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は~わ 


ハイエ、ヴィルヘルム

August Wilhelm Heye

1869-1947


 原隊は第70歩兵連隊(ラインラント第8)。中佐の息子で得をするほどの出自ではなかったが順調に出世し、中佐て迎えた第1次大戦では東部戦線で軍団参謀長に起用される。1917年にはアルブレヒト大公軍集団参謀長となり、平穏な西部戦線南部を終戦近くまで担当する。1920年からゼークトの下で軍務局長。1926年のゼークト失脚とともに統帥部長を継承。1930年に辞職。最終階級は上級大将。第2次大戦期には起用されなかった。



フライヘア・フォン・デア・ハイテ、フリードリヒ

Friedrich-August Johannes Wilhelm Ludwig Alfons Maria Freiherr von der Heydte

1907-1994


 13世紀までさかのぼれる軍人一家の出身。戦間期に法学博士号を取りオーストリアの大学や外交でキャリアを得ようとしたが、政治的な言動が見え隠れして妨げになる。予備役軍人としてドイツ国籍も残していたため、1936年から軍に復帰し、1938年から陸軍大学校に進む。参謀士官となってから1940年に空軍の降下猟兵に転籍し、クレタ島作戦などに参加する。第6降下猟兵連隊長としてノルマンディーでカランタンを守り、次いでヴァルター戦闘群に属してマーケット・ガーデン作戦に立ち向かう。ラインの守り作戦時に降下して負傷し捕虜となる。最終階級は中佐。



パイパー、ヨアヒム

Joachim Peiper

1915-1976


 ヨーヘン(Jochen)は愛称。ヒトラーユーゲントからSSに入り、ヒムラーとの関係が微妙なLAH連隊に属したが、ヒムラーからも副官に登用される。大戦が始まるとLAH連隊に戻り、1942年にLAH旅団に装甲兵員輸送車が配備されると、大隊長としてそれらを任される。当時の教則を越えた積極的でリスキーな用兵に慣れることは部下にも容易ではなかった。1943年12月から師団の装甲連隊長をつとめる。アルデンヌ攻勢でも最先頭を進むが、イタリアとアルデンヌで後に戦争犯罪とされる事件があり、戦後に指揮官として責任を問われる。死刑判決を受けるが減刑運動が続き、1956年に仮釈放を受ける。フランスで生活していたところを反ナチ活動家たちに発見され、火炎瓶による攻撃のあと遺体が残される。最終階級はSS大佐。



ハインリーツィ、ゴットハルト

Gotthard Heinrici

1886-1971


 原隊は歩兵。第1次大戦中の速成課程で参謀士官。ヒトラー政権成立直後に大佐。ドイツ再軍備の過程で師団長となり、フランス戦以降は歩兵軍団長。モスクワでの敗退後の混乱期に第4軍司令官となり、地味な戦場を支え続ける。1944年5月に病気休職してバグラチオン作戦に巻き込まれることを免れる。8月にはモーデルが西部戦線に転じた玉突き人事でラウスの第1装甲軍を引き継ぐ。大戦末期にはヒムラーからヴァイクセル軍集団司令官を引き継ぎ、ベルリン防衛戦に関わる。さいわい大戦末期の混乱と解任劇でイギリスの捕虜となることができ、1948年に無事釈放される。最終階級は上級大将。



ハウサー、パウル

Paul Hausser

1880-1972


 原隊は第155歩兵連隊(西プロイセン第7)。少佐の息子だが名族というわけではない。陸軍大学校を出たが参謀少佐で終戦。1932年に名誉中将で退役。所属した国旗団が突撃隊に吸収され、1934年に親衛隊に移籍。以後、親衛隊の戦闘教官といった立ち位置となり、戦闘親衛隊の拡張に伴い昇進。1941年にモスクワ前面で片眼を失う重傷。思想的にどの程度NSDAPに共鳴していたかは議論あり。SS装甲軍団を率いて1943年春の第3次ハリコフ攻防戦で有名な無断退却(無断ではないという説の話はいずれ本編で)を敢行する。大戦末期には病死した(自殺と言われる)ドルマンを継いでノルマンディーの第7軍司令官となり、ファレーズ・ポケットからの脱出で重傷。G軍集団を任されるが、戦況悪化でヒトラーの機嫌を損じ罷免される。



パウルス、フリードリヒ

Friedrich Wilhelm Ernst Paulus

1890-1957


 原隊は歩兵。大戦後半に参謀士官となる。1934~1935年に大隊長を務めたのを最後に参謀、総監など指揮官以外の職を歴任する。1939年5月から、軍人仲間に不人気のライヒェナウの参謀長をつとめ、1940年9月に作戦担当参謀次長。1942年1月、ライヒェナウの後任として第6軍司令官。スターリングラードで包囲される中、降伏するなという暗黙の命令とともに元帥とされる。1943年2月に降伏したのち、ソヴィエトに協力する将軍たちの委員会に加わる。1953年にようやく釈放されたが東ドイツに残る。



パヴロフ、ドミトリー

Дмитрий Григорьевич Павлов(Dmitry Grigoryevich Pavlov)

1897-1941


 西部軍管区司令官→西部方面軍司令官(現在のベラルーシ担当)として、1941年6月にドイツの攻勢と通信妨害を集中的に浴びせられ、モスクワに召還されて反逆罪で処刑。家族も強制収容所に送られた。



パウンド、ダドリー

Sir Alfred Dudley Pickman Rogers Pound

1877-1943


 第1次大戦のジュットランド海戦では弩級戦艦コロッサスを率いる。すでに1933年から海軍大将だった。大戦直前から第一海軍卿。PQ17事件では重い責任を負う。次第に健康を害し、1943年9月に辞職したが、翌月死去。



バグラミャン、イワン

Ivan Khristoforovich Bagramyan(Ива́н Христофо́рович Баграмян)

1897-1982


 豊かな家庭の子ではなかったが、鉄道技術者学校も含めて8年間の教育(ジューコフは2年だけ)を受ける。ロシア陸軍で騎兵士官となり赤軍に転じた大筋はジューコフの経歴と似ているが、若いころから情報関係など机上の仕事がよく回ってくる。騎兵学校でジューコフやロコソフスキーと知りあい、2年制になった参謀本部大学校の一期生となる(シチェメンコの2年先輩)。このコースはプロの参謀士官を育てるもので、開戦には南西方面軍司令部の参謀として接する。


 かろうじてキエフの包囲から生還し、縁のできたティモシェンコの幕僚となるが、1942年夏に第2次ハリコフ攻防戦での不出来の責任を問われ左遷される。ジューコフの西部方面軍に引っ張られ、第16軍司令官とされてからも(1942年後半の西部方面軍に景気のいい戦勝はない)雌伏(しふく)は続いたが、1943年2~3月のジズトラ(ブリャンスク付近)作戦でいくらか前進を勝ち取ってスターリンにほめられ、第16軍は第11親衛軍に昇格する。クルスク戦後のクトゥーゾフ作戦でも軍司令官を続け、11月に第1バルト方面軍司令官に栄転。1944年夏のバグラチオン作戦に参加してソヴィエト連邦英雄。長いことクールラントのドイツ軍にフタをする任務に就いていたせいか、1945年初頭に第3バルト方面軍の作戦集団に格下げされてしまうが、第3バルト方面軍司令官として終戦を迎える。スターリン死後の1955年に元帥、1958年から68年まで補給担当国防大臣代理。



バッハ、ヴィルヘルム

Wilhelm Georg Bach

1892-1942


 第1次大戦中に従軍し、戦間期にはルター派の牧師をしていた。部下への当たりが柔らかく、困難にある部下たちをまとめて、当初は足の悪いバッハを低く見ていたロンメルも考えを変える。ハルファヤ峠の守備隊長として勇戦したが1942年初めに降伏。カナダの捕虜収容所でがんのため死去。死後中佐に昇進。



バトゥーティン、ニコライ

Nikolai Fyodorovich Vatutin(Никола́й Фёдорович Вату́тин)

1901-1944


 赤軍に徴兵され、独ソ戦開始時には参謀総長第一代理(作戦・補給担当)。間もなく野戦司令部で参謀長、また司令官を務め、1942年11月には南西方面軍司令官として、ルーマニア第3軍を壊滅させスターリングラードのドイツ第6軍を包囲する天王星作戦に参加する。翌1943年春には第3次ハリコフ攻防戦で苦杯をなめたが、クルスクの戦いからキエフ解放戦、コルスン包囲戦と勝利を続ける。だがウクライナのパルチザンにはソヴィエト自体からも独立を目指す一派があり、その襲撃を受けて負傷、のち死去。



バドリオ、ピエトロ

Pietro Badoglio, duca di Addis Abeba

1871-1956


 第1次大戦で既に軍の指導的地位にあったが、1917年のカポレットの戦いで軍団長を務め、惨敗の責任者と目されるひとりであった。戦間期にムッソリーニに接近し軍の重鎮として勢威を保ち、1925年から1940年まで陸軍参謀総長を兼任しながら、軍人総督としてリビア制圧にも携わる。エチオピア侵攻では途中から司令官となって化学兵器の使用に踏み切り、初代総督となってアジスアベバ大公の称号を受ける。1943年、戦果がイタリア本土に迫ると班ムッソリーニ運動に関わり、後継首班として国王の指名を受けるに至る。9月に国王とともにイタリアを脱出し連合軍の保護を受ける。



フォン・ハートリーブ、マックス

Max von Hartlieb-Walsporn

1883-1959


 原隊は歩兵。1920年代から交通兵部隊での勤務が多くなり、ヒトラー政権発足時には中佐。1935年には戦車旅団長。ポーランド戦後に第5装甲師団長。フランス戦ではロンメルの第7装甲師団に歩調を合わせられず、小規模な敵にこだわってロンメルの側面をがら空きにして、アラスの戦いで危機を招いた。すぐ罷免され、その後は後方司令部(コリュック)や訓練部隊などの後方職をあてがわれた。



フォン・パーペン、フランツ

Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen

1879-1969


 製塩業の旧家に生まれ、本編に記したように非常にリッチであった。原隊はヴェストファリア第5騎兵連隊。第1次大戦期にはアメリカ大使館駐在武官で数々の謀略を立てたが、計画倒れであった。参戦前のアメリカから追い払われ、西部戦線で歩兵大隊を率い、のちトルコで参謀として、また野戦指揮官として戦った。戦後間もなく政界に出たが、旧家の縁でカトリック政党である中央党に属した。その宗教的性質上、パーペンと気の合う君主制支持者もいたが少数派でしかなく、そうした交流は党内対立を招いた。そして旧友のシュライヒャーに目をつけられ、首相を任されることとなった。


 そしてシュライヒャーに見捨てられ、ヒトラーと結んでもやはり実権を奪われる様子は本編で取り上げるが、リッベントロップと旧知の戦友だったせいか、その後はオーストリア大使、次いで大戦期のほとんどはトルコ大使として(潜在的には)大切な仕事を任された。しかし弁舌だけで成果の上がる仕事でもなく、現地で情報を買っていたエリエサ・バズナの正体がイギリス情報部にすっかりバレていて偽情報ルートとして活用されるなど、やはり精彩を欠いた。



フォン・ハマーシュタイン=エクヴォルト、クルト

Kurt Gebhard Adolf Philipp Freiherr von Hammerstein-Equord

1878-1943


 古い軍人一家だが経済的には微妙。シュライヒャーの数少ない友人のひとりで、そのバックアップもあって陸軍総司令官に当たる統帥部長に就任する。ヒトラー政権成立直後に辞任。最終階級は上級大将。


 子供たちの多くは、多かれ少なかれ反ヒトラー活動に身を投じた。第26装甲師団長をつとめたズミロ・フォン・リュットヴィッツは妻の弟。


 利口/愚鈍、勤勉/怠慢の2×2類型で士官を分ける話はゼークトの言葉だと誤伝したが、実際にはハマーシュタイン=エクヴォルトの言葉である。本人は明らかに「利口で怠慢」であり、狩猟シーズンになると口実を設けてはオフィスを空けた。



ハリス、アーサー

Sir Arthur Travers Harris, 1st Baronet

1892-1984


 若いころは現在のジンバブエで農園主を目指して働いていたが、第1次大戦が起こって陸軍航空隊に志願し、ソッピース・キャメルで5機撃墜。妻子ができてイギリス本国に落ち着くことになり、やがて爆撃と夜間飛行の専門家になっていく。ポータルとフリーマンのコンビが空軍参謀本部に着任したころ、その下の参謀総長代理(DCAS)に着任する。いったん持論を持つと譲らず、アメリカに派遣されて対米交渉を行ったときなどは悪評をまき、爆撃機部隊司令官になってもポータルたちと意見が合わず話が進まない事案もあった。"ボマー"ハリスとして容赦のない都市爆撃を推進する役回りとなったが、もちろんこれは当時多くの専門家たちが勧めた方針であって。ハリスが特に残酷なことを思いついたわけではない。



ハリファックス伯爵エドワード・ウッド

Edward Frederick Lindley Wood, 1st Earl of Halifax

1881-1959


 子爵家の跡取りだったが1925年までは下院議員であった。1925年に自分がアーウィン男爵に叙されて貴族院に転じ、インド総督などを務める。1934年からハリファックス子爵。1935年から再び入閣したので、ボールドウィン~チェンバレン内閣での対独宥和発言が多い。チャーチル内閣でも外務大臣に留任するが、チェンバレンの死後アメリカ大使に転じる。1944年から初代ハリファックス伯爵。アーウィン卿の従属爵位は今でも嗣子(しし)の称号として使われている。



ハルダー、フランツ

Franz Halder

1884-1972


 バイエルンで続く軍人一家の子孫(主に砲兵、一部騎兵)。原隊は野砲兵連隊(士官候補生採用時、連隊長は父親)。主に参謀勤務や後方勤務で出世していったが、乗馬の腕は見事であったという証言がある。訓練の専門家として評価されて訓練担当参謀次長となったが、作戦担当参謀次長のマンシュタインが転出したためベック参謀総長のの皇太子のような扱いになり、ベックの失脚とともに参謀総長となる。1938年のクーデター計画は了承していたと言われる。1942年、東部戦線の行き詰まりからヒトラーに解任され、無官のまま(ヒトラー暗殺計画関連で収監され)終戦を迎える。最終階級は上級大将。



ハルリングハウゼン、マルティン

Martin Harlinghausen

1902-1986


 戦間期のドイツ海軍に入り、ヒトラー政権下で飛行訓練を受け空軍に移る。最終階級は中将。第10航空軍団参謀長としてノルウェー侵攻に参加し、フランス降伏後は軍団とともに地中海に転戦して通算撃沈商船26隻・12万7千トン。1941年3月から大西洋航空指揮官。1942年1月から第26爆撃航空団司令となり、航空雷撃に関する様々な指導的役職を兼任。1942年11月からチュニジア方面の航空戦を指揮したが、敗勢の中で空軍参謀本部と対立し、チュニジア失陥直後に予備役。1944年初めからは航空救難指揮官、航空管区司令官と閑職に回り、大戦末期にゲーリング失脚に伴いシュミット大将も解任されたため、短期間だけ西部空軍司令官となる。最終階級は中将。



ハンキー、モーリス

Maurice Pascal Alers Hankey, 1st Baron Hankey

1877-1963


 海兵隊砲兵大尉だったが、フィッシャー提督(のちガリポリ作戦を巡りチャーチルと対立)に優秀さを見込まれ、地中海から呼び戻されて国家防衛委員会に関わり、長く事務局長、内閣官房長、枢密院書記長の3職を兼ねていたが、1938年に引退。チェンバレンの戦時内閣にはランカスター公領担当大臣(無任所大臣ポストのひとつ)として参加。



ビーヴァーブルック男爵

William Maxwell "Max" Aitken, 1st Baron Beaverbrook

1879-1964


 カナダで巨大な財を作り、イギリスにわたって政治家となる。タブロイド紙デイリー・エクスプレスを買収して新聞王としても知られるようになる。男爵位を受ける直前の1916年には保守党のボナー=ローと自由党のロイド=ジョージを仲介して政治的同盟を成立させ、アスキス内閣を倒す。


 ロイド=ジョージ政権下で重用されたチャーチルに対しては顧問格として長い交際を結ぶ。1940年に航空機生産大臣として入閣するが、その手法は(一部に有効だった施策もあるものの)近視眼的であり、1941年には反発を受けて辞職する。その後も軍需大臣(陸軍物資の生産)として戦時内閣にとどまるが、大陸反攻作戦の時期などを巡って内閣で孤立し、1942年に戦時内閣を離れる。その後、1943年に王璽尚書(実質的に無任所大臣ポスト)として遇されるが、自分で重要な決定をする職には就かなくなる。


 アトリーが戦後に答えたインタビューによると、内閣では簡単に孤立し、チャーチルも助け舟を出せなかった。



ピウスツキ、ユゼフ

Józef Klemens Piłsudski

1867-1935


 ポーランド系ロシア人であったが、友人がナロードニキ運動に加わり皇帝暗殺を企てたため、連座して収容所へ送られ、本物の活動家たちと交流して仲間になり、ポーランド独立運動を企てる。第1次大戦では戦後の独立を期待してオーストリア軍に協力したが、指揮権の統一でもめて投獄される。さいわい周辺諸国を弱めたい英仏の後押しで独立を勝ち取り元首となるが、英仏との協調を主導したグループが議会の権限の強い、比較的中産階級に有利な体制を作ったので、もともと社会主義グループと共闘していたピウスツキはいったん政界を退く。


 だが議会内に安定勢力が現れず、ピウスツキは1926年、数万人の支持者をワルシャワに集めて大統領等の退陣を迫る。首都を守る部隊よりも軍人のピウスツキ支持者が多く、鉄道労組がピウスツキについたので増援も来ない。かえって、ピウスツキ派の陸軍部隊が鉄道でワルシャワに来る。断続的に戦闘が起きたが政府軍の不利は明らかで、大統領と首相は辞任する。国防相であったシコルスキはクーデターを支持せず、パリに移って反ピウスツキ活動を続け、1939年には亡命ポーランド政府の首班となる。


 ピウスツキは国防大臣となり、短期間首相を兼務したこともあったが、陰の実力者として政権を動かし続け、1935年に病死する。



ヒトラー、アドルフ

Adolf Hitler

1889-1945


 今更である。何を書いたらいいだろう。美大に落ちた後も絵を売っていたが、遺産や親族からの借金で穴埋めするジリ貧な暮らしだったようである。1913年にドイツに渡った後、1914年初頭にオーストリアに引き渡され、おそらく小柄なことや体力がないことが響いて、徴兵検査不合格で放免されたのでまたミュンヘンに戻ってきた。大戦が始まるまでにヒトラーは(いくらか)ドイツ民族の優越を信じるようになっていて、バイエルン王国軍に志願し認められた。ただし、個人でどうにか生き延びていた時期のヒトラーの思想遍歴ははっきりしない。昭和初期になぜか「伍長」と訳されたが、歩兵連隊本部の伝令兵としてほぼ大戦を通じて勤務し、二度負傷して二度復帰し、Gefreiter(上等兵ないし兵長)にとどまった。


 ヒトラーが普通の人だったなどという人は、おそらくいないだろう。しかし単に「悪い」人ではあれほどの権力を握れない。1942年に陸軍参謀総長を引き継いだツァイツラーは少将であったが、二階級特進させてもらって大将になった。総統付き陸軍副官のシュムントが親しかったという程度の任命理由しかないのだが、ヒトラーに頼るしかない「弱い」参謀総長として選ばれたのであろう。このツァイツラーが就任したころスターリングラードの危機が表面化し始めたのだが、ヒトラーは政治家らしい笑顔を振りまいて、危急を上申する若いツァイツラーをごまかそうとした……と戦後にツァイツラーが書いている。


 別の話として、カイテルはヒトラーに逆らえないように支配されていたことを認めざるを得ない……と死の直前に書いた回想録に記している。何度か辞職を申し出たし、強硬に反対した案件もあったのだが、結局丸め込まれてしまったと。だから会談で人をたらし、言うことを聞かせる力に限れば、ヒトラーには政治家としての力があった。


 しかし、調整とか妥協とか、チャーチルが毎日やっていた類の政治は、ヒトラーの実績にほとんどない。押し通し、拒否し、言い渡す話ばかりである。そのあたりを手掛かりにして、この小説ではヒトラー像を描いていく。



ヒムラー、ハインリヒ

Heinrich Luitpold Himmler

1900-1945


 ヒトラーより11才若い。良家の次男坊に生まれ、陸軍士官を志願したが、年齢の関係で士官教育途中で戦争が終わる。戦後に農学部を出る。レームの黒い国防軍に、次いでルーデンドルフの政治運動に属し、そのあとNSDAPに加わったため、党員番号は14303番である。ヒトラーの身辺警護隊を作ろうというアイデアも既に実行に移されていたから、親衛隊全国指導者(長官)としても初代ではない。


 だが、もともと几帳面で勉励すると言われていたヒムラーには、理想に沿って信賞必罰で組織をまとめ、動かす才があった。農学部卒業生として製薬会社で働いていた時や、結婚相手に任せきりだったとはいえ農場経営をしていた時はうまくいかなかったが、ヒムラーが全国指導者になってからの親衛隊は規律正しくまとまり、1934年に真価を発揮した。


 ゲーリングはいったん手に入れたプロイセン州の警察指揮権をヒムラーに譲渡し、このふたりはNSDAP幹部の中でも一種の同盟関係を保つ。強制収容所の労働力、ユダヤ人などから収奪した私財も親衛隊が管理にかかわり、戦闘部隊の拡張もあって親衛隊組織は肥大し、誰もそれを止められなくなった。



フォン・ヒンデンブルク、オスカー

Oskar Wilhelm Robert Paul Ludwig Hellmuth von Beneckendorff und von Hindenburg

1883-1960


 パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥の長男。原隊は父と同じ近衛第3歩兵連隊。ライヒスヴェーアで少佐まで出世した後、父の副官となる。シュライヒャーと友人付き合いをして、ヒトラーを受け入れることも進言するなど、父の政治決定に口をはさんだ。大戦中は重要な立場には就かなかったが、先祖伝来の農園は東プロイセンにあったため失うことになった。最終階級は少将。



フォン・ヒンデンブルク、パウル

Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg

1847-1934


 原隊は近衛歩兵第3連隊。若いころに普仏戦争が終わって平時の軍で栄達し、1911年に退役。第1次大戦が始まり、リェージュ要塞攻略で名を挙げた若いルーデンドルフを参謀長とする老将軍として人選され、東部戦線で危機にあった第8軍司令官として再建に当たる。タンネンベルクの戦いで大勝を得て一躍英雄となり、元帥号を受ける。西部戦線の不出来もありコンビが英雄として演出されたため、ファルケンハインの失脚により参謀総長となる。果断でもあるが専横でもあるルーデンドルフに引きずられるように、大戦末期に辞職。ルーデンドルフは活発に政治活動を続けたがやはり「しくじった独裁者」イメージをぬぐえず、かえってヒンデンブルクが「妥協できる統一候補」として1925年の大統領選挙を勝ち、1932年大統領選挙では「ヒトラーに勝てる統一候補」として、自分が好感を持てない勢力にばかり支持され、それでも当選した。最終的にはシュライヒャーを見限り、ヒトラーに政権を渡すことを最後の選択肢とした。



フォン・ファルケンホルスト、ニコラウス

Paul Nikolaus von Falkenhorst

1885-1968


 原隊は歩兵。第1次大戦末期にフィンランドに派遣されていた経験から、大将・軍団長であったがノルウェー攻撃軍司令官となる。1944年12月までノルウェー占領司令官を続け、以後は予備役。



フォン・フィーバーン、マックス

Max von Viebahn

1888-1980


 原隊は「皇帝アレクサンドル第1近衛擲弾兵連隊」。前大戦中に参謀士官として短期課程で速成され、大尉で終戦。ヒトラー政権発足時には中佐で歩兵連隊長。1938年2月からOKW作戦部長。オーストリア進駐を聞かされて驚き、第19話に描かれる事件を起こす。「回復」後は重要でない職を歴任して1942年に退役。最終階級は歩兵大将。



フーヴァー、ハーバート

Herbert Clark Hoover

1874-1964


 1929年から1933年初頭までアメリカ大統領。ルーズベルトに比べると消極的な財政運営で不況から脱出できず、選挙に負けた。ルーズベルトの政敵であったこともあり、ソヴィエトを助けたことと枢軸国との戦争に突き進んだこと(フーヴァーは共和党であり相対的にモンロー主義を奉じていたと考えられる)をのちに強く批判した。



フェルバー、ハンス

Hans-Gustav Felber

1889-1962


 原隊は歩兵。フランス戦直前にC軍集団参謀長。バルバロッサ作戦では軍団長として中央軍集団で戦い、冬にフランスの軍団司令官に転任。1943年夏からはユーゴスラビアで当初は軍政長官、やがてパルチザンと戦う軍支隊司令官として過ごし、1944年からは西部戦線で抜け殻のようになった軍団級の兵団司令官を歴任し、第7軍司令官を最後に3月に職を失う。



フォッシュ、フェルディナン

Ferdinand Foch

1851-1929


 砲兵士官として、砲兵学校教官と野戦指揮官の両方で実績を積む。ドイツ軍の進撃を食い止める戦いで印象的な指揮をして声価を高め、大戦末期の1918年には連合軍陸軍最高司令官となる。ただしその権限範囲はややあいまいなところがあり、例えばイタリア戦線に対する権限は少し遅れて付け加わった。元帥号を受けたがこれは階級ではなく、最終階級は少将。



ブジョンヌイ、セミョーン

Семён Михайлович Будённый(Semyon Mikhailovich Budyonny)

1883-1973


 ソヴィエト草創期の内戦からポーランドとの戦争にかけて、何度も攻撃を成功させた騎兵司令官。古い時代の戦士であって術策の類は苦手だが、人望は厚い。スターリンが主宰した1944年の年越しパーティでは踊りとアコーディオン(バヤン)を披露した。第2話にあったトハチェフスキーとのトラブルの件以来、ヴォロシロフとともに(何もたくらむ奴ではない……といった意味であったろうが)スターリンからの信頼が厚くなった。


 ブジョンヌイの最初の妻は事故死し、二番目の妻オルガはオペラ歌手で、外国人との交流もあったため、大粛清のさい捕えられた。彼女は獄死したという説明が正しくないことにブジョンヌイがいつ気づいたかは永遠にわからない。1956年、スターリンがすでに死んでから、ブジョンヌイはオルガを流刑先から救い出した。すでにオルガの従姉妹が3人目の妻となって3人の子がいたが、オルガも扶養してもらった。



ブッシュ、エルンスト

Ernst Wilhelm Bernhard Busch

1885-1945


 原隊は歩兵。第1次大戦では終始前線にいて、中隊長ないし大隊長として戦い、大戦末期の防御戦闘に功績があってプール・ル・メリット勲章を受けている。陸軍省や高級司令部でも勤務したが参謀教育は受けていない。1935年秋に、最初の22個歩兵師団に続いて第23歩兵師団が創設されると、少将で初代師団長となる。ポーランド戦では軍団長、フランス戦とバルバロッサ作戦では第16軍司令官。フランス戦後の論功で上級大将。レニングラード東方の包囲維持をめぐってソヴィエト軍を1942年のあいだ阻み続け、1943年2月に元帥。第16軍の一部は1942年初頭からデミャンスクで包囲され、これもブッシュがヒトラーの死守命令を墨守したからだという批判もある。1943年10月、負傷したクルーゲから中央軍集団を引き継ぐ。1944年のバグラチオン作戦開始から数日後、職を解かれてモーデルが代わる。1945年3月、おそらく本人にとっても唐突に、ブッシュはオランダから北西ドイツに追い出されつつあるH軍集団(このとき北西軍集団と改称)の指揮を命じられ、終戦まで務める。捕虜となった後、心臓発作のためイギリスで亡くなる。



フーベ、ハンス=ヴァレンティン

Hans-Valentin Hube

1890-1944


 原隊は歩兵。第1次大戦の戦傷で左腕を失う。かまわず中隊長として復帰し、その後は幕僚士官や副官を務めることが多かったが、参謀士官とはならなかったようである。戦間期には歩兵学校教官を長く務め、この時期に歩兵向け教則本「Infanterist」の著者となった。ポーランド戦後に部隊勤務に戻って歩兵連隊長。フランス戦の途中で少将に昇進して第16歩兵師団長となったが、この師団はフランス戦後にそのまま第16装甲師団へ改編を受ける。戦車兵大将・装甲軍団長としてスターリングラードで包囲された。柏葉剣付騎士十字章授賞式のため空路でスターリングラードを出てヒトラーに会った後、果敢にスターリングラードへ戻るが、ヒトラーの直命で再脱出を命じられる。その後はシチリア島の防衛を指揮したあと、第1装甲軍を任されて東部戦線に復帰する。カメネツ・ポドリスキー包囲戦を戦い抜いた直後、航空機事故で殉職。最終階級は上級大将。



フラー、ジョン

John Frederick Charles Fuller

1878-1966


 歩兵士官。草創期から戦車部隊の幕僚として勤務し評価されたが、自分で戦車部隊の野戦指揮をしたことはない。1927年に歩兵旅団をもとに機械化実験部隊がつくられるとき、フラーはスタッフの増員を要求してこれを蹴り、以後も思うような職に就けず、数年で退役することになる。最終階級は少将。


 文筆専業となってからは、主語の大きい著作や偉人についての著作(アレキサンダー大王やシーザー)が増えた。また、魔術や神秘に関する著作もあるが、やっぱり売れなかったのか戦後は書かなくなった。大戦前後、ヒトラーやファシズムに宥和的な言動が多く、逮捕の可能性もあった。



ブラウニング、フレデリック

Sir Frederick Arthur Montague Browning

1896-1965


 優秀な歩兵士官として実績を積み、1941年にイギリス第1空挺師団の初代師団長となり、1942年にはパイロット資格を得る。第1次大戦で隊友だった(数か月を陸軍の前線で過ごした)チャーチルも動かして訓練器材確保の道を開くなど、無から有を生み出してイギリス空挺部隊の実戦能力をつける。トーチ作戦以降大小の空挺降下を指揮し、1943年からアイゼンハワーの幕僚となってアメリカの空挺部隊指揮官たちとたびたび衝突する。ノルマンディー上陸を控えモントゴメリーの空挺部隊指揮官、1944年4月から正式にイギリス第1空挺軍団長となる。


