101.「無害な猛獣」
憂鬱な霧は相変わらず周囲の景色を曖昧にしていた。
どのくらい時間が経ったか分からない。五メートル先すら薄ぼんやりと霧がかかっている。濃霧と言って差し支えないだろう。
「なんだか憂鬱ね」
黙々と進むだけではどうにも気分が沈んでしまう。パッと明るい気持ちになるのは無理にしても、気を紛らわすくらいはしたかった。
「ええ、憂鬱ですね」
「なにか気が晴れるような話はない?」
ヨハンは顎に手を当てて唸った。間延びした声が霧に溶ける。
ちらとヨハンが提げた鞄を見た。いつものごとく魔力を放っている。怪しげな道具が色々と詰まっているのだろう。
ナイフケース。黒塗りの小箱。そして鞄本体。これまでの道中でそれだけの、魔力が籠った道具を目にしてきた。どこで仕込んだ物やら見当もつかないが、どうせろくでもない方法で手に入れた物ばかりだろう。
ヨハンは魔術師には間違いなく、従って魔具の使用は出来ないようであった。
魔術師は魔具を使えない。魔力の干渉により、相互に破滅的な影響を与え合ってしまう。ヨハンの持つ道具は、どれも魔具と言えるほどの物ではなかった。ナイフケースも小箱も鞄も『魔道具』にあたる。
魔道具――特定の目的のためにのみ出力を限定された装置。動力源は技師や職人の籠めた魔力と言われている。干渉を起こすほど高度な魔術が施されていないため、魔術師でも利用は可能だ。
「ところで、その鞄には一体なにが詰まっているのかしら?」
「内緒です」
「『関所』の扉を吹き飛ばした爆弾も、その鞄に保管していたの?」
「そりゃあ、まあ。勿論、細心の注意を払って扱っていましたよ」
それは当然だ。貴重品であることもさることながら、不意に爆発なんてしようものなら……。
「ふうん。爆弾はどこで手に入れたの?」
「さあ、どこでしょう。忘れちまいましたなぁ。なにぶん、三歩歩けば忘れてしまうような人間ですからねぇ、私は」
「なによそれ。なんだか雑な誤魔化し方ね」
控えめなため息が隣で漏れた。「こんな霧の中では、どうも調子が出ないんでさあ……。足場も悪いですし、気が晴れるような発見もなし。全く、気落ちする一方ですよ」
「そうね……」
それからは黙って歩いていたのだが、段々と霧が濃くなっていくような感じがした。髪も服もしっとりと重たくなり、自然と足取りも鈍くなる。
仕方なしに進んでいると、不意にぞわぞわと背筋に悪寒が走った。
なにかに入った。そう感じたのだ。具体的に正体を捉えることは出来なかったが、明らかに空気が違っている。その唐突な変化に不吉な予感を覚えずにはいられない。
「なにか変な感じ……」
ぼそりと呟くと、ヨハンは怪訝な顔をして見せた。
「お腹でも空いたんですか? 私はなにも感じませんけど……」
「ふざけてる場合じゃない……かもしれない」
はっきりと危機として伝えることが出来ないのがもどかしい。同じ感覚を味わっている相手なら共有出来るだろうが、あまりに微妙な違和感である。ヨハンならば察知してくれているのではないかと思ったのだが、買いかぶり過ぎているのかもしれない。
なんにせよ用心するに越したことはない。
「なにが変なんです?」とヨハンは追及する。
「上手く言い表せないけど、空気が変わった感じ……」
「空気ねぇ」
ヨハンはいかにも興味なさそうに呟いた。どうやら、この湿原でトラブルが起こることはないと踏んでいるようである。緊張感もなければ覇気もない。
「突然キマイラが出てきたらどうするのよ。あるいは他の魔物が――」
言いかけて、思わず足が止まった。訝しげにヨハンが振り返る。
魔物の気配。それも、ゆっくりと接近している。多分大型だ。獅子の頭を思い浮かべて、汗が背を伝った。
「どうしたんです? お嬢さん」
「早く行きましょう。洞窟まであとどのくらいかしら?」
「どうでしょうねぇ……三十分から一時間、といったところでしょうか?」
ヨハンを急かすように歩を速める。その魔物の気配――キマイラとの遭遇は避けたかった。その強靭な爪と尋常でない生命力、そして尻尾の蛇が持つ猛毒。
「聞いて……! 魔物の気配がする。多分キマイラよ」
「はあ、そうですか」
気の抜けた返事。ひっぱたいて目を覚まさせてやりたい。なにを寝惚けているのだ、この骸骨男は。
「どうしてそんなにとぼけた返事が出来るのかしら? キマイラを知らないの?」
「ええ。お嬢さんの仰るキマイラはあまり馴染みがないです。勿論、知識としては知っていますが……。その知識と、吶喊湿原のキマイラはあまりにもかけ離れた存在です」
かけ離れた存在?
