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963.「白銀世界の幸福論」

 やがて訪れた馴染み深い瞬間を、呆然(ぼうぜん)享受(きょうじゅ)した。粉々になった肉体のあとで、意識だけが無感覚に存在しているような状態。何度も味わわされた、死の先の空白。


 それも、しばらくすると消え失せた。代わりに眼前に展開されたのは、一面の銀世界である。綿雪が音もなく降っていて、雪の粒が衣服に点々とまとわりつく。分厚い曇天(どんてん)の下、(はる)か遠くの山並みが(かす)んで見える。真っ白な世界には一本の(わだち)が伸びていて、わたしはちょうどその上に立っていた。


 すぐそばの足元には、蝋燭そっくりの肌の色をした男がうつ伏せになっている。死体にしか見えなかった。でも、元来(がんらい)死体のような男だ。


「ヨハン。生きてる?」


 するとヨハンは気だるげに薄く目を開き、ゆっくりと首を(ひね)ってこちらを(あお)ぎ見た。いかにも億劫(おっくう)でたまらないと言いたげな動きである。


 動いているということは生きているのだ。なら、別に問題はない。


 ヨハンはのそのそと身を起こし、その場にあぐらをかいた。がっくり肩を落として、これみよがしなため息ひとつ。


「寒いですね」


 自分で自分を抱きしめるようにして、彼は腕を摩擦(まさつ)した。小刻みに震えてもいる。


 確かに寒い。その感覚はわたしにもある。ただ、これまでの直接的な痛みに比べると、凍死はとても穏健な死に方に思えた。


「グレガーさんの手のひらの上だったわけですね」


 特大のため息が、彼の口元で白くわだかまる。


「あなたは二重歩行者(ドッペルゲンガー)なの?」


「ええ」


「なら、寒くないでしょ」


 ヨハンの腕を引っ張り上げて立たせようとしたが、意外なほど強く振り払われた。冷気に打ちのめされつつある脆弱(ぜいじゃく)な身体のどこにそんな力があったのか、不思議に思えるくらい強く。


 グレガーの作り出した幻覚の世界において、この轍は『聖樹宮』への一本道を示している。だから、わたしたちは先に進まなければならないのだ。そのことを彼が理解していないとは思えない。なにせ、ずっとわたしの影に隠れて進んできたのだから。


 ヨハンは(かす)かに震えながらも、じっとわたしを見上げていた。目を見開き、まばたきひとつしない。震える身体のなかで唯一、瞳だけは微動だにしなかった。


「お嬢さん、本物ですか?」


 本物とは、なんぞや。


 どちらかといえば二重歩行者(ドッペルゲンガー)――つまり分身である彼のほうがよほど偽物だろう。


「本物よ」


「ルドベキアの現在の(おさ)は?」


「ゾラ」


 ヨハンは額に手を添え、細く長く息を吐いた。もう探るような目付きはなくなっている。表情も、くたびれと安心の入り混じった脱力具合だった。


 グレガーの言葉通りであれば、ヨハンも二重歩行者(ドッペルゲンガー)を通じて死の幻覚を体験したのだろう。どんな死にざまだったのかは知らないし興味もないが、たぶん、わたしが関係していたのだと思う。でなければこんなふうに正体を確かめる必要などない。


「さて、行きましょうか」言って、ヨハンは片手を伸ばした。「立たせてください。膝が壊死(えし)してますので」


 あからさまな嘘だったが、()いて断る理由もなかった。


「どうもありがとうございます。ついでに肩を貸してください。膝が――いやはや、助かります」


 骨ばった腕だ。体重をかけているつもりなのだろうけど、全然軽い。肩を組んで歩いているせいで速度は遅いが、別段問題があるとも思えなかった。死の連続のなかで、わたしは一本道を進み続けたのだ。ときには走って、なんとか距離を稼ごうともした。合計で何キロ進んだのか分からないくらいに。ようやくたどり着いたと思った『聖樹宮』は偽物で、つまりそれすらグレガーの幻覚だったわけだ。もはや距離は問題ではなくて、進み続けること、そして死に続けることが唯一物事を進展させる方法なのではないかと思う自分がいる。


「いやはや、(あなど)りましたね。まさか幻覚のなかで幻覚を(あつか)うなんて、正直想定外でした」


 わたしに半身を預けながら、ヨハンが語る。(いわ)く、彼は確かに死の幻覚を味わったらしい。森でスピネルと一緒にいたはずが、二重歩行者(ドッペルゲンガー)を通じて唐突(とうとつ)に幻覚の世界に引き込まれた。今現在、ヨハンの本体がどうなっているかは本人にも分からないらしい。おおかた森の一隅(いちぐう)で意識を喪失しているとの(げん)だが、真実は幻覚に(おお)い隠されている。この瞬間、リアルに存在する意識は分身である二重歩行者(ドッペルゲンガー)のみで、本来は感じないはずの痛覚も――それさえ錯覚なのだろうけど――感じるとのことだ。つまりグレガーはヨハンの本物の意識を、偽物である分身に閉じ込めて、わたしが経験しているものと同等の死を、その痛苦を、味わわせているといったところである。


二重歩行者(ドッペルゲンガー)を解除すればいい」


 そう提案したのだけど、ヨハンは首を横に振った。


「お嬢さんをひとりにしておけません。……というのは建前で、解除そのものが出来ないんですよ」


「なぜ?」


「本体の意識がこちら側にあるからです。今現在、二重歩行者(ドッペルゲンガー)は本体の意識を持ちながら偽物であり続けているわけです。魔力は自動的に本体から供給されますが、それは意識して行っているものではなくて、無意識な、肉体の反応でしかありません。むろん本体に意識が戻れば、魔術の解除は容易ですよ。術者ですからね」


 聞く必要なかったな、と思った。ロジックを説明されたところで魔術師じゃないわたしに把握しきれるものではないし、なによりそれで状況が変わるわけではない。気休めに安逸(あんいつ)を覚える回路は、今のわたしにはない。


「お嬢さん」


 ふ、っと肩から重みが消えた。ヨハンは自分の力で歩き、大股でわたしの前を行く。後ろからではよく分からないが、目元を押さえているように見えた。肩が小刻みに震えているのは寒いからだろう。いい加減わたしも足の感覚が曖昧(あいまい)になってきている。


「目的を達成したら、どうかご自身の幸せを追求してくださいね」


 なにを突然言うのだろう。そもそもわたしはもう、この先ずっと、幸福を我が物として感じることはないだろうに。


「幸せって、なに?」


「なんでもいいんです」


 ヨハンは(にわ)かに声を荒げ、歩調を速めた。彼の速度に合わせてわたしも速足になる。


「田舎に引っ込んで草花を()でるでもいいし、誰かとまた結婚してみてもいいし、あちこちを旅してみるのでもいいんです。とにかく幸福になってくれなきゃ、駄目なんですよ」


 珍しいな、と思った。こんなふうにヨハンが押しつけがましい幸福論を展開することはなかったはずだ。(じつ)は皮肉屋ではないのかもしれない。あるいは衝動的に言葉にしてしまっただけかも。たぶん後者だ。


 死の痛みとその記憶というやつは、わたしが思っている以上に巨大で、耐え(がた)く、人を狂わせるのだろう。きっとそうだ。


 ヨハンが泣いているのを見る日が来るなんて、思わなかった。


 凍てつく銀世界に、雪と、ふたり分の足音だけが積もっていく。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて


・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて


・『二重歩行者(ドッペルゲンガー)』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて


・『聖樹宮(せいじゅきゅう)』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて


・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて

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