 マーケット・ガーデン作戦が無残な結果に終わった後、ブラウニングは東南アジア方面のイギリス陸軍を指揮するマウントバッテンの参謀長となる。陸軍大学校を出ておらず参謀勤務の経験もないブラウニングであったが、マウントバッテンとはうまくいく。マウントバッテンがフィリップ王子の(母方の)叔父であったことからエジンバラ公エリザベス王女、その戴冠後はエジンバラ公フィリップの財務官をつとめる。最終階級は中将。



フォン・ブラウヒッチュ、ヴァルター

Walther Heinrich Alfred Hermann von Brauchitsch

1881-1948


 士官学校から近衛歩兵連隊に1年志願兵となったあと、近衛野砲兵連隊に転属という珍しい経歴。参謀大尉で迎えた前大戦は少佐で終戦。戦間期は砲兵士官として過ごし、軍務局4課(訓練)に少佐で赴任したとき、ブロンベルクが課長だった。順調に栄達していたが、フリッチュの後任としてブロンベルクの推薦をカイテルも支持したため、ヒトラーが陸軍総司令官に任じることになった。


 その後、ヒトラーの鋭鋒を粘り強く防いでいたが陸軍内部では支持が弱く、1941年末に辞職する。他の陸軍高官と同様、ブラウヒッチュも陸軍の給与規定とは別に多額の金銭をヒトラーから(NSDAPから)受け取っていた。それは1938年の離婚に役立ったに違いないが、いつごろまでヒトラーの臨時収入を慰謝料のために「当てにする」実態があったかははっきりしない。



ブラスコヴィッツ、ヨハネス

Johannes Albrecht Blaskowitz

1883-1948


 原隊は歩兵。第1次大戦終戦時は大尉。ヒトラー政権成立時には少将。第8軍司令官としてポーランド戦に参加。ルントシュテットが短期間「東方軍司令官(Oberbefehlshaber Ost)」として政治的問題についてOKWの直率を受け、ブラスコヴィッツが引き継いだが、ポーランドでアインザッツトルッペンが様々な迫害行為を行った報告を受け取るようになり、ブラウヒッチュらと図って問題提起した。このためヒトラーに疎まれ、フランス海岸部を防衛する第1軍司令官に長く留め置かれた。南フランスへの上陸作戦のリスクが高まると、それを防ぐG軍集団司令官とされ、メス要塞からドイツ国境に迫るパットンと対峙する。1945年にはオランダを守るH軍集団司令官に転じ、終戦直前に捕虜となる。ニュルンベルグ裁判では重罪にならないと思われていたが、公判中に自殺。過去の経緯から、SSに殺されたといった噂もささやかれた。最終階級は上級大将。



フランクリン、ハロルド

Sir Harold Edmund Franklyn

1885-1963


 1917年のアラスの戦いには歩兵師団幕僚(少佐)で参加していた。1940年のベルギーで退路を断たれたイギリス軍から、第5歩兵師団長として混成部隊を率いて突破を図り、再びアラスで戦う。混成部隊には第1戦車旅団のマチルダ戦車(大半が機関銃装備のマチルダI)もいたが、ロンメルがかき集めた88mm対空砲などで撃破され、歩兵部隊も多くの死傷者を出して突破は失敗する。勇戦を評価され、新設軍団を率いて海岸防備に参加する。1941年には北アイルランド地域司令官に転じる。大将昇進後の1944年1月、本国陸軍司令官。戦後は軍を離れる。



フランコ、フランシスコ

Francisco Franco Bahamonde

1892-1975


 スペインの陸軍軍人。人民戦線政府と対立し、1936年に始まる内乱でモロッコ駐留軍の反乱に合流し、ドイツやイタリアの援助で勝利する。フランス敗北直前に参戦したイタリア同様、ドイツ側への参戦による海外領土獲得を考えなかったわけではないが、要求を引き上げている間にドイツの勝利が遠のき、ついに中立のままだった。



フォン・フランソワ、ヘルマン

Hermann Karl Bruno von François

1856-1933


 第1次大戦期のドイツ軍指揮官。フランスから亡命した新教徒貴族の家系である。タンネンベルクの包囲戦で第1軍団長として貢献したが、その過程でたびたび命令違反があり(従って功より罪が大きいとする見方もある)、第8軍参謀長のルーデンドルフとの関係が悪化して西部戦線に転じた。



フォン・ブリーセン、クルト

Kurt Alfred Otto Erimar von Briesen

1886-1941


 原隊は歩兵。陸軍大学校中途で第1次大戦の前線勤務に就き、のち参謀士官の資格を認められる。大尉で終戦。いわゆる黒い国防軍の士官を続け、1934年に中佐で陸軍へ復帰。第30歩兵師団長としてポーランド戦に参加し、ブズラの戦いのきっかけを作る。第52軍団長として東部戦線で戦死。最終階級は歩兵大将。



フリッケ、クルト

Kurt Fricke

1889-1945


 重巡モルトケに乗り組んで第1次大戦に参加し、魚雷艇部隊に転じる。終戦時は中尉。ヒトラー政権成立時は少佐。第2次大戦開戦時は海軍参謀本部作戦課長。1941年、シュニーヴィントの後任として海軍参謀総長。1943年、南方集団司令官。1944年12月、集団廃止とともに予備役。最終階級は大将。敗戦直前、ベルリン市街戦で死亡。



フライヘア・フョン・フリッチュ、ヴェルナー

Thomas Ludwig Werner Freiherr von Fritsch

1880-1939


 原隊は砲兵。やや厳格すぎる父の影響もあって付き合いやすい人物ではなかった。ストイックな勤務態度ではベックと調子が合い、ヒトラーと距離を置く姿勢を共有したし、ブロンベルクを上位の指揮権者とすることには反対した。1938年、ブロンベルク失脚にタイミングを合わせて同性愛者の濡れ衣を着せられ要職を追われた。その後の名誉回復として、すでに出身連隊が存在しないフリッチュは、ヒトラーからある砲兵連隊の名誉連隊長に任じられた。大戦が始まってもどこへも任用されず、その連隊に随行したフリッチュは、ワルシャワ周辺で最前線へ偵察に出て敵弾を受け戦死した。治療を拒否したとも言われるがはっきりしない。



フリーマン、ウィルフリド

Sir Wilfrid Rhodes Freeman, 1st Baronet

1888-1953


 父が土木関係で成功し、実家が極めて太い。若手士官のころから父親の車を乗り回すことを許され、エンジンのことなら親戚中から相談されていた。所属連隊がちょっと社交に不便なアイルランド某所に配置されたのが動機かもしれないが、航空隊に志願し、第1次大戦では偵察機部隊に所属。早いうちに偉くなり訓練部隊教員と往復したので生き延びた。イギリス空軍の父トレンチャード元帥の知己も得たが、選んだ女性がおよそ家庭における女性の役割をほぼ放棄し、ホテル住まいから動かないほどだった。昇進するにつれ、自宅での社交機会が開けないことが問題になり、ついに離婚。この離婚は当時のイギリス軍では非公式退職勧奨もののハンディだった。


 たまたま海外勤務時代に親しかったスウィントン子爵が航空大臣となり、空軍新型機の研究開発を担当する責任者に就任。就任直後にまた試作機1機しかないスピットファイアに量産契約をあたえた。これを皮切りに、採用・不採用を決めた機種のすべてが成功ではなかったが、事実上第2次大戦で戦ったイギリス軍機ほとんどの開発計画に関わった。生産関係に権限が少し拡大し、大戦を迎えた。


 概ね1938年から戦争不可避を前提とした生産拡大が始まり、アルミや合金の確保までが仕事となった。その立ち上がりは開戦時にはまだ鈍く、チャーチル内閣発足とともに航空機生産省に移り、ビーヴァーブルックに多くの実権を奪われる。生産機数をひたすら追求するビーヴァーブルックから重爆撃機プロジェクトを守って奮闘し、ビーヴァーブルック辞任後には空軍参謀次長に転出する。1942年10月、空軍を辞して民間人となり、航空機生産省のナンバースリーとして重爆撃機増産に向け最後の一押しを果たした。


 長年の激務ですっかり病身であったが、豪邸と後妻の子供たちを守るため、貴族院出席義務ができる男爵以上の爵位を断り、実業界でバリバリ働いた。65才の誕生日前に病死。最終階級は大将。



ブリューニング、ハインリヒ

Heinrich Aloysius Maria Elisabeth Brüning

1885-1970


 第1次大戦後、カトリック系の政治団体や労働運動に関わり、中央党で頭角を現したが、党執行部などの実権は持たなかった。ヒンデンブルク大統領らに誘われて連立少数内閣を組織したが選挙に勝てず、不穏な情勢下で共産党とNSDAPが票を伸ばす結果となる。出口を探すブリューニング政権は賠償支払いに否定的な言明を繰り返したが諸外国政府の助けはなく、かえって「ドイツ売り」が進む結果となる。1932年にヒンデンブルク大統領が再選されるさい、保守勢力がそろって離反したことが決定的な契機となって、ヒンデンブルクとの関係が悪化し、ブリューニングは辞任する。その後はアメリカで教鞭をとるなどした。



フルシチョフ、ニキータ

Nikita Sergeyevich Khrushchev(Ники́та Серге́евич Хрущёв)

1894-1971


 工場労働者から共産党員となり、カガノーヴィチの下でモスクワ地下鉄建設に貢献して頭角を現し、1938年からウクライナ共産党第一書記としてスターリンに送り込まれ、同地の大粛清を断行する。赤軍政治委員として多くの司令部に関わる。


 1953年にスターリンの死後、ベリヤを失脚させて1964年まで最高権力者の地位を保つ。



ブルーメントリット、ギュンター

Günther Alois Friedrich Blumentritt

1892-1967


 原隊は歩兵。第1次大戦終戦時には中尉。戦間期に参謀教育を受けて1933年に少佐。ポーランド戦の途中からルントシュテットの幕僚となり、バルバロッサ作戦ではクルーゲの第4軍で参謀長。1941年末の大人事異動でハルダーの作戦担当参謀次長。ハルダー退任後、D軍集団司令官(OKWに対して西方軍司令官の二枚看板)だったルントシュテットの参謀長(ツァイツラーの後任)。1944年秋から軍団長、軍司令官を歴任。最終階級は歩兵大将。



フルンゼ、ミハイル

Михаил Васильевич Фрунзе(Mikhail Vasilyevich Frunze)

1885-1925


 19才で逮捕されるなど、若いころから政治活動に関わった。第1次大戦では脱獄して逃げていたので徴兵されていない。政治士官として、また民兵指導者として軍事に関わるうちに頭角を現し、革命が終わるとすっかり軍事指導者となっていた。職業士官たちと軍事的な指揮権で渡り合える党官僚はかけがえがなく、その点では上司のトロツキーも及ばなかった。手術の失敗により若くして亡くなったが、医療ミス(麻酔の失敗)ではなく誰かの故意だったのではないかとも言われる。



ブーレ、ヴァルター

Walther Buhle

1894-1959


 原隊は歩兵。第2次大戦ではOKH2課長(組織)をつとめ、1942年初頭以降OKWに異動してカイテルに直属し、OKHからOKWに移された一部の権限(おそらく部隊新設関係)についてカイテルを補佐。1944年夏、ツァイツラーの体調不良(実態はヒトラーとの関係悪化とも)が顕在化し、後任に想定されていたが7月20日事件で負傷、ツァイツラーの後任(事務取扱)はグデーリアンとなる。1945年から陸軍兵器局長。最終階級は歩兵大将。



フレイ、ヘルムート

Hellmuth Frey

1895-?


 フランス戦で第33歩兵師団(第15装甲師団に改編)の補給指揮官をつとめ、そのままアフリカへ。1942年末に中佐に昇進して本国で学校教官となる。戦間期に民間人になった時期があり出世は遅いが、追加教育を受けて陸軍大学校卒業者並み(参謀少佐)である。兄アルトゥールにあてた手紙は日記調で、補給指揮官は検閲責任者でもあるためかなり突っ込んだことも書いてある。戦後に出版された。



フレイバーク、バーナード

Bernard Cyril Freyberg, 1st Baron Freyberg

1889-1963


 イギリス生まれのニュージーランド育ち。第1次大戦が始まるとイギリスへ渡ってチャーチル海軍大臣の面接を受け、RNVR(船員経験のない予備士官)として新設の海軍歩兵師団に参加する。いきなり初陣がガリポリになってしまうが生還。陸軍に移っても負傷の絶えない勇戦ぶりで、1917年には戦時階級ながら准将に昇る。


 戦後も陸軍に残るが大尉に戻ってしまい、1927年ようやく少佐になる。1934年には少将に進むが、健康上の問題で1937年にいったん退役する。しかし開戦と同時に復帰し、ニュージーランドから派遣されてきた第2師団を預かる。クレタ島では守備隊司令官を務めたが敗れ、北アフリカからイタリアまでニュージーランド第2歩兵師団とともに戦い続ける。最終階級は中将。戦後はニュージーランド総督を務める。



ブレジネフ、レオニード

Leonid Ilyich Brezhnev(Леони́д Ильи́ч Бре́жнев)

1906-1982


 測量技師として出発したが、製鉄所の仕事もするようになり、製鉄炉関係の課程を卒業する。29才になって赤軍に入隊し、戦車学校で学んで、少尉の階級を得て除隊する。その後も共産党務、教育職、技術職など転々とする。大戦が始まると予備大佐として召集され、ミスハコ橋頭堡ができたころは黒海作戦集団政治部長代理。1944年11月に少将。


 スターリン時代末期に共産党中央委員会委員まで進む。スターリン死去直後はやや冷遇されたが、フルシチョフがベリヤを排除したころから復権して1953年に中将。1960年からはソビエト連邦最高会議幹部会議長となり、フルシチョフの下で名目的な国家元首を務める。1964年にフルシチョフとの短い党争を経てフルシチョフの第一書記を受け継ぎ、実権を握る。


 これ以降の権威付けの中で、ブレジネフは元帥となりスターリン制定の勝利勲章を受け、ミスハコ橋頭堡の事績が英雄的行動のように盛られ、回想にソヴィエトの文学賞が与えられた(チャーチルがノーベル文学賞を受けたことを意識してのものかもしれない)。死後、勝利勲章は過賞であるとして取り消された。



フレデンダール、ロイド

Lloyd Ralston Fredendall

1883-1963


 第1次大戦では欧州に渡ったが教育部隊への配置ばかりだった。1939年12月に准将。1940年に少将。トーチ作戦で指揮を取るまでの上司の評価は非常に高かった。だがアイゼンハワーとブラッドレーが下僚や同僚の意見を聞くと、カセリーヌ・パスまでの一連の戦いを経た後では、解任に賛成する意見ばかりであった。後任のパットンは解任を「不運のせい」だと思って引継ぎをしたが、軍団司令部の内情を知るとフレデンダールに激怒し始めたという。フレデンダールの何がどのように悪かったのかは、慎重に評価する必要があるだろう。