どういうことだろう。落ち着いて歩みを進めるヨハンに、こちらも歩調を合わせなければならなかった。
「どうかけ離れてるの? 草食だとでも言うのかしら?」
「ご冗談を……。無論、肉食です。ただ、血の匂いのしない生き物は絶対に襲わないんです。そういった意味では無害とまで言えるでしょうね」
「……すぐそばまで接近しても襲わないってこと?」
ヨハンはぼんやりと頷いた。
信じがたい答えである。魔物は魔力に寄せられて人を襲う。これが原則だ。
血に寄せられ、血の匂いのする獲物を襲うなんて、あまりに限定的だ。
魔物の気配は徐々に強くなってきた。心臓の鼓動が強くなる。いざというときのため、サーベルに手をかけた。
「お嬢さんは自分の常識にがんじがらめだ。いや、それが悪いことだと言うつもりはありません。ただ……先入観で物事を判断するととんでもない誤りを仕出かしますよ」
「お説教じみたことを言わないで」
「へえへえ」
ヨハンは肩を竦めた。
彼の言葉は充分理解出来た。確かに『最果て』では未知の出来事があまりに多い。
畸形のキュクロプスや、スパルナの存在。加えて、ヨハンの使用する遅延魔術。どれを取っても今までの経験の枠に収まるものではない。ならば素直にヨハンの言葉を信頼すべきなのだろう、本来は。
「もしキマイラがわたしたちの傍まで接近したら戦うわ」
「なぜです? 無害と言ったでしょう? さすがに攻撃を仕掛ければ反撃を受けるかもしれないですよ?」
無害であれなんであれ、魔物である以上は斬らなければならない。
スパルナは例外中の例外だ。彼ほど人の側に立った魔物ならば一考の余地はあるが、キマイラ相手にそんな甘い心得では命がいくつあっても足りない。
キマイラの気配は近かった。前方二十メートルといった位置にまで接近している。
その旨をヨハンに伝えても、彼は冷めた顔で頷くだけだった。そして言う。「少しは私の言葉も信じたらどうです?」
信用出来る内容なら、ヨハンの口から発せられたものだとしても信じたって構わない。ただ、今回は妄信出来るような事柄ではない。
サーベルを抜くとヨハンは足を速め、わたしを先導するように先を歩いた。
やがて霧の向こうに、ヨハンの身長ほどもある獅子の顔が現れた。息が止まり、手足が電流を受けたように震える。
ヨハンは前方に佇んだキマイラの脚の間を抜けて歩いて行く。
狂っているのか、ヨハンは。自殺志願者でもそこまで大胆な行動は出来ない。息を飲んでそれを見ていると、やがて彼の姿は霧の先に消えた。
追う必要はあった。しかし、獅子の股を潜る気にはなれない。キマイラの横を通り抜けるようにしてヨハンを追った。
途中でキマイラを振り仰ぐと、奴はこちらを眠たげな眼で見つめていた。
――気付いている。にもかかわらず襲う気がないのだ。それはあまりに異様な幸運だった。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
追いついたわたしに、彼は呆気なく投げかけた。
ヨハンの言うようにキマイラは一切襲ってこなかった。
ヨハンは涼しげにこちらを見つめて、前方を指さした。
「あれが入り口です」
目を凝らすと、前方に土の盛り上がった箇所があった。そこ到着するとヨハンはしゃがみ込み、探るような手つきで土に触れた。やがて目的物を見つけたヨハンは、それを持ち上げる。
――跳ね上げ戸。地面が一部消え去り、ぽっかりと暗闇が口を開けている。
「先に入りますから、後から来てください。それと、入ったら蓋を閉めてくださいね」
ヨハンが穴に飛び込むと、少しして着地音が聴こえた。わたしも蓋を持ちつつ彼に倣う。
落下の過程で蓋は閉まり、真っ暗な空間を下へと落ちていく。やがて両足に想定外の衝撃を感じ、じわりと骨が痛んだ。
マッチを擦る音がして辺りがパッと明るくなる。ヨハンが灯したランプで周囲の様子が確認出来た。天井はそれほど高くない。飛び跳ねれば蓋まで容易に手が届く。視界の欠如により感覚が狂っていたのであろう。
その洞窟は下へ下へと階段が延びていた。見る限り一本道である。
「それでは行きましょう」と言い残して彼は階段を降りていった。
ハルキゲニアの異常な魔物。
それはこの都市に溢れる魔力となにかしらの関連性があるに違いない。おそらくは奇怪な繋がりが。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ヨハンのナイフケース』→用途不明。初出『17.「夜明け前~ハルと死霊術師~」』
・『ヨハンの黒塗りの小箱』→用途不明。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『ヨハンの鞄本体』→交信魔術の施された鞄。詳しくは『17.「夜明け前~ハルと死霊術師~」』にて
・『爆弾』→『関所』の鉄扉を吹き飛ばした爆弾。作中では貴重品とされている。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』にて
・『畸形のキュクロプス』→詳細は『51.「災厄の巨人」』参照
・『スパルナの存在』→人型魔物。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』にて
・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて




