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不屈の葵  作者: ヌマサン
第4章 苦海の章
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第99話 黄雀風

 曇天模様の午の刻であった。織田信長が善照寺砦に入ったことを前線に配備されていた佐々隼人正(はやとのかみ)政次、千秋(せんしゅう)加賀守季忠(すえただ)の両名が知ったのは。


「千秋加賀守殿!殿が善照寺砦に入ったそうな!」


「佐々隼人正殿か!丸根砦と鷲津砦の救出は叶わなかったが、中島砦の救援に向かわれるつもりであろう。これは我らもうかうかしてはおられぬぞ!」


「ここには約三百の兵がおる。長坂道を進んできておる数千の今川軍に突撃し、敵将の首を挙げてやろうぞ!」


「そうじゃ、敵は多勢ゆえ油断しておろうで、そこを不意打ちして退却させれば、殿もさぞかしお喜びになられることであろう!」


 両名は頷き合って長坂道を通って中島砦を目指している朝比奈丹波守親徳を筆頭とする今川軍に対し、正面から襲いかかった。


 よもや、十分の一にも満たない小勢で正面からぶつかって来るとは思わなかった今川軍はこれに驚き、じりじりと押されつつあった。


「朝比奈主計助殿!」


「おう、久野元宗殿ではござらぬか」


「苦戦とお見受けし、援軍に参りましたぞ」


 今川軍の前衛隊が一部隊列が崩れていると見てとった久野勢が援軍に駆け付けた。そのことに少々苛立っていた朝比奈主計助は冷静さを取り戻した。


「おお、助かった。先ほど、敵の左側面に岡部甲斐守が隊を回り込ませたゆえ、それまでの辛抱じゃ」


「然らば、某は右手より敵を攻めまする!見たところ、藤枝伊賀守が隊だけでは兵数が足らぬでしょうゆえ」


「久野殿はまこと細かい点に気づかれる方じゃ。うむ、然らば右手よりお頼み申す!」


「任せよ!」


 勇敢な久野勢が藤枝勢と合流し、右手から。対する左手から岡部勢が仕掛ける気を見計らう中、朝比奈勢は奮戦して持ちこたえる。


 一見すると織田方の佐々隼人正と千秋加賀守が優勢に見えるが、着々と反撃の布石を打つ今川方の方が一枚上手であった。


 そんな佐々勢と千秋勢の独断専行は善照寺砦の信長の元へもただちに伝えられることとなる。


「ちっ、貴重な数百の兵を犬死させる気か!」


「殿、たしかに両名の無断での開戦は許されることではございませぬ!されど、見方を転じれば、敵前衛の眼を釘付けにする好機ではございませぬか!」


「岩室長門守!」


「はっ、出過ぎたことを申しました!」


「よい」


「はっ?」


「そなたの申すことは道理にかなっておる。こうなったからには敵前衛の注意を引いてもらうこととしよう。岩室長門守、数十騎しか与えてやれぬが、ただちに両名の加勢に向かえ。そして、うんと今川の前衛を苦戦させてやれ!」


「は、ははっ!」


 かくして岩室長門守重休が佐々隼人正・千秋加賀守の援軍として派遣された。そして、信長もこの機を逃すまいと行動を開始する。


「佐久間右衛門尉!」


「ははっ!これにおりまする!」


「ここには五百の兵を残す!おれは選りすぐった一千を引き連れて中島砦へ向かう!良いか、たとえ中島砦が業火に包まれようとも、ここの守備を解くことはまかりならん!死守するのだ、良いか!」


「しょ、承知いたしました!何があろうと、殿がお戻りになるまで、この砦を死守いたしまする!」


 佐久間右衛門尉の覚悟を帯びた眼差しに、満足げに頷く信長。そんな彼は直ちに愛馬疾風へ騎乗し、号令を発する。


「ここへ来るまでに大勢の者が討ち死にした!おれはその弔い合戦をしたいと思う!だが、おれのために戦った勇者たちを討った者らにではない!その憎い奴らが崇めてやまぬ今川義元の首を取る!そのために、最前線の中島砦へ向かう!続けっ!」


 そう言い終わるなり、愛馬に一鞭くれて砦を飛び出していく信長。そんな二十七の若き当主に置いていかれては、と懸命に一千の織田の精鋭が続いていく。


 そうして正午。信長率いる織田の精鋭一千は中島砦へ入った。


「と、殿!よもやお越しになられるとは……!」


「おう、梶川平左衛門尉!それに、梶川七郎右衛門もおるか!」


 信長一行を出迎えたのは緊張した面持ちで鎧兜を身に纏う中島砦の守将・梶川平左衛門尉高秀と、二十三歳になる平左衛門尉の弟・七郎右衛門一秀の兄弟であった。


「殿、西より鷲津砦を攻め落とした朝比奈勢と三浦勢、そこに大高城の鵜殿勢を加えた数千もの兵がこちらへ向かっておりまする!ここに殿がおることが敵方に知れては一大事にございまする!ただちに、善照寺砦までお戻りくだされ!」