 帰国後は軍司令官に補され、中将に昇進までしたが、マスコミ取材が「更迭なんでしょ?」と無遠慮に質問するのは防げなかった。



フォン・ブレドウ、フェルディナント

Ferdinand von Bredow

1884-1934


 有名な騎兵指揮官の多いフォン・ブレドウ家であるが、フェルディナントは父の代から歩兵士官であった。戦間期にシュライヒャーの部下となって重用され、国防次官を務める。1934年に「連行中の射殺」という殺され方をしたのは、パーペン内閣当時以来のシュライヒャーの裏工作に関わっていたためかもしれず、その過程でヒトラーに黙ってシュライヒャーたちと交渉しようとしたゲーリングの言動を知っていたからとも言われる。



フロスト、ジョン

John Dutton Frost

1912-1993


 イギリス歩兵士官であったが1941年になって落下傘部隊に志願する。以後たびたび降下作戦、ときに上陸作戦に従事。マーケット・ガーデン作戦ではアーネムの橋を守ったが後続なく降伏。戦後は平時の陸軍に長く務め、退役時に少将に昇進。



フロム、フリードリヒ

Friedrich Wilhelm Waldemar Fromm

1888-1945


 原隊は野砲兵。第1次大戦終戦時は大尉。1928年以降、1年間の転出時期を除いて国防省・OKWで総務のドンとして君臨。大戦勃発と同時に予備軍が設置され、その司令官となる。1944年のヒトラー暗殺事件では首謀者シュタウフェンベルクの上司であり、共謀者でもあったが、ヒトラー生存を知るとベックやシュタウフェンベルクを逮捕して射殺し、幕引きを図る。証拠は残されなかったがヒトラーの猜疑(さいぎ)を受け、軍籍をあらかじめ奪われて人民裁判となったにもかかわらず、「Feigheit vor dem Feind (敵に対する臆病)」という罪状で処刑された。




フォン・ブロンベルク、ウェルナー

Werner Eduard Fritz von Blomberg

1878-1946


 原隊は第73フュージリア(歩兵)「元帥アルブレヒト公」連隊。優秀な参謀士官であり、1917年には39才の少佐で第7軍司令部作戦主任参謀(参謀長の次位)をつとめた。1927年に軍務局長(陸軍参謀総長)。1929年には中将、第1師団長。ヒトラー政権成立直前にヒンデンブルク大統領から呼ばれ、国防大臣任命と名誉大将進級を告げられる。その後も国防大臣を続けるが、1938年に再婚した相手にいかがわしい写真のモデルになった前歴があることが問題視され、辞職。そのまま大戦中には何の任命もなし。1946年、ニュルンベルグ裁判の結審を待たず大腸がんで死去。



ベーカー=クレスウェル、アディソン

Addison Joe Baker-Cresswell

1901-1997


 第3護衛隊を率いて、OB-318船団を護衛した。



フライヘア・フォン・ベーゼラーガー、ゲオルク

Georg Freiherr von Boeselager

1915-1944


 入営は1934年。中尉で第2次大戦を迎え、第6歩兵師団の偵察大隊長としてフランス戦での騎士十字章に柏葉を加えられ、1941年末に本国で教官職に着く。各地の歩兵師団で細切れの小偵察隊となったままの騎兵部隊を憂慮し、中央軍集団司令官のクルーゲに直訴して「中央(軍集団)騎兵連隊」を創設し、騎兵の生き残りを集めて治安戦部隊とする。実際には戦局窮迫で、最前線での時間稼ぎや穴埋めパトロールも押し付けられる。この過程でトレスコウと懇意になり、ヒトラー暗殺計画に関与し、露見を予期してわざと身をさらし戦死する。最終階級は大佐(戦死後昇進)。



ペータル2世

Peter II

1923-1970


 ユーゴスラビア王。カラジョルジェヴィチ家はオスマン帝国に対するセルビア抵抗運動指導者ジョルジェ・ペトロヴィチの子孫である。周囲のオスマン帝国、ロシア帝国、オ-ストリア帝国がいずれも19世紀セルビアに民主国家が生まれることを嫌ったせいもあり、自治権を取り戻しつつあったセルビアでは不安定なセルビア公国・セルビア王国が政変を繰り返していた。ユーゴスラビアが成立すると隣国との帰属争いと内紛が加わり、1934年に父を暗殺されたペータル2世には、1893年生まれの叔父の子パヴレが摂政に立ったが、ドイツの圧力を跳ね返すほど老巧卓抜ではなかった。ペータル2世は同志を集めてクーデターを起こしたが、ユーゴスラビア内の内紛を抱えたままでドイツへの抵抗は短く終わる。イギリスで亡命政府を立てたが、王党派パルチザンの支持者はセルビアに偏っており、チャーチルも幅広く支持を集めるチトー派への援助をせざるを得なくなる。戦後は長くアメリカに住む。



ペタン、フィリップ

Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain

1856-1951


 ペタンは第1次大戦が始まったとき58才で、目立たない大佐の歩兵連隊長だった。負けが込んだ序盤で、ペタンは旅団長、師団長、軍団長と目覚ましく出世する。兵士の不信と厭戦(えんせん)が広がったフランス軍の規律と士気を持ちこたえさせるべくペタンは奮闘し、フランス陸軍総司令官にまで上り詰める。


 しかし自分で旗を振って人を動かすタイプではなく、戦後は国防大臣を務めたこともあったが、軍人としては顧問的な立場にとどまった。この結果、フランスが1940年に窮地におちいると(それまでの敗勢の責任者ではないため)レイノー内閣の副首相に起用され、レイノーが辞任すると大統領指名による後継首相として休戦協定を結び、そのままヴィシー政権を維持する。


 戦後は戦犯として無期限禁固とされ、そのまま没する。元帥号を受けたがこれは階級ではなく、最終階級は少将。



ベック、ルートヴィヒ

Ludwig August Theodor Beck

1880-1944


 原隊は第15野砲兵連隊(オーバーエルザス第1)。最終階級は大将。ヘッセンの名家に生まれる。激務の中でも睡眠を削って毎朝の乗馬を欠かさず、士官の尊敬を集める。『軍隊指揮』の編さんを終えて、1933年10月から軍務局長(参謀総長)。ヒトラーと対立し、1938年8月に参謀総長辞職、10月に軍を退職。1944年7月、ヒトラー暗殺計画に関わって刑死。



ヘップナー、エリッヒ

Erich Kurt Richard Hoepner

1886-1944


 原隊は騎兵。戦間期に参謀士官となる。1938年、第1軽機械化師団初代師団長。以後は装甲部隊の指揮が多くなり、独ソ戦では第4戦車集団(第4装甲軍)を率いる。1942年1月、戦術的後退をヒトラーにとがめられて解任、国防軍の軍籍を奪われる。ヒトラー暗殺計画に関与して処刑。



ベリヤ、ラヴレンチー

Lavrentiy Pavlovich Beria(Лавре́нтий Па́влович Бе́рия)

1899-1953


 現在のジョージア出身。大戦直後に秘密警察に入り、当時メンシェヴィキが支配していたジョージアの政体を転覆させて同地の秘密警察を牛耳り、ジョージア出身者であるスターリンの政治的な同盟者となる。スターリンの栄達とともに地位を上げ、エジョフの失脚とともにその後任となる。1953年のスターリンの死後、マレンコフ政権を実質的に支配するが、フルシチョフらのクーデターで逮捕・処刑される(最期については異説多数)。



グラーフ・フォン・ヘルドルフ、ヴォルフ=ハインリヒ

Wolf Heinrich Graf von Helldorf

1896-1944


 農場持ちの旧家の跡継ぎ。第1次大戦では志願して騎兵連隊に入り、少尉で終戦。フライコーアに参加し、カップ一揆に関係して数か月イタリアに逃げ、農場主に戻る。1924年からプロイセン州議会でNSDAPの議員となり、1933年には親衛隊幹部となって、1935年からベルリン警視総監をつとめ、ブロンベルク=フリッチュ事件を捜査する。のち反ヒトラー運動に接触したが、いざとなると怖気づいて部下たちは様子見させる。だが関与は露見して処刑。



ベンケ


 架空の人物。Sd.Kfz.222装甲車の車長をつとめる軍曹として登場。



ホーア、サミュエル

Samuel John Gurney Hoare, 1st Viscount Templewood

1880-1959


 父の代からイギリス保守党の政治家。1920年代に航空大臣を7年足らず、1936~37年に海軍大臣を1年務めている。ボールドウィン内閣で重用され、自然にチェンバレンに心服した。チャーチル内閣ではスペイン大使となり、フランコのドイツ傾斜を食い止める地味な役割を果たした。



ホイジンガー、アドルフ

Adolf Bruno Heinrich Ernst Heusinger

1897-1982


 第1次大戦時の繰り上げ卒業で士官候補生に志願。原隊は歩兵。少尉で捕虜となり終戦。ライヒスヴェーア末期に参謀士官となり、1938年から参謀本部1課(作戦)課員、フランス戦後に課長。本編第23話では「課長の次に先任の参謀士官」どうしで会話している。ハルダーがツァイツラーに交代し、ブルーメントリット参謀次長が転出してからは事実上の作戦担当参謀次長となり、ツァイツラー参謀総長の静養中はその代理となる。ヒトラー暗殺未遂事件で重傷を負い、関与を疑われたが結局釈放される。1945年3月に新設の測地部長に任じられ、総統大本営を離れて生還できた。



ホーカー、ハリー

Harry George Hawker

1889-1921


 オーストラリアで自動車組立工をしていたが、航空機を作りたくて渡英する。ソッピース社で設計にも関わりつつ操縦も覚え、テストパイロットの一員となる。彼の痛ましい事故は、操縦中に自覚症状のなかった感染症の発作を起こしたからとも言われる。



ボケット=プーフ、イアン

Ian Hamilton Bockett-Pugh

1900-1982


 第7護衛隊を率いてOB-318船団を護衛した。



ホジン、ミハイル

Mikhail Semenovich Khozin(Михаи́л Семёнович Хо́зин)

1896-1979


 いったんロシア陸軍を少尉で除隊したが、あらためて党活動から赤軍に入隊し、内戦期には連隊長~旅団長として治安任務に従事。レニングラード軍管区司令官を経てフルンゼ軍事大学校長。このころにジューコフと知り合ったと思われる。1941年7月、ジューコフが予備方面軍司令官となるとき、その参謀長となる。ジューコフに連れられてレニングラード方面軍参謀長となり、ジューコフ離任後の後任司令官となる。


 1942年初夏までの第2打撃軍救出作戦に失敗し、その後のウラソフの離反に相当な責任がある。罷免されてからも叱責を受けて軍司令官まで落ちた。1943年1月にジューコフのSTAVKA代表チームに呼ばれ、評価を幾分か回復して方面軍司令官代理まで戻ったが、1943年12月に戦争神経症を発し、以後は主に教育・研究関係のポストに就いた。



ポスクレビシェフ、アレクサンドル

Alexander Nikolaevich Poskrebyshev(Алекса́ндр Никола́евич Поскрёбышев)

1891-1965


 長く共産党の秘密任務と秘密通信を管理し、特にスターリンへの情報・通信を取捨選択できることで絶大な影響力があった。大戦期にはスターリンの執務室に続く部屋で勤務し、各種の文書草案を書いた。



ホスバッハ、フリードリヒ

Friedrich Wilhelm Ludwig Hoßbach

1894-1980


 原隊は歩兵。中尉で終戦。戦間期に参謀教育を受け、1927年に大尉。1934年から総統付き武官。1937年に大佐。このころ三軍司令官などを集めてヒトラーが行った演説と質疑応答を速記し、ホスバッハ覚書としてニュルンベルク裁判で重要な証拠とされる。


 ブロンベルク=フリッチュ事件の際、ヒトラーの査問内容をフリッチュに漏らしたかどで不興を買い、歩兵連隊長に転出。ポーランド戦では軍団参謀長、その後は1942年まで第31歩兵師団で歩兵連隊長、のち師団長代理としてモスクワ前面で戦う。短い休養後3月には少将・第82歩兵師団長としてB軍集団の戦線北端、ヴォロネジ方面に進出して守備に任じるが、7月には再び総統予備に入る(8月に中将)。1943年5月、第31歩兵師団長に復帰してモーデルの第9軍でツィタデル作戦に参加。8月、後退を続ける中で第56軍団長代理。11月に歩兵大将となり代理から軍団長へ。軍団はボブルイスクでバグラチオン作戦を受け止めたが、1944年7月に第4軍司令官に転じ、東プロイセンへの後退戦を指導。1月末に解任されそのまま終戦。



ポータル、チャールズ

Charles Portal, 1st Viscount Portal of Hungerford

1893-1971


 爆撃機に偏ったキャリアではないが、1940年に47才で爆撃機部隊司令官となる。爆撃機部隊はイギリス本土からドイツを攻撃できる武器として期待されながら、重爆撃機の開発も配備も進まなかったので、司令官を代えてもすぐには何もできなかった。そしてダウディングの解任をめぐる対立で空軍参謀総長が空席となり、早くも10月には空軍参謀総長となる。年齢ゆえの限界に付きまとわれつつ、終戦までつとめる。



フォン・ボック、フェードア

Moritz Albrecht Franz Friedrich Fedor von Bock

1880-1945


 原隊は近衛歩兵第5連隊。1918年春季攻勢でヴィルヘルム皇太子軍集団司令部で参謀を務め、プール・ル・メリット勲章を受章(少佐)。ポーランド戦から軍集団司令官として働き、フランスではB軍集団、ハルバロッサ作戦では中央軍集団を率いる。モスクワ攻略失敗により事実上罷免されたが、直後にライヒェナウ元帥が病死したため、南方軍集団、ついでB軍集団を率い、作戦上の対立から1942年晩夏にふたたび罷免される。その後は登用されなかったが、終戦直前に乗用車をイギリス機に掃射されて亡くなる。最終階級は元帥。



ホッジス、コートニー

Courtney Hicks Hodges

1887-1966



 第1次大戦では歩兵大隊長として欧州で戦う。第2次大戦ではアメリカ第1軍がイギリスに渡ると司令官代理、1944年8月にブラッドレーが軍集団司令官になると後任司令官。アーヘンの戦いなどで連合軍戦線の中央部を担当。最終階級は大将。



ホト、ヘルマン

Hermann Hoth

1885-1971


 士官学校卒業を1年延ばしてアビトゥアー(大学受験資格)を取らせてもらったことは、ホトが秀才であったことをうかがわせる。後年マンシュタインと仲が良かったのもタイプが似ていたのだろう。原隊は歩兵。陸軍大学校に進み、第1次大戦では東部戦線で参謀士官を務め、短期間だが第49(偵察)飛行隊長代理を務めた後、終戦直前まで航空隊総司令部にいた。開戦直後に大尉になったきり終戦まで昇進がなく、大佐になったのは1932年だった。1938年、騎兵系の軽機械化師団を束ねる予定の第15軍団が創設されて軍団長となり、ここではじめて装甲部隊と縁ができる。フランス戦後に上級大将。第3装甲集団を任されてモスクワに迫るが、11月に南方の第17軍司令官が空席となり移されてしまう。


