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106.「大虚穴」

 腕に痺れを感じた。


 虚穴(うろあな)の下、暗黒から湿ったぬるい風が吹き上げてくる。


 より強く、腕全体に力を入れた。後で彼の手首に(あざ)が出来るくらい構うものか。それで済むなら何度でも謝ってやる。


 ランプと鞄から手を離し、両手でヨハンの腕を掴んだ。肺いっぱいに息を吸い込み、渾身の力で引き上げる。


 背負ったときには軽く感じた彼の身体は、体勢と状況からか随分重い。それでもなんとか崖際まで引っ張り上げることに成功した。


 大きく息をつく。少し眩暈(めまい)がした。


 もしヨハンが一般的な体重だったなら引き上げるのはずっと困難だったろう。下手をすれば道連れだった。この状況が余計に体力や精神力を奪っているらしく、疲労が全身を巡った。


大虚穴(おおうろあな)』は地上まで突き抜けているわけではないようだ。見上げると漆黒の(とばり)が降りている。頂上までの距離に関して、今は考えたくなかった。地上から洞窟までの下りが一時間以上。なら登りは余計に時間がかかる。全身の疲労と、意識不明のヨハンを連れての行軍だ。おまけに足を踏み外せば奈落へまっしぐら。


 魔物との戦闘とは勝手が違う。今までも傷を負った騎士を街区まで背負って戻ったことはあったし、気絶した仲間をかばいつつ戦うことも経験済みだ。しかし、王都から遠く離れた場所で任務をすることはなかった。従って、味方を背負っての行軍も逃亡もはじめてのことである。


 なんとかスライムから逃げおおせたが、果ての見えない登り階段が待っている。足場だって狭い。


 呼吸を落ち着かせ、ヨハンを一瞥した。急ぐ理由も、ここにある。


 鞭打ってでも先に進まなければならない。大丈夫、まだ倒れるようなことはない。


 ヨハンの口元に手のひらをかざした。一応、呼吸はしている。手首を取って脈を確認したが、鼓動もしある。ただ、呼吸も鼓動も先刻(せんこく)より弱まっていた。


 彼を背負い、鞄とランプを持った。休憩は終わりだ。


 一段一段と進んでいく。大穴の周囲に掘られた粗い階段は幅も高さも不揃いだった。しかし贅沢は言っていられない。とにかく上を目指して足を運んでいくしかないのだ。


 登り切った場所に扉があるとヨハンは言っていた。そこからも少し進むらしいが、扉に入ってしまえば転落の危険はない。それだけでも充分だ。


『大虚穴』の下層から吹き上げる風は不気味な音を鳴らしていた。魔物の唸り声に似ている。大穴の階段は湿った風の影響か、(すべ)りやすくなっていた。『毒瑠璃の洞窟』ほどではなかったが、足を滑らすことのないように細心の注意が必要である。ここで滑落(かつらく)してしまったら全ての努力が水泡に()す。


 疲れからか、耳の調子がおかしかった。自分の呼吸音がやたら間近に聴こえる。特に右の耳には膜が張っているように、変な具合に響いていた。手には痺れを感じる。頭は鈍重で、はっきり意識しないと目の前の階段を正確に踏むのも困難だった。


 休むべきだろうか。そう考えて、背に感じる鼓動を想った。駄目だ。


 ヨハンがどんな目的でハルキゲニアを目指していたのか、具体的には全く知らない。ただ、道中で彼の助けを得た。本当に、たくさん。


 ダフニーでの彼は最低だったが、『関所』の戦闘は方法さえ考慮に入れなければ彼の功績は大きい。カメリアからマルメロまでの間は宿や食事を立て替えてくれた。そして、ケロくんとアリスの潜伏していた廃墟から無事帰ることが出来たのはひとえにヨハンのおかげである。ハイペリカムでのラーミア戦でも、彼の力は必須だった。


 我儘(わがまま)で好奇心の強いわたしを正しい方向へと導いてくれた。そのように感じる。


 もしかしたらセンチメンタルな気持ちに囚われているだけかもしれないけれど、今ここで死なれたらなんの恩も返すことが出来なくなる。


「ギブ……アンド……テイク、でしょ。……だから、わたしがちゃんと返すまで、生きてよね……」


 ヨハンの返事はない。当然だが。


 ふと思う。もしこの大穴に昼間でも活動可能な魔物が潜んでいたらどうだろうか、と。


 終わりだ。この疲労と足場でヨハンを守りつつ戦うのは不可能である。情けないことだが、祈るしかなかった。


 幸いなことに魔物の気配はない。スライムの気配が読めないのは魔物としてあまりに貧弱な種だから仕方がないとしても、他の魔物は全て相応の気配を持つ。例外はない。少なくとも、わたしの経験上は。


 するり、と足が滑った。思わず両手を突いて踏ん張り、ぐらりとずれる背中のヨハンをなんとか支える。彼の鞄はなんとか掴んでいたが、ランプは奈落へと落ちていった。


 暗闇に灯りが呑まれていく。


 呼吸が乱れる。冷や汗が顔を伝う。


 馬鹿だ、わたしは。集中しろ。


 ランプを失い、辺りは闇に包まれていた。目が慣れるまでは、それまでよりもずっとずっと慎重に登っていく。


 胃の底が冷える。足には滑った瞬間の感覚が残り、それを思い出すたびにぞわぞわと悪寒が走った。


 怖い。身体が(すく)む。


 本当にそう感じた。魔物との戦闘よりも、だ。自分の一挙手一投足で運命が決まってしまう。呆気(あっけ)ないくらい、命は簡単に散る。落ちたランプがわたしとヨハンだったとしてもおかしくないのだ。