「無用の気遣いじゃ。この信長、これより死地へと赴くのだ」


「し、死地……!?よもや大高城方面より向かってくる敵か先走った佐々隼人正や千秋加賀守が戦う今川軍本隊の前衛へ突撃なさる御所存ではございませぬか!?」


「このたわけ、それ以外にも死地があろうに」


 満面の笑みの信長に『たわけ』と断じられた梶川平左衛門尉であったが、それでも信長の言う死地とは何処にあるのか、皆目見当もつかなかった。


「おれからお主ら兄弟に申すことはただ一つ。何があろうとも、この中島砦を死守せよ。さすれば、熱田の神々が味方する、この信長が助けてみせようぞ」


「な、なんと……!?」


「よいか、ここで兵らを四半刻休ませたいが、良いか」


 梶川平左衛門尉としては兵らを休ませたいという信長の意向に従うほかはない。そんな中、弟の七郎右衛門より朝比奈勢は半刻もすれば殺到することになるゆえ、それまでには砦を出る方が良いと忠言したのであった。


 信長は梶川七郎右衛門からの忠言を聞き入れたうえで、兵士らに最後の休息を取らせる。


 そんな折、先走った織田勢三百に十倍以上の数で応じる今川軍の反撃が開始されようとしていた。


「岡部様、敵の包囲が叶いました!」


「よし、今じゃ!かかれ!敵勢はこの岡部甲斐守長定が手で仕留めてくれるわ!」


 自ら太刀を抜き払い、手勢と共に織田兵の横っ腹を突く岡部甲斐守。


「むっ、我らも後れを取ってはならぬ!行くぞ!」


 反対側よりそれを視認した藤枝伊賀守も動き、見事に織田勢が挟撃されることとなった。この藤枝勢の前進に、久野勢も続く形となり、一気に織田方劣勢となる。


「千秋加賀守殿、これはまずいことになった」


「ぐぬぬ、佐々隼人正殿。いかがいたす!」


「いかがもなにも奮戦するよりほかはない!」


 戦場のど真ん中で怒鳴り合う佐々隼人正と千秋加賀守のもとへ、信長の命を受けて援軍に駆け付けた岩室長門守が合流する。


「これに来たるは岩室長門守ではないか!」


「ご両名!ご無事でございましたか!ささっ、態勢を立て直しまするぞ!殿より借りてきた種子島がござる。遠慮のうお使いくだされ!」


「おお、かたじけない。これにてもうひと踏ん張りじゃ!千秋加賀守殿は藤枝勢と久野勢を、岩室長門守殿は岡部勢を頼みまする!某は正面の朝比奈勢を引き受けまするゆえ!」


 それぞれ持ち場を決めて陣形を組みなおし、防戦に努める織田軍。そこからは粘りに粘る尾張武士、意地の戦いが展開される。


「なんの、たかが敵が数十増えただけじゃ!怯むな!」


 苛立った岡部甲斐守であったが、怒鳴り散らす頭部が織田軍の正面を向いた刹那、弓を引き絞っていた岩室長門守より、文字通り一矢報いられることとなった。


「岡部様!?」


「ぐっ、お、おのれぇ……」


 鎧を貫通し、胸板に突き刺さる一本の矢。大将がそのような状態で落馬したこともあり、攻め手の岡部隊の勢いが弱まる。その間に、岩室長門守はわずかばかりの手勢ともとに暴れまわり、一度退けることに成功する。


「おい、岡部隊が押され出しておるぞ!」


「何っ!」


 久野元宗の言葉を聞いた藤枝伊賀守はキリキリと歯を噛み鳴らした。冷静さを欠く藤枝伊賀守を手で制した久野元宗は一度後退し、態勢を立て直すことを提案する。


「じゃが、それでは……!」


「藤枝殿が申したきこと、よく分かっておりまする。されど、左のお味方が崩れた以上、右にいる我らだけが力押ししたとて、さほど効果はありますまい」


「ぐぬぬ、久野殿が申される通りか」


 かくして、藤枝勢と久野勢も一度退く決断をした。しかし、それをみすみす逃すような千秋加賀守ではなく、自ら槍を取って追い討ちを仕掛けていく。


 そして、佐々隼人正が引き受けた正面でも戦況の変化があった。


「主計助!これはいかなる仕儀じゃ!」


「これは丹波守殿!いや、なかなか織田兵も手ごわく、切り崩しに手間取っておりまする」


 兜を小脇に抱え、朝比奈主計助が元へ現れたのは前衛隊を指揮する朝比奈丹波守親徳その人であった。日に焼けて黒くなっている強面な豪傑に詰め寄られるのだ。朝比奈主計助もやりづらいことこの上なかった。