 1942年、プラウ作戦のため南方に移された第4装甲軍の指揮を執る。なお第4装甲軍はしばらく「ホト軍集団」の二枚看板を上げたが、これはルーマニア軍を指揮下に含んだためOKWから政治調整に基づく命令を出せるようにする措置で、他にも類似例がある。ホトと第4装甲軍はマンシュタインの指揮下で働き続けたが、ソヴィエト軍がドニエプル川を渡ってキエフに迫った1943年11月、ホトはラウスに交代させられる。終戦直前になって西部戦線で第7軍司令部所属の地域司令部を任されたが、手足となるべき部隊がもういないのでは実質的に戦えなかった。



ポドラス、クズマ

Kuzma Petrovich Podlas(Кузьма Петрович Подлас)

1893-1942


 ソヴィエト第1赤旗軍司令官としてポポフの前任。リュシコフ亡命事件に連座して降等と強制労働3年を言い渡されるが1940年に恩赦されて現役復帰。1942年8月、中将・第57軍司令官としてハリコフ南方で包囲され戦死。



ホバート、パーシー

Sir Percy Cleghorn Stanley 'Hobo' Hobart

1885-1957


 工兵科から戦車兵となる。リデル・ハートが色々な戦車戦の有名人に「影響を受けた」と書いてくれと言いまわった話は知られており、Wikipediaに載っている話も留保が必要か。


 フラーとホバートの戦車戦理論(1920年代版)は、戦車のスピードについてこられる車両部隊(タンケッテや機銃搭載の軽装甲牽引車を含む)だけで、艦隊のように戦場を進退するイメージを持っていた。これは航空機の能力向上もあって現実味が薄れ、その一方で「騎兵の近代化」としての機械化総監部がリソースをごっそり持っていくことになり、戦車兵総監部は歩兵戦車を運用して短距離の戦線突破を図る任務に自己限定を余儀なくされた。1930年代以降のイギリスが歩兵戦車と巡航戦車を持っていたのは、戦車兵総監部と機械化総監部の求めるものが食い違ってきたからである。


 ホバートはエジプトにできた(戦車が多く、歩兵と砲兵が少ない)機甲師団を指導したが、上記のような一周遅れの考えであったこともあり不評であった。1940年に解任され不遇をかこったホバートのことをリデル・ハートが記事にして復権を願ったのは多分本当であろう。1941年に現役復帰して新編師団の指導に当たる。ノルマンディー上陸作戦では様々な実験車両を抱えた第79機甲師団長を引き受けるが、師団全体としての交戦を指揮する機会はなかった。


 1937年に亡くなったモントゴメリーの妻エリザベスはホバートの実妹である。エリザベスは再婚。亡夫は1908年ロンドン五輪の8人制ボート競技で銅メダルを取ったオズワルド・カーバーで、1915年のガリポリで戦死して2人の連れ子がいた。



ホプキンス、ハリー

Harry Lloyd Hopkins

1890-1946


 ルーズベルト時代にはすでに元商務長官だったが、無私で熱心で反ヒトラーな姿勢から、大戦中にルーズベルトの特使として政治調整に活躍した。果敢に世界を駆けたが病弱でもあり、初めてロンドンにチャーチルを訪問した当日は(旅の疲れで)レセプションが開けなかった。



ホー=ベリシャ、レスリー

Leslie Hore-Belisha, 1st Baron Hore-Belisha

1893-1957


 第1次大戦に従軍し陸軍少佐。事務弁護士となり自由党から政界に進出。マクドナルド挙国一致内閣に協力するサイモン派自由党に属し、運輸大臣として運転免許制度の創設など自動車時代草創期の課題に取り組む。1937年、クーパー陸軍大臣の辞職にさいして後任となる。


 少佐と言っても後方勤務で、陸軍の指導者としての素養のなさを陸軍首脳部は終始嫌った。1940年初め、イギリス大陸派遣軍がベルギー防衛作戦の変更で大規模な配置替えをした直後の戦線を視察し、陣地構築ができていないことを「開戦以来の時間を空費した」と誤解して陸軍の憤激を買い、ついにチェンバレンは解任に踏み切る。以後の政治的キャリアは冴えないものとなった。



マッケンジー、ウィリアム

William Beveridge Mackenzie

1885-1951


 イギリス海軍でいわゆる水雷屋のキャリアを積み、巡洋艦長などを歴任して、1936年に少将昇進ののち予備役となる。1941年5月にOB318船団の指揮官を務める。



ポポフ、マルキアン

Markian Mikhaylovich Popov(Маркиан Михайлович Попов)

1902-1969


 この人物は本編で流転の人生をたどるので、ネタバレはなしにしたい。ロシア帝国の私立学校教師として平凡な人生を送るはずが、革命で色々あって、スターリンの死後にソヴィエト陸軍参謀総長まで栄進し、フルシチョフ失脚直後の1965年に(20年前までの功労で)ソヴィエト連邦英雄の称号を受けた。だから読者諸賢は本編でポポフがどんなにひどい目に遭っても「死なないんだよなこいつ」と生暖かく見ていて頂きたい。



ド・ボーリュー、ヴァルター

Walter Chales de Beaulieu

1898-1974


 原隊は野砲兵。戦間期に参謀士官となる。独ソ戦初期に第4装甲集団でヘップナーの参謀長。以後歩兵師団長などを歴任したが1944年9月に予備役とされ1945年1月に(ヘップナーへの連座で)軍籍を取り消される。最終階級は中将。フランス系の名前なのは、亡命した新教徒貴族の末裔であろうか。



ボールドウィン、スタンリー

Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley

1867-1947


 イギリスにとって第1次大戦前後は貴族院と下院のパワーバランスが大きく傾いた時期であり、ボナー=ロー保守党首の病死で出来た政治的空白と合わさって、繰り上がるように首相となった。いったん選挙に敗れ労働党に政権を譲ったが、その親ソヴィエト政策が反発を生み、再びボールドウィンが保守党内閣を立てた。経済力にもう見合わないポンド高のレートで金本位制に復帰したことがきっかけとなって再び労働者の批判を浴び、下野することになった。しかしこのタイミングで世界大恐慌が起き、マクドナルドが一部の労働党員を率い、一部の自由党員とともに保守党と連立することになり、保守党首として隠然たる力を持ったまま、ヒトラー政権の誕生を迎えることになった。空軍拡張を軸とするヒトラー政権対策は、ボールドウィンとチェンバレンが主導することになった。


 1935年から、チェンバレンに党首を譲る1937年まで最後の政権を担当した。ただし彼の政策は、大陸での陸戦に加わらないということであり、フランスを単独でヒトラーの矢面に立たせることにもなった。



マインドル、オイゲン

Eugen Meindl

1892-1951


 原隊はヴュッテンベルク王国の野砲兵。中尉で終戦を迎え、1939年4月に大佐。第5山岳師団の砲兵連隊長としてナルヴィクで戦闘群を指揮し、1940年秋に空軍に転籍して第1空輸突撃連隊を任される。クレタ島降下作戦ではマレメ飛行場をめぐる死闘に参加し、重傷を負う。復帰した1942年初頭からマインドル戦闘群を率いて東部戦線で後方の治安戦に当たり、1942年9月には空軍地上部隊の訓練に当たる第13航空軍団の軍団長となる。19443年秋に空軍地上師団が陸軍に移管されると、1944年1月に第13航空軍団は第2降下軍団に再編され、西方軍直轄、のちに第7軍のもとで第3降下猟兵師団・第5降下猟兵師団を率いてサン・ローなどで戦った。ファレーズ包囲戦で大きな損害を受けたのちも、第1降下軍創設後はその下につき、マインドルと軍団司令部はオランダや北ドイツで戦い続けた。最終階級は降下兵大将。



マクドナルド、ラムゼイ

James Ramsay MacDonald

1866-1937


 ロシア革命前後のイギリスでは、保守党や教会勢力が社会改良を目指す一方、労働運動の一部は社会主義革命を指向し、議会を通じた労働者の権利拡大を目指した運動家たちも、自由党との協力の程度や、社会主義的な社会改革の程度についていろいろな意見を持っていた。マクドナルドは労働党の草創期から議会政治に関わり、自由党との連携をまとめるうえで大きな役割を果たした。1923年の総選挙でボールドウィンの保守党が大負けして、ロイド=ジョージ内閣崩壊からまだ自由党が立ち直れず、第2党ながら自由党の閣外協力を受ける第1次マクドナルド内閣が1924年に成立する。初めての労働党政権ゆえに風当たりも強く、1年を経ずして国会解散に追い込まれ、保守党に政権が戻る。


 1929年、1924年総選挙で得た保守党多数の下院が任期切れを迎え、マクドナルドはふたたび自由党の協力下で政権を握るが、世界大恐慌に見舞われ、緊縮予算を巡って世論も政界も割れる。マクドナルドは連立内閣の組閣を試みるが、労働党はマクドナルドと同志たちを除名し、労働党由来の小さなグループと自由党の一部が保守党と組む連立内閣ができ、健康悪化で保守党にボールドウィンに政権を禅譲する1935年まで続く。



マジノ、アンドレ

André Maginot

1877-1932


 官僚として栄達したが政界に転じ、第1次大戦で徴兵されて負傷。大戦中から閣僚を務め、1922年から陸軍大臣。このときの構想は曲折を経たが、1929年から再任した陸軍大臣時代、最終的にマジノ線(独仏国境要塞線)建設が決着する。1932年、腸チフスで急死。



マーシャル、ジョージ

George Catlett Marshall Jr.

1880-1959


 原隊は歩兵。米西戦争の影響もあり、若手士官としてフィリピンで長く過ごす。第1次大戦では参謀士官としてパーシング欧州派遣軍司令官の知己を得て、大戦末期には欧州派遣軍作戦参謀として腕を振るう。戦後の軍縮にあい、陸軍参謀総長となったパーシングの副官をつとめる。1936年、56才でようやく准将となる。開戦直前、ルーズベルトに堂々と反対意見を述べて逆に参謀総長に抜擢される。戦後はトルーマンの国務長官を務め、マーシャルプランをまとめて欧州復興の基礎とした。最終階級は元帥。



マスレニコフ、イワン

Ivan Ivanovich Maslennikov(Иван Иванович Масленников)

1900-1954


 第1次大戦には年齢から参戦せず、1918年に志願したのはすでに赤衛軍であった。騎兵士官として累進し、国境警備部隊での勤務を経て1932年にNKVDの騎兵連隊長となる。1939年から内務人民委員代理として、ベリヤの側近となる。1942年春、ドイツ中央軍集団のザイドリッツ作戦で指揮下の第29軍が壊滅するが、たまたま負傷して飛行機で後送される。1942年8月以降はカフカズ(コーカサス)戦線で戦い、1943年1月に北カフカズ方面軍司令官に取り立てられるが、黒海での上陸作戦の不手際や北西カフカズ地方での包囲命令失敗などで、5月以降は他の方面軍で司令官代理に左遷され、レニングラード解放戦などで実績を積む。1944年10月、第3バルト方面軍司令官に起用される。大戦末期には極東で関東軍と戦いソヴィエト連邦英雄。経歴後半を通じ、しばしばベリヤのもとで要職に在り、ベリヤ失脚後に尋問を受け、将来を悲観して自殺。最終階級は上級大将。



マランディン、ゲルマン

German Kapitonowich Malandin(Герман Капитонович Маландин)

1894-1961


 独ソ開戦時の参謀本部作戦課長。西部方面軍参謀長に転じ、10月に免じられるまで、モスクワ前面まで押し込まれる敗勢の責任者のように扱われたと思われる。以後は教育関係のポストと、はるかに格下の軍参謀長しかやらせてもらえなかった。戦後の1952年になって陸軍参謀総長についている。最終階級は上級大将。



マルクス、ヴィルヘルム

Wilhelm Marx

1863-1946


 裁判官として成功したのち、ドイツ帝国内では非主流派だったカトリック系の中央党(プロイセンはプロテスタント中心)で国会議員となった。戦間期のマルクス内閣は決まって少数内閣で、閣外に出てしまったSPDと個別に妥協を図るようなものになった。1925年の大統領選挙では長年シュトレーゼマンと協力し、国際連盟加盟も実現させたマルクスが、ヴェルサイユ条約への不満票を集めたヒンデンブルクに負ける形になった。ヒトラー政権下では政治活動を控えた。



フォン・マンシュタイン、エリッヒ

Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein

1887-1973


 原隊は第3近衛歩兵連隊。最終階級は元帥。事績については皆さんご存知であろう。


 生家のレヴィンスキー家は、ポーランド北部のレヴィノ(Lewino)周辺の地主貴族で、ポーランド王に封建君主として属するとき、ポーランド風の名前になった。マンシュタインが生まれた一族の館は南ポーランドのボルコビツェ(Borkowice)にあった。軍人一族として出世して、館だけ買ったのであろう。


 マンシュタイン家の方は、数代さかのぼるとロシア帝国の将軍がおり、フリードリヒ大王のころにプロイセン軍に移った一族である。普仏戦争で活躍したエリッヒの義祖父グスタフ(歩兵大将)など成功した将軍を出したので富裕であったが、農地はなかった。


 ヒンデンブルクは義理の伯父。



マントイフェル、ハッソ

Hasso Eccard von Manteuffel

1897-1978


 原隊は騎兵。前大戦では少尉。フォン・クライスト上級大将の娘婿。中佐で迎えた第2次大戦では第7装甲師団の自動車化歩兵連隊(装甲擲弾兵連隊)に属し、1941年にモスクワを北から回り込んだ部隊では最先頭近くに進む。末期のチュニジア戦に派遣され集成師団(マントイフェル師団)を率いるが、重病で後送される。回復後に古巣の第7装甲師団を引き継ぎ、1944年2月からはグロスドイッチュラント師団に転任して東部戦線で戦い続ける。東プロイセンへ押された師団であったが、9月に呼び戻され、大将昇進と再編成された第5装甲軍の司令官職を与えられる。「ラインの守り」作戦のための抜擢である。しかし成功せず、1945年3月には解任されたラウスの後任として第3装甲軍を率い東部戦線に戻る。最終階級は装甲兵大将。



ミュラー、ヴィンツェンツ

Vincenz Müller

1894-1961


 原隊は工兵。戦間期に参謀教育を受け、シュライヒャーの下で政治的任務をあてがわれた時期もあったが、ヒトラー政権になっても目立った左遷はなかった。大戦では第17軍参謀長を長く務めたほか、師団長や戦闘群長として終始東部戦線にいた。バグラチオン作戦で第4軍司令官がヒトラーに召喚された後の降伏処理を押し付けられ、ウィッツレーベンら反乱グループとの親交もあったミュラーは、対ソ協力者に転じる。戦後の東ドイツ軍で栄達するが、それは政争に深入りすることでもあり、1961年の自殺は逮捕を予感してのものともいわれる。



ミルヒ、エアハルト

Erhard Milch

1892-1972


 歩兵士官からパイロットを目指したが不合格。観測員として空に戻り、終戦時には大尉。ユンカース社創業者フーゴー・ユンカースの航空郵便会社、さらにユンカースの関わった別会社のルフトハンザ社で台頭し、ゲーリングの下でルフトハンザ重役と航空省のポストを兼ね、ドイツ航空省次官、空軍査閲総監。1938年に上級大将、1940年に元帥。


