かれて、栗毛色の髪が見えた。
「おはよう、シンクレール」
「おはよう、クロエ」
クロエは慣れた様子で部屋に入ると、向かいの椅子に腰かけた。顔を見せたときからずっと、柔らかく微笑んでいる。どことなく悪戯っぽい笑顔だけど、それは彼女の笑みの特徴なんだ。僕の一番好きな表情。
「なにか飲む?」
「君はなにが飲みたい?」
と言っても、この部屋には紅茶くらいしかない。返事を待たずに立ち上がり、背後の食器棚からティーポットとカップふたつを取り出して、テーブルに置いた。
「あたくし、お紅茶が飲みたいわ。淹れてくださるかしら? いつもみたいに」
顔を上げると、さっきまでクロエの座っていた場所には彼女の代わりに、深い蒼色の髪をした女性が腰かけていた。襟と袖にフリルをあしらった、丈の長い純白のワンピース。絹の手袋。
「すぐに淹れるよ、トリクシィ」
自然と口から言葉が流れ出す。
トリクシィとクロエを錯覚するだなんて、僕はよほど寝ぼけていたんだろう。
ティーポットの蓋を開けると、そこにはすでに葉が入っていた。指先をポットの内側に一センチほど入れる。やがて指先からお湯が流れ出し、噎せるような濃い華やぎが鼻腔を刺激した。
「シンクレールさん」
「なんだい?」
目はポットから離してはいけない。うっかりお湯を入れ過ぎて中身をこぼしてしまったら、きついお仕置きが待っている。
「今夜もしっかり、あたくしのサポートをするのよ。前みたいに、あたくしの足を凍らせたりなんかしたら――哀しいわ」
扉の上の時計を見やると、時刻は九を指していた。
そうだ。僕たちはこれから夜間防衛に出なきゃいけない。トリクシィの補佐役として、完璧以上の働きをしなきゃいけないんだ。
以前、魔物との戦闘中に誤って彼女の足を凍らせてしまったことがある。最低最悪のミスだった。わざとやったわけじゃないんだけど――。
「いいえ。わざとやったのよ」
トリクシィの声が部屋に反響した。視線が、引き寄せられるように自分の足元に落ちる。彼女の顔を、どうしても見ることが出来なかった。
「あたくしの支配から逃れたくて、シンクレールさんはわざとあたくしの邪魔をしたの」
そうかもしれない。
「あたくしが魔物に殺されればいいと思ったんでしょう?」
ハッとして顔を上げると、トリクシィの潤んだ瞳と視線がぶつかった。
「そんなこと、ないよ。僕は無能だから、君の足だけを狙って凍らせるなんて出来ない」
「そう……。そうね。確かに。貴方は駄目な人だもの。無能なのに人一倍頑張ってしまう人だもの」
口元が引きつる感覚があった。そういうとき、僕は大抵笑っている。トリクシィと一緒にいると、笑うしかないときがよくある。
「君の言う通りだよ」
「いい笑顔ね、シンクレールさん。こんなに馬鹿にされてるのに、貴方はとても嬉しそう。あたくしの奴隷でいるのが本当に幸せなのね」
「そうなんだ」心が軽い。「僕はそういうのが一番安心する。足蹴にされてるうちは、誰かに期待されることもないんだ。だから、期待に応えられない自分を直視しなくて済むんだよ」
トリクシィの手が伸びて、僕の頬に触れた。絹の感触が彼女の肌の温かさと馴染み、いっそう滑らかな触感を生んでいる。
「自分で物事を決めなくて済む」
「うん」
「なにかあっても、自分は悪くないと思える」
「そう」
「はなから期待されないことで、ようやくまともに戦える」
そうなんだ。
僕はずっとずっと、そうやって生きてきたんだ。
トリクシィの靴を舐めるために生まれてきたと言ってもいい。踏みにじられることに快楽を覚える性癖はないけど、そこには確実に安堵がある。虐げられているうちは、自分を失っていられる。
トリクシィの足を凍らせたのは――。
「ご主人様に、じゃれついただけなのね」
僕は彼女に甘えたんだ。
かなり際どい失態を演じて、それで、鞭を求めたんだ。
奴隷は忠実であるよりも、打たれるような失敗をときどきするくらいが適切なのだと、そう思っていたんじゃないか?
今夜の戦闘では、トリクシィを丸ごと氷漬けにしてみよう。もちろん彼女が本当に魔物に殺されそうになったら、命がけで守るつもりだ。ご主人様を失いたくはない。でも、途方もない失敗をしたい。
僕はもっと、僕から自尊心を剥ぎ取ってしまいたい。
「なにを泣いているのかしら?」
トリクシィの手が、頬から離れる。
右目の目尻から、頬骨、顎へと、熱を帯びた液体が這う感触があった。それに気付くと、もう止めどなくなってしまう。両目から溢れた涙で、彼女の姿が歪んだ。
目を閉じ、再び開けるまでの僅かな間に、身を包まれた。肩を抱かれ、後頭部を撫でられ、顔には柔らかな感触。
「もう戦わなくていいんだよ、シンクレールくん」
見上げると、装飾だらけの女性の笑みがあった。張りのある肌は紫で――。
「あ、いや、ごめん。泣いたりなんかして」
思わず身体を離そうとしたら、逆にきつく抱きしめられてしまった。なんだかそれが、とても申し訳ないことに思えてならない。
だって僕は、あまりにひどい勘違いをしてしまっていたから。シャンティのことをトリクシィやクロエと混同するだなんて。
「泣いたっていいんだってば」彼女は小さく声に出して笑った。「シンクレールくんは心に傷を負ってるんだから。幻覚を見ちゃうのも仕方ない」
そうだ。全部幻覚なんだ。
僕はクロエと再会なんてしていない。
トリクシィは、とっくの昔にどこかへ消えてしまった。
僕はシャンティとの決闘に負けて、彼女のものになったんだ。王都は彼女の部隊に落とされて、生き残った人間は僕ひとり。
横目で時計を見ると、時針も分針も秒針もなかった。意味をなさない文字盤があるだけ……。でも実際、時間なんてもう関係ない。今が何時だろうと、常に外は夜なんだ。シャンティが王都を支配し、グレキランス地方もハルキゲニア地方も血族のものになってからというもの、世界に昼はなくなった。
戦争が終わってから、もう一年になる。
「シンクレールくんのことは、私が守ってあげる。もう誰もキミを責めたりしない。誰もキミに厳しい要求をすることはない。戦って、傷付いて、報われなくて、苦しむことも、ないんだよ」
僕は彼女を、ただ見上げている。
そんな僕を見下ろして、彼女は笑う。しょうがないなぁ、と言いたげに、笑う。
それから彼女は僕の目を隠して、唇を重ねた。
胸にじんわりと染みていく感覚は、幸せと名付けるべきものだと思う。
遠くでなにかが破裂するような、そんな音が耳を揺らし、幸福にヒビが入った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