「よし、かくなるうえは儂自ら前線で采配を執り、織田の弱兵どもを蹴散らして見せる!」


 そう豪語するや否や、傍らに控える家臣・江尻民部少輔親良から愛用の長槍を受け取ると前線へと出撃していく。こうなっては、火のついた老練な武将を止めることなど、総大将である義元以外は不可能であった。


「せいっ!」


「うぐっ!」


 織田家の当主が先代信秀であった頃に起こった小豆坂の戦いでも数多の武功を挙げてきた武闘派の朝比奈丹波守。前線で槍を振るえば、たちまち織田兵を屠っていく。だが、突如として狙いすました銃声が轟く。


「殿!」


「むぅ……!不覚!足を撃たれたわ……!」


「殿!ここはお下がりくださいませ!ひとまず、沓掛城にて手当てを!采配はこの江尻民部少輔が預かりまするゆえ!」


「ちいっ、やむを得ぬか。ならば、一刻も早く手当てして戻るゆえ、それまで我が隊の指揮を頼む。じゃが、他の将には儂が鉄炮傷を受けたことは内密にせよ。前衛隊の士気に障るゆえな」


「ははっ、しかと心得ました!」


 頼れる家臣・江尻民部少輔へ采配を委ねると、朝比奈丹波守は戦線を離脱。そのことは朝比奈主計助のほか、一部の者を除いて知らされず、緘口令が敷かれた。


「佐々様!お見事にございまする!」


「ははは、一手の大将らしき武士に鉄炮玉を浴びせてやったぞ!それそれ、担がれて下がっていくわ!今ぞ、押し出せ!」


 朝比奈丹波守を狙撃したのは佐々隼人正であったが、さすがに撃った相手が朝比奈丹波守という大物であることには気づいておらず、そのまま朝比奈主計助が守りを固める敵正面へと猛攻を仕掛けていく。


 兵力が劣るものの、今川軍と一進一退の攻防を繰り広げる織田軍。しかし、今川軍とて黙ってやるはずもなく、反撃が開始される。


「今じゃ、放て!」


 久野元宗の号令一下、雨あられと弓矢が放たれる。それに続くように、藤枝伊賀守の隊からも追い討ちしてくる織田兵へ矢が浴びせられる。


「怯むな!突き進めっ!う、うぐっ!」


 刀を振り回しながら味方を鼓舞していた千秋加賀守であったが、喉元を久野勢が放った矢に射抜かれ、あえなく絶命。寄ってたかって、その首を挙げられ、今川義元の本陣へと送られた。


 そうして、朝比奈勢に一歩も退かず挑みかかる佐々隼人正であったが、左大腿部に矢を受けて落馬してしまう。


「我は今川家臣!朝比奈主計助秀詮なり!」


「おう、我こそは織田家臣、佐々隼人正政次じゃ!いざっ!」


 互いに槍をしごいて文字通りの死闘を繰り広げる。互いに戦場で鍛え抜かれた武士、そう易々と決着はつかなかったが、最後は手傷の具合が勝敗を分けた。


 朝比奈主計助が放った横薙ぎの一閃を受けてうつ伏せに倒れ込む佐々隼人正。これにて勝敗は決まった。


「佐々隼人正が首、本陣におられる太守様のもとへ」


「ははっ!」


 かくして残る武将は岩室長門守のみとなったが、残兵を糾合して、これまた見事に今川軍の攻撃を凌ぐ奮戦ぶり。


 苛烈を極める戦場で自らも数多の手傷を負い、幾筋の矢を受けながらも太刀を振るって今川兵を斬り伏せていく。


「こやつ、不死身か……!」


 そうつぶやいた今川兵を叩き伏せる岩室長門守。そんな彼をあざ笑うかのように、今川軍は数を活かして攻勢を強めていく。


 そんな今川軍の本陣へ、前衛部隊から千秋加賀守季忠と佐々隼人正政次の首級が届けられ、それは義元にも献じられた。


「おう、血迷って白兵戦を仕掛けてきた織田軍の武将を討ち取ったか!でかした!これはめでたい!由比美作守!」


「ははっ!」


うたいをうたわせよ。これはめでたきことじゃ。実に幸先いいことである」


 義元に呼び出され、指示を受けた由比美作守正信。その由比美作守の伝達により、謡がうたわれ、戦勝ムードとなっていく。だがしかし、義元は油断することなく、各隊にはむしろ警戒を強めるよう厳命した。


「松井左衛門佐と井伊信濃守、これへ」


 厳粛な面持ちの義元に呼び出され、松井左衛門佐宗信と井伊信濃守直盛へ新たな命が下されようとしていたのである。

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