 1938年からゲーリングの猜疑を受け、実権を制限される。ゲーリングが対抗させようと配置したウーデット技術局長の失脚後、山積する課題を前に奮闘する。スターリングラード以降、空軍に課せられる課題は能力を超え、ヒトラーとゲーリングの両方からにらまれ、イェションネック参謀総長も自殺する。シュペーアはミルヒから見れば一種の同盟者であり、航空機生産の主導権は1944年初頭から順次シュペーアに移る。夏以降、名目上はシュペーアの次官となる。1945年1月末、空軍のポストを失って総統予備に編入される。



ムッソリーニ、ベニト

Benito Amilcare Andrea Mussolini

1883-1945


 ドゥーチェではあるが女子高生ではない。国民国家として統合されて100年に満たないイタリアでは、社会主義・共産主義への態度と個別の領土要求への支持、宗教問題への姿勢と言ったものは複雑に組み合わさるのであり、現実と理想のどちらに徹底しきることも難しかった。ムッソリーニの政治的立場は一言では言えないが、同時代のイタリアでは珍しいことではなかった。


 学生のころから政治的言動が多く、やがてスイスに渡り、様々な異文化体験をする。のちにヒトラーとはドイツ語で会談できた。語学教師として、また政治活動家として様々な地域で活動し、第1次大戦が始まるころにはイタリア社会党の機関紙編集長として国政に物申せる立場まで昇る。


 第1次大戦が始まると、1914年秋には連合国側について戦うよう論陣を張り、反戦主義の主張も強い社会党機関紙を離れ、新たな新聞を起こして社会党と決別する。イタリアが参戦すると志願して兵役につき、勇戦してCaporal maggioreに昇進した。この階級は現代のNATO分類ではOR-3であり、ドイツ連邦軍のObergefreiterやHauptgefreiterと同等とされている。兵長と訳すべきか。榴散弾の断片を浴びて、1919年に除隊を余儀なくされる。


 参戦を呼び掛けたときからムッソリーニは実質的に政治集団を率いる格好になっていて、戦後にそれは政党の形を取り、ファシスト党となる。古巣の社会党は今なお有力政党だったが、農地改革を警戒する自作農はムッソリーニと政治的な同盟関係になり、農地を守る自警団的な組織もムッソリーニたち(参戦を叫び、自分も従軍したムッソリーニの支持者だから復員兵も多い)に合流して黒シャツ隊へと変わっていく。


 1922年の「ローマ進軍」は、こうして大きな存在になった黒シャツ隊が各地の要所を占拠する中で、野党であったムッソリーニのファシスト党が政権奪取をめざしローマにデモをかける計画だった。当時の首相は王党派・穏健保守派(自由連合)から出ていて、社会党などの左派とファシスト党に代表される民族主義・反社会主義勢力の両側から攻撃されて多数が取れなかった。軍との正面衝突にならないよう裏交渉が盛んにおこなわれ、結果的に国王が先に折れてムッソリーニを首相に指名する。


 反対勢力の排除は数年をかけてゆっくりと行われ、ときに強硬な対外姿勢が見られたものの自由貿易が堅持されたが、イタリア経済は国際競争力を失っていき、政府の介入でも相対的な経済力低下は止められなかった。農地開拓の推進なども、国際競争力という観点からはもともと勝ち目がなく、1929年の世界大恐慌の結果が重なった。


 イタリアのエチオピア領有への指向は1894年の第一次エチオピア戦争ですでに形を取っていたもので、ムッソリーニ政権になって始まったものですらない。「国民の不満をそらす」というほど1929年以降の国内状況が悪かったのか、また英仏に対して「ヒトラー政権に対する同盟者としてのイタリアの価値」が上がったり、英仏がヒトラーに対して何もしなかったりする状況をムッソリーニがどうカウントしていたのかなど、評価の難しい事柄が色々ある。ともあれ、1935年に始まったエチオピア侵攻は、表面的には勝利であったが、駐留負担や経済制裁でイタリアをじわじわと傷つけていった。1936年のスペイン内戦への介入は上乗せの負担となった。日本が1937年からずっと中国で戦争をしていたように、イタリアは1935年から戦争続きだったのであるから、無理のあるスピードで軍の規模を拡大し、その人的物的資産をそっくり抱えて開戦したドイツと比べて、1940年以降に装備や精兵や資源備蓄が見劣りするのは当然である。


 だから1940年以降、イタリアはいろいろ足りないので負けた。


 ムッソリーニは1943年に失脚し幽閉されたと言っても、すでにシシリー島に火がついている状態で、イタリアのあちこちにドイツ軍部隊がいた。だから救出されたムッソリーニ自身は飛行機で脱出したけれども、救出部隊は普通に下山してそうしたドイツ軍部隊と合流できた。ヒトラーの保護下で北イタリアのミラノに新政権が置かれ、ムッソリーニ自身にはサロ湖近くに滞在先がしつらえられた。彼らが使ったホテルの一部は現代でも夏だけ営業しているものがあり、冬の寒さを想像できる。


 パルチザンに確保され、処刑されるまでの経緯については(当初は渋っていたムッソリーニが、スイスへの亡命を目指したかどうかを含め)多くの点がはっきりしていない。



メフリス、レフ

Lev Zakharovich Mekhlis (Лев Заха́рович Ме́хлис)

1889-1953


 ロシア陸軍では砲兵下士官。政治士官として台頭し1930年からプラウダ編集長。スターリンの取り巻きとなり、1942年にはSTAVKA代表というあいまいな立場でクリミア方面軍に介入するが崩壊を招き降等。その後いくらか地位を回復するが、告げ口ばかりで非生産的な人物像を広く敬遠される。



メレツコフ、キリル

Кири́лл Афана́сьевич Мерецко́в(Kirill Afanasievich Meretskov)

1897-1968


 フィンランドとの冬戦争でヴォロシロフなど実務ができない先輩たちを支えたが、1940年初頭にスターリンへの説明で不興を買い、ソヴィエト軍参謀総長を解任される。ドイツとの戦いが始まるとそのときの言動をサボタージュと疑われ投獄されたが、数か月で解放され、レニングラード方面軍のすぐ南隣を担当するヴォルホフ方面軍を長く務めた。ついに1943年1月、レニングラードの包囲を破るイスクラ作戦を成功させる。1944年にはフィンランドとの戦いに転じ、1945年には満州侵入に参加する。戦後は大きな批判を浴びることもなく、元帥として国防次官を長く務める。



モントゴメリー、バーナード

Bernard Law Montgomery, 1st Viscount Montgomery of Alamein

1887-1976


 第1次大戦終戦時には戦時中佐・大隊長だった。フランス戦では歩兵師団長としてダンケルクから撤退する。フランスにおいても、イングランドを守る軍団長となってからも、厳しい訓練を課して部隊の即応力を高めることで定評を得る。引き続き1941年末から(イングランド)南東方面司令部を指揮したが、エル=アラメインに逃げ帰ったイギリス第8軍の司令官として1942年8月に呼び寄せられる。演習魔ぶりを再び発揮したモントゴメリーは物量の優位を生かす第1次大戦末のイギリス軍を思わせる指揮で、チュニジア、シシリーと勝ち進み、ノルマンディー反攻作戦では軍集団司令官としてアイゼンハワーの下につく。マーケット=ガーデン作戦では主唱者として、また作戦遂行中の責任者として批判されることも多い。戦後に子爵、最終階級は元帥。



サー・モントゴメリー=マシングバード、アーチボルト

Sir Archibald Armar Montgomery-Massingberd

1871-1947


 原隊は野砲兵。第2次ボーア戦争で戦功を立て、本国で参謀士官として累進し、第1次大戦ではフランスに出征する。参謀として多くの司令部を切り回し、終戦時には少将・軍司令官代理となる。1930年に大将。1933年に陸軍参謀総長となって騎兵の機械化に取り組む。1935年に元帥、1936年に退役。


 日本陸軍で捜索連隊に親授の軍旗を返させるのが難しかったように、伝統ある(多すぎる)騎兵連隊を近代化していくことは、あえて言えば戦車兵総監部が何を言おうと、困難ではあるが推進しなければならず、そのさい軍事的な合理性はいったん脇に置くしかなかった。モントゴメリー=マシングバードとマーテルが推進した「機械化」には実戦的でない部分があったが、同時期にもっとうまくやれる道筋があったかというと、なかなか難しいであろう。



ヤコヴレフ、アレクサンドル

Александр Сергеевич Яковлев(Alexander Sergeyevich Yakovlev)

1906-1989


 Yak系列の戦闘機を設計した技術者であり、スターリンの信任を受けて関係分野の閣僚も務めた。彼の設計チームがヤコヴレフ設計局という名称を得たのは戦後のことである。



ユマシェフ、イヴァン

Ivan Stepanovich Yumashev(Ива́н Степа́нович Юма́шев)

1895-1972


 第1赤旗軍司令官時代のポポフの上司(ソヴィエト太平洋艦隊司令官)。大戦を通じこの任にあり、1945年に満州国に侵入した陸軍部隊はユマシェフの指揮下にあった。



ヨゼフ


 架空の人物。ベルリンのバー経営者。



ヨードル、アルフレート

Alfred Josef Ferdinand Jodl

1890-1946


 ヨードルの一族はもともとオーストリアに住んでいて、JodlとJodelは同根の言葉である。士官の息子だが高級軍人を出した一族ではない。バイエルン王国で野砲兵連隊を原隊とする。第1次大戦中は砲兵士官として普通の経歴をたどり、大戦中に速成課程ながら陸軍大学校卒業者相当の参謀士官となる。


 ヒトラー政権下で再軍備の進んだ1935年、国土防衛課(L課)課長となり、ブロンベルクやカイテルを軸とする政争に巻き込まれていく。1938年に一般部隊に転出するが、開戦が迫るとカイテルのご指名で古巣に戻り、OKW作戦部長を拝命する。1946年、ニュルンベルク裁判で刑死。最終階級は上級大将。



フォン・ライヒェナウ、ヴァルター

Walter von Reichenau

1884-1942


 原隊は第1近衛野砲兵連隊。大戦中に参謀士官として速成される。大尉で終戦。ヒトラー政権発足時には大佐。ヒトラーの信奉者として陸軍高級士官としては最も早くから接近し、同僚のあいだでの評判は芳しくなかった。第2次大戦が始まると英仏との和平をヒトラーに説きつけて嫌われ関係が冷える。1941年末に次々と司令官たちを解任したヒトラーは、ライヒェナウに南方軍集団を任せたが、現地の寒い早朝に心臓発作を起こし戦病死。最終階級は元帥。



ラインハルト、ゲオルク=ハンス

Georg-Hans Reinhardt

1887-1963


 原隊は歩兵。大戦中に参謀士官となる。1937年に第1装甲師団で自動車化歩兵旅団長になって、初めて装甲部隊と縁ができる。フランス戦から独ソ戦初期には自動車化(装甲)軍団長を務め、ホトが転任したので第3装甲軍を引き受ける。そのまま1944年まで中央軍集団北翼を担当したが、バグラチオン作戦では一方的な蹂躙を受ける。一方モーデルがロンメルの後任として離任したため、1944年8月から中央軍集団司令官を務める。戦局は好転せず、1945年1月に解任を受ける。最終階級は上級大将。



ラウス、エアハルト

Erhard Raus

1889-1956


 第1次大戦ではオーストリア士官として自転車中隊長(猟兵)を務めた。1938年のオーストリア併合時には大佐。ドイツ軍に移り、第1軽機械化師団(のち第6装甲師団に改編)で自動車化歩兵連隊長、さらに自動車化歩兵旅団長を務めた。東部戦線ばかりを北から南まで転戦し、大戦後半には3つの装甲軍で司令官を歴任した。その多くについて著作が残っており、死後に回顧録のような体裁で出版され、直截(ちょくさぃ)で明快・冷徹な筆致から人柄がしのばれる。



ラーテナウ、ヴァルター

Walther Rathenau

1867-1922


 実業家であり、エジソンの特許製品を生産販売することから始まったAEG社の創業者は父であったから、資産家でもある。AEG社の事業は発電機から冷蔵庫までの各種電気製品、さらには電気機関車などにも及んだ。第1次大戦序盤、プロイセン王国国防省で原材料局長を務めるが、1915年に父が死ぬと経営の実権は握らず、公職からも退いて著述を主として活動する。次第に戦争の勝利について前のめりになり、1918年の停戦にも反対するほどになる。戦後は民主党の創設に参加し、外務大臣としてソヴィエトとラパッロ条約を結んで、ユダヤ人であったこともあり反共政治団体から憎まれ、オープンカーへの狙撃で暗殺される。



ラマーディング、ハインツ

Heinz Bernard Lammerding

1905-1971


 徴兵のなかった世代で、終始SSの中で学び、勤務した。中央軍集団後方の治安戦ないし弾圧戦を指揮する、悪名高きフォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの参謀長を務め、ダスライヒ師団に転任してからも対パルチザン戦闘を続ける。フランスへ師団が転じても対レジスタンス弾圧の日々であり、その経歴をどう思われたのか、ヴァイクセル軍集団参謀長としてヒムラーに招かれる。戦後は追及を恐れ1958年まで潜伏しており、ついに投獄されずに終わった。最終階級はSS中将。



ラングラフ、フランツ

Franz Landgraf

1888-1944


 原隊は歩兵。独ソ戦開戦時に第6装甲師団長。1942年にラウスと交代してからは後方で訓練部隊を指揮していたが健康が回復せず、1943年に予備役、翌年死去。



ランツ、フーベルト

Hubert Lanz

1896-1982


 第1次大戦では歩兵中尉。フランス戦後に第1山岳師団長。1942年12月の師団長解任は、カフカズ山脈のエルブルス山へ登山隊を送ったことへの懲罰だと誤解されていることがあるが、本国では柏葉騎士十字章と大将昇進が待っていたのだから、帰国と次の職務への栄転であったことは疑いない。だが新しい任地は、マンシュタインが大穴を埋めようと奮闘するウクライナだった。ランツ軍支隊司令官としてハウサーの上司になったが、ヒトラーが命じる死守にハウサーはどうしても同意せず、ついには命令違反の撤退をして、上司のマンシュタインものらりくらりとハウサーへの懲罰を避けた。結局ハウサーの撤退が勝利のカギになって戦線は安定し、八つ当たりのようにランツが罷免されてしまった。その後、軍団長として再起用されたが、ギリシアでのいくつかの残虐行為の責任者とされ、戦後には戦犯として3年間服役した。



リース、エリック

Eric Rees

1887-1942


 船員であり両大戦でRNRとして応召した。イギリス海軍予備大佐。OB-318船団では船団次席指揮官(Vice Commodore)。1942年の死は本国訓練船での殉職であるようだが詳細不明。



リッチー、ニール

Sir Neil Methuen Ritchie

1897-1983


 原隊は歩兵。フランス戦ではアラン・ブルック軍団長の参謀長として沈着な執務を見せ、ブルックが「ダンケルク橋頭堡防衛司令官」のような立場にされかかって危機に立ったときも、引き続き参謀長として請われ、支え続けた。