 右足の(すね)に痛みがあった。この闇の中では確認が難しいが、まず間違いなく足を滑らせたときの傷だろう。もしかすると血が出ているかもしれない。


 段々と目が慣れてくる。それでも意識を張り詰めさせ、一歩一歩慎重に登った。大丈夫だ、一段ごとに目的地に近付いている。これは永遠に続くわけじゃない。必ず終わりは来る。そう言い聞かせないと足が止まってしまいそうだった。


 わたしは今どんな顔をしているだろう。多分、酷い表情だ。汗もそうだし、きっと涙も出ている。心は油断するとぐしゃぐしゃに潰れてしまいそうだった。


 それでも足を決して止めなかった。


 大穴は相変わらず風の唸り声が響いていた。それはわたしたちが落ちてくるのを待っているようにも思える。早く落ちろ、早く呑ませろ、と。


 残念だけど、落ちるつもりなんて全くない。やり遂げて見せる。


 この行路の果てがどこに行き着くのだろうか。ハルキゲニアのどこに繋がっているのだろう。地上に出た瞬間『騎士団』とやらに囲まれてしまうかもしれない。そうなれば、こちらもサーベルを抜くだけだ。ヨハンの命がかかってる。ハルキゲニアのくだらない自治に従うつもりはない。


 ともあれ、無事彼の治療が出来る人間に出迎えてもらえればそれが一番だ。ヨハンを預けて、それから多分、ばったりと倒れるだろう。糸が切れた人形のように。それまで集中力を切らせてはいけない。後々どんな苦しみがやって来ようとも、命と比較すればなんと安いものか。




 何時間登ったか分からない。二時間か、あるいは三時間以上か。下手をすると半日かもしれない。時間の感覚はすっかり失われていた。


 それを目にしたとき、一瞬緩みかけた気を再度引き締め直した。


 階段は終わり、崖には鉄扉(てっぴ)が取り付けられていた。おそるおそるノブを回すと、それは祝福するように開いた。気を抜かずに内側へと入る。


 扉の中は、更に階段になっていた。少し登っては直進し、登っては直進し、それを何度か繰り返す。道幅は狭く、それが(かえ)って落ち着いた。


毒瑠璃(どくるり)の洞窟』と『大虚穴(おおうろあな)』。危険な箇所は突破した。後は地上がどうなっているのかだけだ。


 道は行き止まりになっていた。梯子がかけられ、低い天井には跳ね戸が設置されている。


 ヨハンを背負い直し、梯子を登る。


 もう少しだ。もう少し。


 跳ね戸は非常に幸運なことに開いていた。どうしてなのかは分からない。ヨハンの帰還を待っていたからこそ鍵がかけられていなかったのかもしれない。


 戸の先は質素な石造りの空間だった。『休憩所』くらいの小部屋だろう。家具類はなにもなく、天井に下がったランプが周囲を照らしていた。そして、正面には更に階段が続いている。


 靴音がして、何者かがその階段を降りてくることを察した。ゆっくりとヨハンを下ろし、サーベルに手をかける。


「お待ちしておりました。ヨハンは(わし)が責任を持って恢復(かいふく)させますので、ご心配なく。儂は敵ではありません。どうか、武器を納めてください」


 白い髭を(たくわ)えた白髪の老人。古ぼけたローブ姿は、いかにも魔術師然としていた。


 ぼやけた意識の中でもはっきりと分かるくらい、彼は強力な魔力を持っていた。そんな人物はそうそういない。たとえば、大都市の防衛を古くから(にな)っていたような者くらいか……。


「ヨハンを……ヨハンを、助けてあげて下さい」


「当然です、お嬢さん。貴女も大変な苦労を負ってここまで来たことでしょう。貴女がたが近付いてくることは魔力で分かりました。迎えに行くことが出来なくて申し訳ありません。……儂はレオネルと申します。貴女がいなければヨハンは危なかったかもしれない」


 その老人――レオネルは、ヨハンの心臓に手をかざした。その手のひらから柔らかい魔力が流れ、ヨハンへと注がれていく。


「ヨハンは魔力が枯渇(こかつ)しかけておりました。しかし、これでもう安心です。貴女が無理をしてまで先を急いでくれたおかげでしょう」


 そうか。それなら、いい。


 間に合ったんだ。


 レオネルは(ふところ)からハンカチを取り出して、こちらに差し出した。


「さあ、涙をお拭きになってください」


 ハンカチの受け取り、目を拭う。涙はいつまでもいつまでも流れ続けた。


 良かった。本当に。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。



・『ダフニー』→クロエが転移させられた町。ネロとハルの住居がある。詳しくは『11.「夕暮れの骸骨」』にて


・『カメリア』→最果ての町。かつて(さか)えていたものの現在は人口が減少し、町の半分程度が廃屋。食料品店と宿泊業で細々と(まかな)っている。詳しくは『44.「カメリアの廃屋にて」』参照


・『マルメロ』→商業の盛んな街。タソガレ盗賊団のアジトから近い。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて


・『ハイペリカム』→ハルキゲニアの手前に位置する村。『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』の舞台


・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』参照


・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場


・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて


・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場

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