 第51歩兵師団長を8カ月務めた後、ウェーヴェルとオーキンレックの下で中東総軍参謀長代理。カニンガムの解任に伴い第8軍司令官、中将昇進。しかし急すぎる抜てき人事もあって配下の将軍たちが心服せず、ロンメルの逆襲に加えて1942年6月にはトブルクを失陥し、オーキンレックに解任される。


 だが、そのあいだに陸軍参謀総長になっていたブルックの配慮で、第52歩兵師団長から修行のやり直しとなる。ノルマンディー反攻以降は軍団長を務め、上司モントゴメリーの回想録でも一定の評価を受けている。



リッツ=シミグウィ、エドヴァルト

Edward Rydz-Śmigły|(またはEdward Śmigły-Rydz)

1886-1941


 ポーランド人であったがオーストリア軍予備士官であったため応召し、のちピウスツキの指揮下に移る。終戦時は大佐。1920年のソヴィエトとの戦争ではワルシャワ防衛を指揮。1926年のクーデターでピウスツキを支持し、第2次大戦では最高司令官となる。ルーマニアに脱出したがシコルスキ亡命政権は反ピウスツキ勢力が立てたもので、リッツ=シミグウィの立場はなかった。おそらくこのため、名を隠して地下活動に参加し、病死する(時期は異説あり)。



フォン・リッベントロップ、ヨアヒム

Ullrich Friedrich Willy Joachim Ribbentrop

1893-1946


 カナダでドイツワインを商い成功していたが、第1次大戦で身柄と資産の危機を感じ帰国。従軍して父のいた連隊に志願し、終戦時は中尉。戦間期にワイン貿易で再び成功する。


 1932年にNSDAPへ入党し、大戦以来旧知のパーペンを介してヒトラーに接近し、自分の社交界での交際をヒトラーのために提供する。党内で急速にのし上がり、外務省と競合するリッベントロップ機関での活動を経て、1938年に外務大臣となり、戦間期末期の恫喝外交を主導する。戦後はニュルンベルク裁判を経て処刑。



リデル=ハート、バジル

Sir Basil Henry Liddell-Hart

1895-1970


 第1次大戦中に志願して歩兵士官となり、負傷も経験したが、1196年のソンムの戦いで毒ガス攻撃を受け、後方での教育任務に就いた。そこで文才を認められ、歩兵訓練マニュアルの執筆に参加。歩兵大尉として退役し、デイリー・テレグラフ紙やザ・タイムズ紙の軍事評論記事で知られるようになる。


 本人の指揮経験はほとんどなく、軍事知識は読んで得るか、人から得るかしかなかった。1938年以降、諸事情で陸軍大臣となった軍事がわからない大臣、ホー=ベリシャの非公式な相談相手となり、その不適切ないくつかの決定の陰にリデル=ハートの助言があったと疑われた。戦後、立場を回復するためにリデル=ハートは自分のことを(例えば、影響を受けたと)良く書くよういろいろな人に頼んだと言われる。


 ネヴィル・チェンバレンに軍歴はないが、伝統的に陸軍と仲の良い保守党の領袖がわざわざ退役大尉の意見を頼りにする理由もなく、チェンバレン本人への影響力については慎重に評価したほうが良いと思われる。そしてチェンバレン内閣時代の陸軍将官たちが、ホー=ベリシャやその非公式助言者のことをチェンバレンによく言うはずもないのである。



フライヘア・フォン・リヒトホーフェン、ヴォルフラム

Wolfram Karl Ludwig Moritz Hermann Freiherr von Richthofen

1895-1945


 シュレジェンの農場持ちユンカーの家に生まれる。いとこのマンフレート・アルブレヒトは第1次大戦の撃墜王"レッドバロン(ローテンバロン)"として知られる。出生名はウルフだったが、(おそらくマンフレート・アルブレヒトの戦死後)叔父でマンフレート・アルブレヒトの父マンフレート・フライヘア・フォン・リヒトホーフェン騎兵大将の養子になって、実父の名であるヴォルフラムに改名した。日本語版Wikipediaの記事は養父と実父を取り違えている。騎兵であったが航空兵に転じ、大戦末期には従兄弟の飛行隊に属し8機を撃墜した。


 戦間期には陸軍で将来の航空隊復活を期してキャリアを積んでいた。空軍発足とともに転属。(大なり小なり、多くの同僚とともに)Ju87の開発に否定的であったが、スペイン内乱で急降下爆撃隊が成功すると熱心な推進者に転じ、ついに地上攻撃部隊を自分で指揮することになった。彼の第8航空軍団は地上部隊との連携にも熟達し(補給面などで、原則違反も押し通したらしいが)、常に焦点の戦域に投じられた。1942年6月から第4航空艦隊司令官、のち第2航空艦隊司令官。脳腫瘍を患い1944年に事実上の退役。




リュシコフ、ゲンリフ

Genrikh Samoilovich Lyushkov(Генрих Самойлович Люшков)

1900-1945


 ソヴィエト内務人民委員部の幹部。エジョフが実権を失い後輩のベリヤが台頭したとき、粛清を恐れて日本に亡命する。関東軍司令部で諜報に携わり、終戦後に日本陸軍が口封じに射殺する。



フォン・リュットヴィッツ、ヴァルター

Walther Freiherr von Lüttwitz

1859-1942


 原隊は歩兵連隊。第1次大戦を中将・師団長として迎える。大戦中盤からは軍団長。1918年の敗戦後新政府に協力していたが、10万人陸軍への縮小に反対し、カップ一揆の軍事的指導者となる。1925年に恩赦され帰国。



リューデル、ギュンター

Rüdel, Günther

1883-1950


 ルーデルとは綴りも違うし、縁もゆかりもない。原隊は野砲兵(バイエルン軍)。1915年以降、草創期であった対空砲部隊の指揮官のひとりとなる。戦間期には普通の砲兵士官としてキャリアを積んでいたが、1934年に少将となり防空の責任者、のち空軍に移籍して対空砲総監に任じられる。大戦が始まるとウーデット技術局長やイェションネック空軍参謀総長と意見が合わず1941年7月に航空兵大将で退役。1942年秋、いずれ本編で触れられる事情により一時的に現役に復帰し、上級大将に昇進し騎士十字章を受けてすぐ退役。



ルーズベルト、フランクリン

Franklin Delano Roosevelt

1882-1945


 ルーズベルト一族は、第二次英蘭戦争までオランダ領だった現在のニューヨークに移民してきたオランダ系の古い家系である。共和党を支持する一族からは日露戦争の和平を仲介したセオドア・ルーズベルト(シニア)大統領や、その長男でDデイのユタ・ビーチ初日に第4歩兵師団副師団長として岸を踏んだセオドア・ルーズベルト(ジュニア)准将がいる。そして民主党を支持する一族から出たのがフランクリン・ルーズベルトだった。セオドアから6代さかのぼらないとフランクリンとの共通の先祖がいないが、フランクリンの妻アンナ・エレノア・ルーズベルトはセオドアの弟の娘。


 ウィルソン大統領に重用され、1920年には副大統領候補になったが、すでに1919年の脳梗塞で重い障害を負っていたウィルソンは当選できなかった。ルーズベルトは1928年にニューヨーク州知事になった。ニューヨークでは貧しい市民たちに食糧などを与え、投票を依頼することが民主党の一派の政治利権のようになっていたが、そうした勢力とは若いころから距離を置いていた。1932年の大統領選でも、柔軟な妥協と提携で指名を勝ち取り(現職フーバー大統領は世界大恐慌のせいで再任困難だった)、ジョセフ・ケネディのように影響力と財力はあるが世評の良くない人物も巧みに利用した。


 (後の)枢軸国に対しては、アメリカ世論の高まりを慎重に待つ一方、戦争に備える人事や措置を着々と打って行った。イギリスは1935年から1945年まで下院の総選挙を避け、欠員を補欠選挙するだけにして政治空白を防いだが、アメリカも戦時異例の4選をルーズベルトに許すことになった。そして終戦直前に病死を遂げた。



ルッツ、オズヴァルド

Oswald Lutz

1876-1944


 原隊は鉄道工兵。第1次大戦後半には野戦軽便鉄道総監。戦後は主に自動車部隊に勤務し、1931年に交通兵総監( Inspekteur der Verkehrstruppen)となり、その参謀長にグデーリアンを迎える。ヒトラー政権下で1935年11月1日に初めての「戦車兵大将」となる。この前後に「 Kommandierender General der Panzertruppe」として、3個装甲師団の上に立つ軍団長格の指揮官を示す肩書を与えられた。この地位は後に第16軍団長として実体を得るが、1938年のオーストリア進駐ではまだ組織としての軍団司令部ができておらず、ルッツがグデーリアンの第2装甲師団に同行し「指導」するような形を取ったと思われる。その直後にブロンベルク=フリッチュ事件が起きてからは非戦闘任務で復帰と退役を繰り返し、最終階級はそのまま戦車兵大将。


 旧日本軍の交通兵は鉄道、通信、気球を取り扱う兵科で、それぞれ独立していったが、ドイツ軍の交通兵は車両部隊の隠れ蓑のように使われたようである。



ルーデンドルフ、エーリヒ

Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff

1865-1937


 原隊は歩兵連隊。実家は現在のポーランド領ポズナン近くにあり、ユンカー貴族が経営するような大農場だったが、富裕な商人だった先祖が買ったものであった。陸軍大学校当時はロシアを専門分野とし、ロシア語にも堪能となった。順調に出世し、参謀本部で課長を務めるようになると、配されたのは組織課で、対仏戦が始まった場合の動員計画を具体化する責任者となった(いわゆるシュリーフェンプランが、どれほど具体的・精細なものだったかについては議論がある)。大戦が始まると、歩兵師団長から軍司令部後方部長に転任した。ところが前線指導に出ているとき、出先の歩兵旅団長が戦死してしまい、指揮を引き継いでリェージュ要塞攻略を成功させてしまった。これで評価を高めたルーデンドルフは、東部戦線の第8軍に実力派参謀長として送り込まれ、退役から呼び戻されたヒンデンブルクがその上に座った。そして成功させたのが、名高いタンネンベルクの包囲戦だった。


 その後も、ファルケンハイン参謀総長が直率(じきそつ)した短期間を除いて、東部戦線の方面軍司令官として君臨していたが、ファルケンハインが失脚したためヒンデンブルクが参謀総長、ルーデンドルフが主席参謀次長として後任となった。ルーデンドルフは政治面でも力を持ち、国力を挙げての総力戦を指導した。


 敗戦直前、講和交渉から遠ざけられて失脚し、以後は政治活動が本職のようになった。カップ一揆にも参加したが実を結ばず、ミュンヘン一揆では失態もあったが、なおしばらくヒトラーの盟友だった。しかし陰謀論と神秘論が著作や演説で大きなウェイトを占めるようになると、政治家としては無力化していった。



フォン・ルントシュテット、ゲルト

Karl Rudolf Gerd von Rundstedt

1875-1953


 ルントシュテット家はベルリンから西へ100kmほどのシェーンフェルトに荘園と館(Schloss Schönfeld)を持っている一族である。祖父は当主だった。原隊は第83歩兵連隊(ヘッセン大公国第3)。当時の若い生徒によくあるように、小中尉のうちから乗馬本分の砲兵を希望したが学業成績が目覚ましくなく、歩兵を選んだと言われる。しかし頭角を現し、ボックとはほぼ同世代のライバルと目されたのか、大規模対抗演習の指揮官として対戦したこともあった。


 第2次大戦での活躍は本編で扱うことになるので略す。息子のハンス・ゲルトはベルリン大学で図書館員をしていたが応召し、戦史関係の仕事をしていたが父親の副官として登用された。1947年、まだ父子ともに捕虜収容所にいるとき進行したがんが見つかり、別れの機会がもうけられたが翌年亡くなった。



レーニン、ウラジーミル

Владимир Ильич Ле́нин(Vladimir Ilyich Lenin)

1870-1924


 この小説ではすでに過去の人。イリイチは父称で父の名はイリヤ。ロシアにも社会改良運動から無産者を主体とする革命を目指すものまで様々な改革勢力があったが、レーニンの一派は比較的徹底的に社会主義を押し通し、最終的には政権を握った。後ろ暗い部門のトップとして、スターリンを側に置き続けたが表看板にはできないと思っており、その矛盾はスターリンが政敵を次々に葬ることで解消された。



レイノー、ポール

Paul Reynaud

1878-1966


 フランスの政治家。レイノーの属する民主同盟(AD)はドイツへの強硬姿勢を主導し、ルール占領に踏み切った与党でもあったから、その失敗を受けて1930年代には低迷していた。ミュンヘン危機を経て対独強硬姿勢が再び支持を集めるようになり、1940年に(直接的には、フィンランドをソヴィエトから救えなかったことで)ダラディエ政権が倒れると首相となる。ド・ゴールを重用したが敗勢の中で政権を維持できず、北アフリカへの脱出も失敗してドイツに捕らわれた。



リッター・フォン・レーブ、ヴィルヘルム

Wilhelm (Ritter) von Leeb

1876-1956


 原隊はバイエルン野砲兵第4連隊。山砲兵小隊長として義和団事件鎮圧部隊に参加(おそらくヴァルダーゼーが率いた、大勢が決してから届いた部隊)。第1次大戦途中で歩兵師団作戦主任参謀として授爵し、リッター・フォン・レーブとなる。バイエルン王太子が指揮するルプレヒト王太子軍集団司令部に起用され、参謀少佐の身で最後には後方部長(Oberquartiermeister)となる。


 ヒトラー政権発足時には中将・第7師団司令官。第2次大戦ではすでに高齢であり、引退からの再招集を受ける。軍集団司令官を歴任し1940年7月に元帥。バルバロッサ作戦でも北方軍集団を任されるが、より有利な地形への撤退を具申して、1942年1月に解任される。



リー=マロリー、トラフォード

Sir Trafford Leigh-Mallory

1892-1944


 陸軍航空隊時代から対地協力関係のキャリアを積む。ただ『士官稼業』本編で語ったように、独立空軍としてイギリス空軍は航空優勢確立を第一義とし、対陸軍・海軍協力を二の次としなければならない宿命があり、その大筋を変えることができなかったリー=マロリーは、むしろ出世で損をしたと言えるかもしれない。


 ダウディングやバークを不遇のヒーローととらえ、それに対抗したショルトー=ダグラスやリー=マロリーをアンチヒーローとして描く「史観」は広く信じられており、おそらく英語版Wikipediaを通じてピクシブ百科事典にまで流れ込んでいる。しかし定年を過ぎて現場に残してもらうにはダウディングの若手とのコミュ力に少々問題があった……と考える方が、空軍に空きポストができるたびにチャーチルがダウディングを処遇しようとして空軍が全力で抵抗する繰り返しをよりよく説明できそうである。ただ、リー=マロリーの理屈っぽさを示すエピソードは、もともと法曹家志望だったことを思えば、一面の真実を含むのではないかと思える。


 リー=マロリーが戦闘機部隊司令官になった時期と、爆装戦闘機が地上支援の主役として認知された時期は、いろいろな経緯がぶつかり合って並行することになった。リー=マロリーが指導してそうなったとも、戦闘機部隊が地上支援を担うのでリー=マロリーが選ばれたとも考えづらい。


 東南アジア方面空軍司令官として赴任する途中、航空機事故で殉職。



レーム、エルンスト

Ernst Julius Günther Röhm

1887-1934


 大隊副官と連隊副官の両方を経験している。つまり若いころは陸軍大学校推薦候補として遇され(大隊副官)、結局それが見送られてから、連隊の記録と連絡網を任せられる実務能力は認められた(連隊副官)。第1次大戦末期にはバイエルン第12歩兵師団司令部で幕僚士官(Ordonnanzoffizier、師団に原則ふたりしかいない陸軍大学校卒の参謀士官を補佐する士官たちの総称)をつとめ、代理で補給主任参謀も務めている。つまり、有能さは認められているが、部隊指揮を任されていない。戦間期にも軍の外で非公然組織を束ねる立場になったのは、なにか指揮官としての危うさを上司に感じ取られたのだろうか。


 1928年から軍事顧問として雇われたボリビアは、当時すずの輸出が主要産業であり、すず鉱山主が隠然たる力を持つ一方、世界大恐慌の波をかぶって不穏になった。レーム在任中の1930年夏にもクーデターが起きた。レームはボリビアでドイツ情勢を慎重に見ていた。そしてヒトラーが突撃隊の若手を抑えるのに苦心し始めたころ、求めに応じて戻ってきた。その一方で、離任後もボリビアでの軍籍を休職扱いにしてもらっていた。


 結局、ヒトラーの成功に対して、レームが大きすぎる分け前を要求したことが1934年6月30日の粛正事件につながったと言える。



レメゾフ、ヒョードル

Fyodor Nikitich Remezov(Фёдор Никитич Ремезов)

1896-1990


 1938年から1940年までザバイカル軍管区司令官。第56軍司令官として、1941年11月にはロストフ・ナ・ドヌーを一時的に奪還する(ルントシュテットがこれを責められて辞任する)功績で顕彰される。その後は後方やトルコ国境での勤務となったのは、たびたびの戦傷が健康を害していたのかもしれない。



レント、ヘルムート

Helmut Lent

1918-1944


 1936年に空軍に入り、Bf110双発戦闘機のパイロットとなる。ノルウェー侵攻までに5機を撃墜。1940年9月、飛行隊丸ごとNJG1(第1夜間戦闘航空団)に転属させられて夜間戦闘任務に就く。飛行中隊長として自分のスコアがゼロで悩んだが、1941年5月にようやく夜間撃墜を記録。以後急速にスコアを伸ばし7月には12機(昼間含む)に達する。サーチライトを用いず、地上レーダー情報と肉眼で突起を見つけるのが当時最新の方法であった。


 11月1日に飛行隊長(大尉昇進までは隊長代行)。1942年に入ると1000機爆撃に代表される飽和的な攻撃が増え、地上レーダー1基が近隣の1機を誘導するヒンメルベッド・システムの限界が露呈する。次第に機上レーダー装備機が増える。1943年1月、通算50機撃墜を記録。8月1日付でNJG3の司令に補される。年末までに夜間だけで75機を撃墜しドイツ空軍トップとなる。


 1943年後半からツァーメ・ザウ戦法(Zahme Sau)が取られるようになる。ドイツ側も双発爆撃機に機上レーダーを積んで(集団としての)イギリス爆撃機の位置を追いかけ、チャフに邪魔されながらもいくらか有効な地上レーダー、各機の機上レーダーの情報も使って、夜間戦闘機が広域的にイギリス爆撃機集団に追いすがるもので、斜め銃との相性が良かった。


 1944年10月、エンジントラブルで事故死。最終スコアは111機だが最後の1機は不確実とされる。最終階級は中佐。



レンプ、フリッツ

Fritz Julius Lemp

1913-1941


 U30艦長であった開戦直後、(まだ)民間船を攻撃するなとの命令に反しイギリス客船アテニア号を沈めてしまう。撃沈の事実は終戦まで秘匿された。U110を駆ってOB-318船団攻撃に参加して爆雷を浴び、浮上してクルーを逃がした後の自沈に手間取り、エニグマ暗号機をイギリス海軍に回収されてしまう。その最期は自殺、射殺など諸説ある。



ロコソフスキー、コンスタンチン

Konstantin Konstantinovich Rokossovsky (Константи́н Константи́нович Рокоссо́вский)

1896-1968


 ジューコフの若いころからの戦友。大粛清で指を拷問で曲げられてしまったが、辛くも命は助かる。エジョフ内務人民委員の失脚後に解放され、機械化軍団長として独ソ戦を迎える。スモレンスク包囲戦では名目上の第4軍司令官として、集合できた部隊を率いて友軍の退路を確保する戦いに当たる。モスクワ攻防戦では第16軍司令官としてモスクワ~ルジェフ街道を守る。ドイツの夏季攻勢が始まった1942年7月にはブリャンスク方面軍司令官を任される。9月にドン方面軍が創設されると転任し、反撃作戦の間スターリングラードそのものを死守する役目につく。その後のスターリングラード掃討に中心的な役目を果たし、1943年1月に大将昇進。クルスク戦では中央方面軍司令官。のち第1ベラルーシ方面軍に改称され、そのままバグラチオン作戦に参加して元帥号を得る。しかしジューコフがベルリンへの攻め口を担当する第1ベラルーシ方面軍を引き継ぎ、ロコソフスキーは脇役の第2ベラルーシ方面軍に移される。戦後はポーランド国防大臣などを務める。



ロイド=ジョージ、デビッド

David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor

1863-1945


 苗字にはハイフンが入らないが爵位名にはハイフンが入る。第1次大戦の最中に弾薬大臣として容赦のない現場指揮で生産拡大を実現し、保守党の一部と連携して自由党のアスキス内閣を退陣させた。強権的なキャラクターで、戦争が終わると自由党そのものが小さく割れてしまう結果になった。当時自由党議員だったチャーチルがガリポリ作戦失敗で失脚していたのを大戦後半に再登用して、当時の連立内閣の陰の立役者だったビーウァーブルックとチャーチルの縁もつないだ。チャーチルはその息子であるグウィリム・ロイド=ジョージを閣僚に迎えた。



フォン・ロスバーク、フリッツ

Friedrich Karl ("Fritz") von Loßberg

1868-1942


息子のベルンハルトと合わせて解説する。


 原隊はプロイセン近衛歩兵第2連隊。第1次大戦を参謀中佐で迎える。1915年の大部分、ファルケンハイン参謀総長は東部戦線での限定攻勢にかかりきりで、西部戦線での防衛は小さなチームに任せていたが、ロスバークはその主要メンバーのひとりだった。


 1915年9月、ドイツ第3軍は優勢な連合軍に攻撃されて第2次シャンパーニュ攻防戦が始まり、ロスバーク大佐が撤退を上申した第3軍参謀長と交代する。これを皮切りに、危機に陥った軍司令部にロスバークが参謀長として赴任し、防衛戦を指揮することが繰り返される。攻めにくく守りやすい尾根のこちら側に布陣し、尾根を越えてきた敵を一方的に観測して撃ちすえ、迅速な反撃で元の位置を取り戻した。つまり「最前線より奥の防衛線が分厚い」ようにして敵に戦力配置を先にさらさせ、柔軟な進退で有利なチャンスをつかむのであった。


 戦後もライヒスヴェーアに残る。最終階級は歩兵大将。


 ベルンハルト・フォン・ロスバーク(Bernhard Viktor Hans Wolfgang von Loßberg、1889-1965)の原隊は近衛歩兵第2連隊。1939年4月からOKWのL課に配属されヴァーリモントに次ぐL課(国土防衛課)の幕僚となる。ノルウェーでナルヴィクのドイツ軍を(スウェーデン領に!)退却させようとするヒトラーの命令を独断で取り消し、ある意味で危機を救う。しかしメンツをつぶされたヒトラーは、陸軍総司令官になった1941年末、カイテルにロスバークを追い出すように命じ、因縁のノルウェー駐留ドイツ軍総司令部に飛ばされる。1944年5月、国際河川ドナウ川を管理する特別全権代表としてマルシャル海軍元帥が任じられたとき、その参謀長となる。健康が悪化し12月に予備役となり、大戦末期に南シュレジエン(現在のポーランド南西端)に駆り出された留守第8軍団(ブレスラウの第8軍管区司令部と傘下の訓練部隊)の参謀長をしばらく務める。



フォン・ロッソウ、オットー

Otto Hermann von Lossow

1868-1938


 原隊はバイエルン近衛歩兵連隊。陸軍大学校に進み、義和団の変では中国に遠征している(ドイツ陸軍は大部分が大勢が決したあと到着している)。オスマン帝国に派遣され、バルカン戦争と第1次大戦では主にトルコで勤務。最終階級は中将。第7師団長としてカールらのバイエルン州政府に味方し、ベルリンに従わない姿勢を見せた。ミュンヘン一揆でルーデンドルフが逃がしてしまった3人のひとり。カールは1934年に殺され、州警察長官のフォン・ザイザーは1933年から終戦まで強制収容所で暮らすことになったが、フォン・ロッソウだけは1938年、平穏にミュンヘンで死んでいる。



ロトミストロフ、パーヴェル

Pavel Alexeyevich Rotmistrov(Павел Алексеевич Ротмистров)

1901-1982


 ソヴィエト軍戦車部隊の重鎮。スターリンに専門家として信頼されていたことは、ずっと後になって刊行された(忖度すべき関係者がもういない)ジューコフ回想録にも触れられている。バグラチオン作戦では隷下部隊に大きな損害を出し、面目を失う。



ローマン、ヴァルター

Walter Lohmann

1878-1930


 ドイツ海軍大佐。海上輸送の専門家。ドイツ海軍秘密再軍備のための予算を預かっていたが、映画会社への投資などの予算流用や収賄が露見し、1928年に刑事訴追はされなかったものの軍を追われた。



ロンメル、エルヴィン

Johannes Erwin Eugen Rommel

1891-1944


 プロイセン以外に「自分の」軍隊を持つ3つのドイツ帝国領邦のひとつ、南西ドイツのヴュルテンベルク王国出身。原隊は歩兵だが、新設された山岳兵部隊で出世した。偉功を立てて平穏な戦線の司令部に配属されたが、性に合わなかったのか、陸軍大学校への推薦もなかった。戦間期には歩兵学校の教官を勤める期間が長くなった。著書『歩兵は攻撃する』を通じてヒトラーの知己を得て、戦間期の終わりごろには歩兵学校教員のかたわら、緊張が高まるたびに臨時編成される総統護衛大隊の指揮官を務めた。


 第二次大戦のための動員時期に「総統司令部」が創設され、常設された総統護衛大隊がその下についた。少将になったばかりのロンメルが総統司令部司令官として警護責任者となった。フランス戦では第7装甲師団長として数々の無謀な行動と友軍へのやらかしを含めて、また大功を立てて注目を浴びた。


 1941年1月、中将になった。リビア方面へは当初1個師団相当を送る予定であったが、2月のベンガジ陥落で第15装甲師団が追加されてドイツ・アフリカ軍団の創設が決まり、ロンメルが軍団長に任じられた。


 エチオピアのイタリア軍攻略などでイギリス軍が手薄になったことを見て取ったロンメルは、奇襲をかけてエジプト国境まで取り返したが、海から補給を受けるトブルク要塞だけは背後に残した。本土上陸の危機が去り、エチオピアをあらかた制圧したイギリス軍はエジプトに増援し、6月のバトルアクス作戦ではロンメルに守り切られたものの、11月のクルセイダー作戦では航空優勢も取ってロンメルを追った。


 ヒトラーはケッセルリング元帥の第2航空艦隊を地中海に増援し、逆にイギリス空軍は東南アジアへの増援を中東から出す羽目になった。1942年1月、ロンメルは再びエジプト国境を目指して進んだ。


 前年のトブルクの維持はイギリス海軍にとっても重荷であり、「二度とああいう使い方はしない」ことになっていた。それを改めて持久体制に持っていくには防衛組織を再編成する必要があった。これがうまくいかず、ちょっとした凡ミスの連打でトブルク要塞は失陥した。後方のとげがなくなったロンメルは元帥号を受け、大挙してエジプト国境を越えた。ケッセルリングはマルタ島攻略が先だという意見だったがロンメルは意に介さなかった。


 アメリカは自軍に交付するはずだったシャーマン戦車と砲を、ようやく安全になった紅海航路に向けた。1942年夏のドイツ空軍に、アフリカに増援する余裕もなかった。エル=アラメインで守りに入ったロンメルの地雷原を、十分な砲弾をもらったイギリス軍は掘り返し、ロンメルは敗走した。


 1942年も終わろうとしており、アメリカは選挙民の手前、イギリス軍とともにどこかに上陸しないわけにもいかなかった。フランス領の北西アフリカに対するトーチ作戦が始まり、現地のフランス軍が抵抗しなかったことを理由に、ドイツはフランス領チュニジアを防衛拠点として占領した。かつてフランス軍がリビアのイタリア軍に備えていた陣地帯は、そのままロンメルがイギリス軍と対峙(たいじ)するために使われた。


 ロンメルは新米のアメリカ軍を相手に気を吐いたが、チュニジアに送り込まれた部隊の将帥たちにとっては煙たい存在であり、ヒトラーもチュニジア戦線の行方について悟るところがあったのか、報告に戻ったロンメルを本国に引き留めた。


 ロンメルのB軍集団はもともと、もう向背(こうはい)の定かではないイタリアの北半分を威圧し占領する部隊であると同時に、シシリー島からの撤退が失敗などした場合にイタリア防衛の後詰を務めるものであった。この点では陸軍部隊の指揮を任されたケッセルリングはうまくやり、ヒトラーの信頼を回復して、改めて南西総軍司令官としてイタリア防衛責任者となった。ロンメルとB軍集団はよそに行かなければならなくなった。


 ロンメルのB軍集団は海岸防御の責任者として、ルントシュテット元帥のD軍集団から第7軍・第15軍など部隊のほとんどを引き継ぎ、それらの部隊については西方総軍司令官を併任するルントシュテットの全般的指揮に服することとなった。そして1944年、オーバーロード作戦を受け止めて奮闘中、ロンメルは乗車が機銃掃射を浴びて重傷を負った。


 めきめき回復していたロンメルだったが、ヒトラー暗殺事件への関与を疑われ、「ヒトラーと直接対面して弁明するか、さもなくばこれを」と毒薬を携えた使者から手紙を渡された。手紙はヒトラーに命じられたカイテルが書いた。ロンメルは毒薬を呑んだ。



ワシレフスキー、アレクサンドル

Aleksandr Mikhaylovich Vasilevsky(Александр Михайлович Василевский)

1895-1977


 第1次大戦では志願して下士官教育を受ける。戦場で大尉まで昇ったが革命後は郷里で教師となる。だが赤軍に徴兵され、組織指導者としての才を示す。大粛清期に参謀本部で士官教育担当者を命じられる。のち作戦課長代理に転じ第2次大戦を迎える。かねてシャポーシニコフに重用されジューコフからの評価も高く、作戦課長を経て1942年夏からシャポーシニコフの後任参謀総長。スターリン晩年の国防大臣を務めたが、その死後は実権から遠ざかった。最終階級は元帥。




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